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世界は欧米諸国(あるいは英米イスラエル)による「ステルス支配」をされている

スー・チーについては、彼女がミャンマーの「民主運動の星」的扱いされていた時点から、私は彼女が英国の「草」であると指摘していた。軍事政権に監禁されていた時も、軍事政権自体が英国の傀儡政権であり、彼女が本当に危険な存在なら監禁されるのではなく殺されているはずだ、と指摘している。案の定、その軍事政権は平和裏に彼女に政権を移譲したわけである。そして政権を手に握った後の彼女の独裁者ぶりはご承知の通りだ。
要するに、世界の旧植民地は、独立運動を経て独立したことになっているが、実際には元の宗主国による遠隔操作、ステルス支配になっているのがほとんどだ、と私は見ている。パキスタンなどはそれが露骨だが、東アジアやアフリカ諸国の中で本物の独立国は無いのではないか。




(以下引用)



スー・チー氏の人権賞撤回 「失望」とアムネスティ


ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相(AP=共同)© KYODONEWS ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相(AP=共同)

 【ロンドン共同】国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は12日、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相に授与していた人権賞を撤回すると発表した。イスラム教徒少数民族ロヒンギャに対する迫害やメディア弾圧を阻止しなかったことに「大いに失望した」と批判した。


 同氏を巡っては1991年に受賞したノーベル平和賞の剥奪を求める声も一部で上がっている。


 アムネスティは、スー・チー氏が民主化運動指導者として軍事政権に軟禁されていた2009年、人権擁護で活躍した人に贈る「良心の大使」賞の授賞を決め、軟禁解除後の12年に手渡していた。





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失われた30年

GDPのマイナス成長について調査会社各社の分析が

要因について各社は、台風21号で関西空港が浸水被害を受け一時閉鎖されたことや、北海道で震度7の揺れを観測した地震など、相次いだ自然災害で外国人旅行者による消費や輸出が落ち込んだためだと分析しています。

ということなのだが、「外国人旅行者による消費」や「輸出の落ち込み」のうち、後者は自然災害とはあまり関係が無いことだろう。関空が使えなければ臨時的に他の空港を使うとかしないのか。そもそも、関空が使えなかった期間というのはGDPに影響を与えるほどの長さだったのか。まあ、そうであったとしても、前者はそれこそ、そんなのが日本のGDPに影響を与えるほど巨大な金額になっているのか。もしそうなら、日本という国は奈良時代や平安時代の遺物で食っていくだけの国になったということになるのではないか。まあ、外人観光客は奈良や京都だけに行くわけでもないだろうが、近代的都市が見たければ東京などより欧米の首都に行くだろう。今では、秋葉原の魅力も外人にとっては薄れただろうし。
要するに「真に生産的な産業」というのが、もはや日本には無い、ということではないだろうか。1990年代以降に日本が新しい何かを生み出したということはあるのか。
今ではアニメや漫画や観光だよりだが、そのアニメや漫画も中国などに近いうちに追い抜かれるという予測もある。結局、観光だよりとなれば、古代からの建築物や、自然の美だけが日本の「資産」であり、近代日本や現代日本が生み出したものは何も無い。
まあ、それもこれも1990年代以降の日本の政治の当然の帰結である。
失われた10年どころか、実は失われた30年なのだ。


(以下「ネットゲリラ」より引用)






GDPがまたしてもマイナス、というんだが、アベシンゾーの治世が続く限り、こうして少しずつ空気が抜けたタイやみたいに萎んでいく。おいらチャリ乗りなんだが、タイヤの空気圧が下がるとギア比が一段違ったみたいに重く感じるね。もうタイヤの空気がスカスカで、漕いでも漕いでも進まない。それがアベシンゾーの日本です。

民間の調査会社10社の予測によりますと、ことし7月から9月までのGDPの伸び率は、物価の変動を除いた実質で前の3か月と比べてマイナス0.5%からプラス0.0%となっています。
要因について各社は、台風21号で関西空港が浸水被害を受け一時閉鎖されたことや、北海道で震度7の揺れを観測した地震など、相次いだ自然災害で外国人旅行者による消費や輸出が落ち込んだためだと分析しています。

いくら資本家のところにカネを集めても、資本家そのものには生産性は皆無なので、社会は発展しない。アタリマエだ。国民は日々を過ごすだけの端した金で、世代を再生産する事すら儘ならぬ。登り詰めたらそこでオシマイ。アジアの貧民には未来があっても、日本の国民に未来はない。



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ノーベル経済学賞(笑)という詐欺

孔徳秋水氏のブログから転載。長いので前半と後半はカット。
長いので、感想も省略。面白い記事であるとだけ言っておく。

(以下引用)





ノーベル経済学賞は、スェーデンの中央銀行が、1968年に設立した。 



もともとのノーベル賞設立に遅れること73年。正式名称は… 



『アルフレッド・ノーベル経済学賞スェーデン国立銀行賞』



 



( °0°)ええ~!!!ノーベル個人とは無関係なんだ…え?商標の盗用にはならんのかな? 



