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左翼やリベラルへの嫌悪は、無意識的保守主義のためではないか

これは、あまり問題として扱われない、エアポケット的な問題であり、それだけに非常に重要な問題提起だと思う。

私は、左翼やリベラルを嫌悪する人々が左翼やリベラルがどういうものか、きちんと分かっていて嫌悪しているとはまったく思わない。

とにかく、「現在を否定するもの」に対する恐怖感なのではないか、というのが今の私の仮説である。

本当は「進歩」に対しても恐怖感を持っているのだが、進歩(まあ、その大半は実は進歩を自称するだけの詐欺的なものだが)はほとんど社会にとって不可避的なものだし、だいたいは社会の部分的なもので、自分とは無関係でいられると諦めているが、左翼やリベラルは社会を根底から変え、そしてそれは現在を否定するものだから、現在に安住の場を得ている(と信じている)人々はそれを嫌悪し恐怖するのではないか。
ちなみに、私も根本的には保守主義であるが、自民党政権(というか安倍政権)の悪辣さを心の底から嫌悪するために左翼的な立場にいるのである。


(以下引用)







左翼・リベラルがとにかく嫌いだから支持するのでしょう。安倍を支持すれば左翼やリベラルが嫌がるから支持するのでしょう。左翼・リベラルが嫌がるなら、日本がどうなっても構わないのでしょう。








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オーウェルの予見した社会は実現している

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
「長周新聞」記事にしては比較的クールな筆致に見える(米国の話が中心だからだろう。)が、書かれている内容は恐るべき監視社会の実情である。まさに「ビッグブラザーはあなたを見ている」だ。ジョージ・オーウェルの未来予見能力は凄いとしか言いようがない。


(以下引用)


◆https://www.chosyu-journal.jp/shakai/9645
長周新聞  2018年10月20日
SNSという名の 国民監視システム」 
 フェイスブックの 個人情報流出が示すこと