(--)b 当然のことながら?ノーベル一族は、「遺言にはなかった!」とこれを不承認にした!



 



(-。-) んなもんで、ノーベル経済学賞だけは、ノーベル財団から一銭も出ていない。 



(°0°)ノ 銀行がカネを出している!!……しかも……



 



ノーベル賞設立100周年となった2001年には、ノーベル兄弟の四人のひ孫たちが、



 



「経済学賞はノーベル賞の品位を落とす」という趣旨の手紙をスェーデンの新聞に公表している。



 



 



ひ孫の中には、もっと辛辣に、



 



「ノーベル経済学賞は、経済学者たちが自分たちの評判を上げるためのPR活動だ…



 



株式市場の相場師に授与されることが多くて、人類の状況を改善するというノーベルの精神を反映していない」



 



とメディアに語っている者もいる。



 



スェーデン国立銀行が経済学賞を創設したのには政治的背景があると言われる。



 



60年代のスェーデンの金融やビジネス業界は「自由市場経済」に強い関心をもっており、 



中央銀行への政治的介入や管理を緩めたいと考えていた。 



そのために、経済学、とくに「自由市場経済」の考え方に科学的信頼性があることを主張したかった。



 



(-_ー) ふむふむ…そんなものないのに…ってことだよね?…



 



 



だからこそ、賞の名前における「経済学」は、単に economics ではなく、economic science にしたと言われる。



 



(°0°)ノ サギだ~ペテンだ~インチキだ~



 



受賞者は圧倒的に米国人が多く、なかでも自由市場経済を信条とした新古典派経済学の流れをくむシカゴ大学出身の学者が多いのには、それなりの意味があると解釈されている。



 



(-。-) ちっ…シカゴ大学って、モチカケみたいな大学なんだ…



 



>1974年のノーベル経済学賞を受賞したフリードリッヒ・フォン・ハイエクは、政府の経済への介入を批判し、中央銀行の独立を強く支持する自由主義者だった。

 



当時、経済学者としての経歴はすでに終わっており、世間から忘れられた存在だったハイエクが選ばれたのは、そういった政治的理由があるからだとみなされた。



 




 


(以下略)



 

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消費税増税が不要である理由

「逝きし世の面影」から転載。
長いし面倒な文章なので詳しく読んではいないのだが、日本は資産を膨大に持つ国であり、財政破綻の懸念は無いのだから、日本政府が消費税増税をする根拠は無い、という点だけ読み取ればいいのではないか。
要するに、大資産家である人間が、自分の老後のための資金が無いからというアホな口実で、自分の所有する会社の社員の給料をカットするような話であるわけだ。


(以下引用)




『IMFが公表した日本の財政「衝撃レポート」の中身を分析する』それでも消費増税は必要ですか

やっぱり日本のメディアは報じないが
…2018年10月15日 髙橋 洋一  経済学者 嘉悦大学教授

消費増税の足音が近づいてきているが、前回の本コラムでは、消費増税前に、政府保有株の売却などやるべきことがあると指摘した。今回その続きとして、IMF(国際通貨基金)が公表した重要なレポートを紹介しよう。
先週指摘したように、IMFは財務省出向職員が仕切っている側面もあり、単なる財務省の代弁としか言いようのないレポートもあるのだが、財務省の出向職員があまり手を出せないスタッフペーパーのなかには、いいものもある。
今月公表された「IMF Fiscal Monitor, October 2018 Managing Public Wealth」である。
これは、各国の財政状況について、負債だけではなく資産にも注目して分析したものだ。
このレポート、海外メディアの注目度は高い(2018年10月13日ロイター  日本の純資産はプラマイゼロ、IMFの新国富論)が、日本のメディアではさっぱり取り上げられない。
グラフをみれば一目瞭然
当該のIMFレポートでは、主に一般政府(General Government)と公的部門(Public Sector)のバランスシートが分析されている。
一般政府とは中央政府(国)と地方政府を併せた概念である。一方の公的部門とは、中央銀行を含む公的機関を含めたものだ。


2ページの図1.1では、比較可能な国の「公的部門バランスシート」でのネット資産対GDP比がでている。
それによれば、日本の公的部門のネット資産対GDP比はほぼゼロである。これは、筆者の主張と整合的だ。まあ、こんな話は誰が計算しても同じである。
「巨額な借金で利払いが大変になる」というが、それに見合う「巨額な資産」を持っていれば、その金利収入で借金の利払いは大変ではなくなる、という事実だ。
このため、日銀の保有する国債への利払いは、本来であればそのまま国庫収入になるが、それを減少させる日銀の当座預金への付利を問題にしているわけだ(詳しくは先週の本コラムを見てほしい)。
ギリシャ、イタリアと比べても…

続いてIMFレポートでは、一般政府バランスシートでのネット資産対GDP比も分析している。7ページの図1.4である。
ここでも、日本は若干のマイナスであるが、ギリシャ、イタリアと比べるとそれほど悪くない。
IMFレポートでは、どのような財政運営をすると、ネット資産がどのように変化するか、という分析を行っている。例えば、単に赤字国債を発行するだけだと、ネット資産は減少するが、投資に回せばネット資産は減少しない。その投資が生きれば、ネット資産は増加する……といった具合だ。
昨年来日したスティグリッツ教授が、経済財政諮問会議の場でも「日本の財政負債は大半が無効化されている(から財政破綻にはならない)」といっている。
「スティグリッツが間違っている」なら、スティグリッツに手紙を書き謝罪文をもらうべきだが、いまだに、スティグリッツから謝罪文がきたという話は聞いていない。
すり替え、が始まった
財政破綻を理由にして消費増税を強行するのだろうか。
IMFレポートをみれば、財政破綻というロジックが使えなくなったことは歴然なのに……。と思っていたら、増税派は「財政破綻を回避するために」という論法ではなく、「将来の年金など社会保障のために増税すべき」と、新しい言い方に変え始めている。これには失笑するほかない。
何より、社会保障財源として消費税を使うというのは、税理論や社会保険論から間違っている。大蔵省時代には、「消費税を社会保障目的税にしている国はない」と言い切っていた。デタラメに、まだ財務省がしがみついている。
(抜粋)

『IMF衝撃レポート「債務超過でない日本」を取り上げているのは窃盗常習犯疑惑の高橋洋一と、婦女暴行疑惑の菅野完の2人だけ、』(しかもネット内だけ、ごく狭い範囲だけ)

小泉純一郎や竹中平蔵の経済ブレーンだった元大蔵官僚の高橋洋一は『消費税増税』に反対しているが、(多くの人々が勘違いしているが)実は御用学者の筆頭で『フクシマの放射能は安全・安心。何の心配もない』との能天気な大馬鹿者(正真正銘のヒトデナシ)である大阪大学の菊池誠やマクロ経済学者を自称する池田信夫が、消費税増税に対しては明確に反対していたのである。(10月15日の高橋洋一の驚きのIMF衝撃レポート『債務超過でない日本』はサブテーマで、どちらかというと『消費税反対』がメインの主張だった)


元NHK職員で悪魔の碾き臼『新自由主義』命の、あの池田信夫ですが2014年の消費税8%増税時に、日本共産党(赤旗)や志位和夫以上に消費税の持つ恐ろしい問題点については詳しく正確に、しかも誰にも分かり易く解説していたのですから驚くやら呆れるやら。
『アベノミクスはネズミ講(出資金詐欺)浜田宏一内閣参与が断言』
2014年11月27日 | 経済




★注、
今回、ネット上だけに存在する『債務超過ではなかった日本』(プラスマイナスゼロ)との不思議なIMF衝撃レポートですが、これはそれぞれの国家の負債と資産を取り上げたものであり、アメリカなど日本以外の世界の国々は一つの例外も無く国家と企業と個人の経済状態はほぼ連動して動いている。(国家が赤字なら同じ程度に企業も個人も赤字だった)
ところが、わが日本はGDPの2倍を超える1000兆円以上の赤字の国家財政とは逆に企業も個人も大幅な黒字だったのである。
日本では何十兆円もの年金資金をアベノミクスの株取引(バクチ)につぎ込んで無理やり株価を吊り上げて政府自民党の支持率を上げているが、そもそも外国の年金の支払いは現役世代が支払った数ヶ月分の掛け金で運用している。しかし、日本は数年分もの膨大な年金資金をため込んでいた。(日本は『金あまり』状態なので、不真面目にもバクチをおこなっていたのである)