アメリカの大手IT企業、フェイスブックやグーグルが

大量の個人情報を流出したことが、たびたび世間を揺るがせている。

フェイスブックは公称21億人以上が利用する交流サイトだが12日、

2900万人の利用者の個人情報が流出したことを明らかにした。

とくに、今回は日本人の情報も流出した可能性があると

日本政府に公式に伝えている。

日本人の月間利用者数は約2800万人にのぼる。


フェイスブックの利用者はサービスを無料で使えるが、

それは利用者の個人データを対価に 広告枠を売るビジネスモデル

裏づけられている。

同社はその広告枠で 年間400億㌦(約4兆2000億円)も売り上げている。

このたびの不正アクセス事件は、1400万人については

名前から性別、居住地、職歴、宗教、直近の検索履歴、婚姻状況、

シェアした訪問地、交流サイト(SNS)、視聴に使ったネット端末など、

詳細な情報がアクセスされていた。

また1500万人については、名前や電話番号、電子メールアドレス、

誕生日や職歴などが流出していた。


一方、米グーグルは八日、ソフトウエアの不具合から

最大50万人分の個人情報が 外部に流出する恐れがあるとして、

同社の交流サイト(SNS)サービス「グーグル+(プラス)」を閉鎖する

と発表した。

2015年から18年3月まで、外部のソフトウエア開発会社が

サービス内の個人情報-- ユーザーの名前や住所、電子メールアドレス、

職業、性別、年齢-- にアクセスできるようになっていたというのが、

その理由である。


過去にはフェイスブック利用者 4億2000万人の個人情報が流出したことで

大きな問題となったことがある。

また今年4月には、「フェイスブック利用者8700万人分の個人情報のデータが

不正に第三者に渡され、それが2016年のアメリカ大統領選挙で

トランプ陣営の選挙対策に使われ」たというニュースが流れた。

フェイスブックのザッカーバーグCEOはそのときの電話会見で、

「データ保護対策が十分でなかった。これは私の責任だ」と陳謝し、

同社は「再発防止策をとったので、今回のような問題は 再び起きない」

と釈明したばかりであった。


こうしたなか、アメリカ国家安全保障局(NSA)の元職員、

エドワード・スノーデンがツイッターで、

「フェイスブックは 監視システムであり、

ソーシャルネットワークの名のもとに 人人を欺いている」

「一般人のプライベートな生活に関する情報を集め、

売り上げや収入を得るビジネスは、監視機関とよぶべきだろう」

「それらのビジネスをおこなう人は、

戦争省から国防省に名称を変更するのと同様に、

監視機関を ソーシャルネットワークという呼び名に変更して

巧みに 人人を欺いている」と書いている。

アメリカ国内で監視社会の実態が明るみに出たのは2012年、

スノーデンによる告発がきっかけであった。

NSAはマイクロソフトやアップル、グーグルなど

IT独占企業と連携して、

国民のインターネットや通話データを傍受し、大量保管していた


ことが白日のもとにさらされた。


コンピューター・セキュリキィの専門家、ブルース・シュナイアー

(ハーバード大学法科大学院フェロー)の著書

『超監視社会 私たちのデータは どこまで見られているのか?』(草思社)

は、NSAやFBI(米連邦警察)が

メタデータの収集・保管に血眼になっており、

アメリカこそが国民が、世界でもっとも監視のターゲットにされた社会

であることを浮き彫りにしている。



メタデータから 病歴等まで 監視 国民恐れる統治者

メタデータとは 文面や映像などのデータに付随するデータ、

たとえば電子メールの送受信のアカウントや 日付などである。

スタンフォード大学が約5000人の被験者を対象に

メタデータを分析した実験では、

病歴や薬物依存歴、人工妊娠中絶の経験までが 第三者に伝わってしまう

ことが明らかとなった。

インターネット検索エンジンの 検索履歴は、

メタデータの理想的な宝庫だ とされる。

グーグルの元CEO、エリック・シュミットは、

私たちは、あなたがいま どこにいるかを知っている。

これまでに どこにいたかも知っている。

いま なにを考えているかも だいたい知っている
と豪語している。

アメリカ国民の半分は、市町村、性別、生年月日が判明するだけで

一人に特定される。

そのうえ、インターネットの検索履歴を知られたら、

本人が自覚しない個人情報が、よそで形成されることになる。


フェイスブックやグーグル、アマゾンなどを使っていて、

画面に突然、自分にぴったりの広告や、

家族の誕生日の直前に ふさわしいプレゼントをすすめる広告が出てきて

驚くことは、よくある話である。

また、人間関係の把握はフェイスブックが力を入れていることである。

フェイスブックにアクセスするとき、フェイスブック上で

まだ友だちになっていない知人を「知り合いかも?」といい当てられて、

背筋が寒くなったという体験も 多くの者がしていることである。


大量監視データがあればターゲットの人物だけでなく、

その人間関係を明らかにすることができる


2013年、NSAがすべてのアメリカ人の電話通話のメタデータを集めている

ことが暴露された。

そのなかで、ある特定の人物のデータとともに、

その人物が連絡をとっている人物 すべてのデータを収集する

ホップサーチという捜査手法が 批判にさらされた。

それは、特定の人物が連絡をとっている人物の すべての情報をも収集し、

さらにその人物が連絡をとっている人物のすべての情報、さらに……、

というように何段階もホップ(跳躍)させて、

特定の人物とはなんらかかわりのない数百万人もの情報を収集する

というものである。


スノーデンが暴露した NSAの無差別大量監視プログラム

XKEYSCORE」(エックスキー スコア)