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70歳まで働かされる残酷さ

私は、「老人とは身体障害者だ」という考えなので、国民を65歳過ぎても働かそうという政治は国民虐めであるとしか思わない。
老人でもできる仕事とは国会議員とか村会議員くらいだろうwww
国会で居眠りしていれば莫大な俸給が貰える仕事なら、老人でもできる。

定年後も働いている人間の割合が英国やドイツでは20%以下であるという、下の記事にある数字が欧州全体に通用するものかどうかは分からないが、それこそが人間らしい生き方であるのは明白だ。(江戸時代の「隠居」というシステムも、老人は若い人と同等には働けないという知恵を活かした習慣だろう。もちろん、それは農民にまでは及ばなかった習慣だろうが。)
そもそも、職場に老人がいれば、しかもそれが上司だと、若い人たちには出世の邪魔になるだろうし、「身体障害者」がやる仕事など若い人には自分たちの仕事の邪魔だろう。いや、これは身体障碍者を愚弄しているのではない。老化による身体障害は必然なのである。そして身体障害者が健常者と同じ働きを要求されることは残酷物語だと言っているのだ。つまり、障害者の権利問題なのである。

なお、下の記事の「人生100歳時代」というのは何の根拠があるのか知らないが、80歳どころか70歳くらいから既に病気で寝た切りになって、そのまま生き続けている人間は「人生100歳時代」だと喜んでいるだろうか。


(以下「日刊ゲンダイ」電子版から引用)


年金カット、低賃金…「70歳まで働く社会」の悲惨な風景

公開日:

 安倍首相は3選を決めた直後の10月5日、首相官邸で開催された未来投資会議でこう語った。

「生涯現役社会の実現に向けて、意欲ある高齢者の皆さんに働く場を準備するため、65歳以上への継続雇用年齢の引き上げに向けた検討を開始します」

 つまり、65歳定年延長どころか「70歳まで働かせる社会」をつくる「政府方針」を明らかにしたのだ。

 高齢者の雇用年齢の引き上げは始まっている。5月末には空調事業の大手ダイキン工業が、定年を60歳から65歳に引き上げ、希望すれば70歳まで再雇用する方針を発表した。いよいよ、70歳まで働く雇用政策が現実化しつつあるのだ。

 人生100歳時代を迎える中で、より長く働くことはいいに違いない。しかし、70歳まで働かされるということは、年金の受給開始も70歳からになることがセットになる。政府の狙いがそこにあるのは明らかだ。


 70歳まで働く社会はどうなるか――。経済アナリストの森永卓郎氏が言う。

「今、70歳定年がある民間企業はほぼ6分の1で大部分は再雇用、勤務延長で、給与は半分から3分の1に下がります。今後は人手不足から外国人労働者が導入され、さらに賃金水準は下がる。しかし、年金支給が遅くなるため低賃金でも働かざるを得ない。そんな社会になるということです」

 安倍政権になり、人口減少から就業者は増えたが、急増したのは低賃金で働く高齢者だ。では、定年後の高齢者はどんな仕事をしているのか、再雇用の現場について、大手電機メーカー幹部がこう言う。

「役職定年者はまず人材開発関連の子会社に移り、そこで再雇用の会社を紹介されます。しかし、キャリアを生かせる仕事はほとんどありません。中にはグループ会社が手掛ける現場の交通整理の仕事を斡旋される人も少なくありません」


さらに、再雇用されても、現場の社員は元管理職に遠慮し、一方、元管理職は現場に口出しするなど、部署内の環境はギクシャクしてくるという。

 データブック「国際労働比較2018」(労働政策研究・研修機構)によると、65歳以上の男性労働力率は日本は31.7%、米国24.0%、英国14.4%、ドイツ9.3%だ。すでに日本人は十分働いてきているのだ。

「65歳を過ぎれば肉体的にもきつい。それでも生きていくため、低賃金でも必死に働かなければならない社会になるんです」(森永氏)

 70歳まで働かされる働き方改革で、老後の豊かな生活が待っているとは思えない。




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新規事業者はなぜ潰されるか

「東洋経済オンライン」記事の一部だが、地方における新規事業の困難性について、周囲の虐めやビジネス簒奪の中身が分かって面白い。私にとって特に面白い頁だけ抜粋した。
ただ、こういう記事というのはどれだけ客観性が担保されているのか、外部からは分からないので記事筆者の受けた災難などが実際以上に描かれているのかもしれない。まあ、話半分くらいで読めばいいのではないか。

書かれた内容を一言で言えば、地方(に限らないが)のビジネス界は利権構造が固まっており、そこに新人が新規事業を立ち上げると妨害が起こり、時にはその事業そのものを既定利権集団に奪われる、ということである。(行政もその既定利権集団の一部である。)

タイトルの「成功者への妬み」というのは少し話がずれている気もする。成功者を妬んでいると言うより、「自分の利益になるものは何でも奪い取りたい」という欲望ではないか。これは資本主義の根本的情動である。なお、資本主義自体はカネの発生した大昔から存在しているのであり、べつにマルクスの発明した概念ではない。ただ、昔は道徳や信仰による歯止めがあったが、西洋的資本主義にはそれも無くなったということだ。



(以下引用)


地方を滅ぼす「成功者への妬み」のひどい構造

「3つのネチネチ」で成功者はつぶされていく


また、全国各地で見られる「飲食店の食べ歩き企画」などもこのパターンに入ります。当初は有志の良いお店だけで企画していたのに、成功した後、成果を手にしたい行政側の思惑や成功を妬んでいる店などが絡み、施策化して補助金などが投入されるようになります。すると「税金を使うのだから一部店舗だけでは駄目だ!」といって、「しょうもない店」もこうした企画に入れるようになります。


しかし、予算を入れてタダで参加する店などが増加して発展するかといえば、逆に参加者の満足度が低下していき、使う側にも敏感にその雰囲気が伝わります。結果として企画そのものが陳腐化し、破綻します。


(2)事業を横取りして奪って潰す


2つ目は事業の横取りです。たとえば、とある地域の生産者が商品開発や営業で血のにじむような努力をして地元産の良質な農産物などを使った新商品を大ヒットさせました。そうすると「あなたのところも組合に属しているのだから」となどといって生産者組合の共同事業にし、さらには「地域を挙げての行政事業にする」といって、地域ブランド認定して事実上横取りしてしまいました。


血のにじむ努力をした「最初の開拓者たち」は、耐える場合もありますが、こうしたことは本質的に許せるわけがありません。意を決したように組合を通さずに出荷する、などとなったりするわけですが、そうすると今度は地元で嫌がらせを受けるなど、あからさまな営業妨害を受けるケースもあります。


さらに、道の駅などの公共施設運営事業などの官民連携事業であれば、集客などで成果をあげた途端に「あの事業者ばかりが運営するのは公平性に欠ける」などとイチャモンをつける人々が出てきます。その結果、運営主体が、地元で政治力のあるまったく別のグループへと鞍替えになり、施設自体を実質的に乗っ取るような事例も地方では出ています。


とはいえ、乗っ取り、鞍替えをさせて人気が維持できるかといえば、当然ながらそんなことはありません。実力がない人々がやると、すぐに人気がなくなり、経営が行き詰まります。

「うわさのある人」というレッテル貼り

(3)風説の流布で人格否定をして潰す


さらに、最悪の場合が(3)の風説の流布でしょう。「気に食わない」ということで怪文書やネット掲示板などにあることないことを書いて、挑戦者、成功者を陥れようとします。


こういう場合、地元議員が事業に絡んでいることが少なくありません。議員が直接、あるいは間接でも信憑性のないことをもとに議会で「黒いうわさがある」などといって質問して、さも実際に発生しているかのような事実へと仕立て上げてしまったりします。また地元のメディアも息がかかっているか、あるいはニュースが少ないため、いざこざがあると批判的論調で取り上げてしまうこともあります。問題なのは、事業の内容だけではなく、安易な人格攻撃に政治、行政、メディア組織が便乗するケースがあることです。







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左翼やリベラルへの嫌悪は、無意識的保守主義のためではないか

これは、あまり問題として扱われない、エアポケット的な問題であり、それだけに非常に重要な問題提起だと思う。

私は、左翼やリベラルを嫌悪する人々が左翼やリベラルがどういうものか、きちんと分かっていて嫌悪しているとはまったく思わない。

とにかく、「現在を否定するもの」に対する恐怖感なのではないか、というのが今の私の仮説である。

本当は「進歩」に対しても恐怖感を持っているのだが、進歩(まあ、その大半は実は進歩を自称するだけの詐欺的なものだが)はほとんど社会にとって不可避的なものだし、だいたいは社会の部分的なもので、自分とは無関係でいられると諦めているが、左翼やリベラルは社会を根底から変え、そしてそれは現在を否定するものだから、現在に安住の場を得ている(と信じている)人々はそれを嫌悪し恐怖するのではないか。
ちなみに、私も根本的には保守主義であるが、自民党政権(というか安倍政権)の悪辣さを心の底から嫌悪するために左翼的な立場にいるのである。


(以下引用)







左翼・リベラルがとにかく嫌いだから支持するのでしょう。安倍を支持すれば左翼やリベラルが嫌がるから支持するのでしょう。左翼・リベラルが嫌がるなら、日本がどうなっても構わないのでしょう。








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封建制とは過去のものではない

別ブログに書いたものだが、ここにも載せておく。封建制と中央集権制というのはまったく異なる政治体制だと我々は無意識的に考えており、また封建制は大昔のことだと思っているが、現代のほとんどの国は中央集権制と地方分権の両面を持っているはずだ。では、どこまでが中央の権利でどこからが地方の権利なのか、もっと突っ込んだ議論をすべきだろう。たとえば、現在のように沖縄県民の意思が中央によって完全に無視され虐められている状況で、沖縄が中央に従わねばならない絶対的な理由があるだろうか。日本からの沖縄の独立の可能性も考えて、真面目に議論したいものである。


井沢元彦の「逆説の日本史」の中に「封建制(地方分権制)」と書かれているのを見て、あっ、封建制というのは単純化すれば地方分権制なんだな、と気づき、そうなるとアメリカ合衆国というのは「アメリカ合州国」というべきだ、と言われるように(名前も「ユナイテッドステイツ」つまり、州を結んでできた国である。)中央による各州の統制が小さいのだから、実は現代の封建制国家と見做せるのではないか、と思った。封建領主というのが国王によって任命される(封ぜられる)のに対して、各州の人民が選挙で選んで封じるという違いがあるだけで、内実は「封建制」である国もあるわけだ。
では、日本の各県もそれぞれが独自に地方自治を行っているのだから、「封建制国家」と見做してもいいのではないか。もちろん、中央による統制の必要な部分はあるが、それはどこまで認めるべきかは議論の余地があるだろう。たとえば、県民の大半が反対しているのに沖縄に新基地を作ることに関しては、それは中央の権利なのか、議論していい。そもそも、日本全土にわたって人民の生活のすべてを支配する中央集権の強大さを国民は望んでいるだろうか。




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「戦争責任者の問題」伊丹万作

「青空文庫」より転載。
全国民必読の文章である。(谷間の白百合さんがこの前言及し、竹熊健太郎が自分のツィートに一部引用していた。もちろん、私も昔から高く評価している文章である。)

(以下引用)だいたい赤字部分が竹熊健太郎が引用した部分。ここだけ読むのもいいし、ここだけ拡散するのもいい。私も、この部分がこの文章の肝だと思う。


戦争責任者の問題

伊丹万作



 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
 しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
 いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
 たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
 では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
 では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
 私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
 昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
 そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
 つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
 しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
 なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
 しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
 要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
 それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
 最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
 ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
 そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
 しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
 なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
 では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)


(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)

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日本人は17世紀(鎖国下の日本)より幸福になったか

1690年から1692年に日本に滞在したオランダ人医師のケンペルは、鎖国政策下の日本を次のように絶賛している。(ケンペルは短い滞在期間に膨大な資料を集め、「日本史」を書いた。その書は明治政府によって翻訳され「ケンペル日本史」として刊行されている。)引用はヘルベルト・プルチョウ著「『ニッポン通』の目」より。


日本は幸せな国だ。人々はすべての神を尊敬し、法を守り、目上に従い、同等の立場の者を礼儀正しく、愛情をもって扱い、すべての人々は平和に生きている。日本人は、風俗、道徳、美術と振る舞いに優れている。国内貿易、豊かな土地、健康な体、強い信仰、勇気のある心、継続的な心の安定、それから、生活に必要なものが全部備わっているおかげで、彼らは幸せに生きている。もしも日本人が現在の状態を昔の自由と比べたら、歴史のどの昔にさかのぼっても、今より幸せで、政府が今よりなお寛大であった時期は見つけることができない。

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