「テロ対策」を口実に開発されたもので、

大量の情報を検索する「スパイの グーグル」と呼ばれている。

個人の名前やキーワードを検索すると、関連するメールや電話の会話、

ネットの閲覧履歴など、あらゆるデータを見ることができる。

さらに個人のパソコンやスマートフォンにアクセスして、

遠隔操作でカメラを起動し 盗撮や盗聴をすることもできるといわれる。

このプログラムは、日本にも提供されていることも暴露されている。


こうしたことは、

フェイスブックやグーグルの情報流出を

一番願っているのはだれかを教えている。

そして、世界でもっとも自国民を恐れ、同盟国の国民をも恐れる

米国支配層
の戦戦恐恐とする姿を、あますところなく暴露している。






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世界の核の便所としての日本

「逝きし世の面影」から、記事の一部を転載。
孫氏の事業計画についての知識が無いので、特に感想も無いが、大きなことをぶち上げたな、という印象はある。フクシマの時から孫氏は太陽光発電を推進する意思を見せていたが、それがまだ続いていたのなら、本気だったということだろう。
そしてその孫氏の背後に私の推測のようにユダ金がいるなら、日本の原発村はそろそろ商売納めになるのではないか。もちろん、世界の非核化と太陽光発電を推進する一方で、日本を世界の核ゴミ捨て場にする、という計画もあるだろうから、そういう「便所管理」が日本の原発村の今後の主業務になることもありうるだろう。
なお、原発事業を便所扱いしたのは、言うまでもなく原発そのものが「トイレの無いマンション」に昔から例えられているからだ。日本人はそういうトイレの無いマンションをあちこちに作ってきた結果がフクシマなのである。


(以下引用)


『月も朧(おぼろ)に白魚の・・・』河竹黙阿弥の白波(盗賊)ものの名作歌舞伎劇の3人吉三か、それとも白波3人男???

5ヶ月前の2018年3月27日、ニューヨークのプラザホテルでムハンマド皇太子と孫正義の2人で、ソフトバンクとサウジ政府系ファンドで作った10兆円規模の「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」の資金を使い、世界最大の太陽光発電事業(事業規模は約22兆円)をサウジで始める、とぶち上げた。(もちろん、この『舞台回し』にはトランプ大統領が影の主役として関わっていると思われる)

田中康夫‏ @loveyassy 18:45 - 2018年10月19日

資金規模10兆円≒920億$「ソフトバンク・ビジョン・ファンド」
ムハンマド・ビン・サルマン皇太子が5兆円≒450億$を拠出
リヤドで10月23日~25日☪
「ビジョン2030」未来投資イニシアチヴ会議を皇太子が主催
欧米企業は軒並み欠席
孫正義@masason出席で話題騒然


英仏独など他の同盟国首脳を出し抜いて日本の安倍晋三首相だけが2016年11月8日投開票の大統領選に勝利した直後の11月17日に(まだ民間人であった)ドナルド・トランプに会いに行ったことが、現職のオバマ大統領の逆鱗に触れ、仕方なく二人で12月に史上初めてのハワイ真珠湾の戦艦アリゾナ記念館訪問になったと言われている。
『抜け駆け』で安倍首相と会った直後の2016年12月6日には、トランプ次期米大統領は実業家の孫正義社長とトランプ・タワーで会談しソフトバンクが米国企業に500億ドル(5兆円)を投資し5万人の新規雇用を創出することで合意した。したたかな企業家としての面目躍如。最後に笑うのは果たしてだれか、目が離せない。



『サウジ疑惑が波及も 孫氏10兆円ファンド、岐路に 』 2018/10/19 22:51日本経済新聞 

サウジアラビア政府に批判的な著名記者の殺害疑惑が、ソフトバンクグループの孫正義会長兼社長が進める投資戦略に影を落とす可能性が出てきた。
世界中でサウジと距離を取る経営者も出始める中、ムハンマド皇太子と孫氏の10兆円ファンドは、親サウジの米トランプ政権もからんだ「投資トライアングル」だが根幹を揺るがす困難に直面した。
ソフトバンクグループのマルセロ・クラウレ最高執行責任者(COO)はサウジが出資を検討している2つ目のファンドについて「(立ち上げる)確証はない」。
23日からサウジで開催される経済フォーラムはムニューシン米財務長官やJPモルガン・チェースのジェイミー・ダイモン最高経営責任者(CEO)らが出席を見合わせている。
2017年5月ソフトバンクが新しい企業グループを目指していた10兆円ファンドに450億ドル(約5兆円)を出資するのがサウジアラビアのムハンマド皇太子だ。
当時副皇太子として来日していた16年9月3日。ここから2人の蜜月関係が始まった。
孫氏はトランプ氏が16年の大統領選に勝利すると米財界人とのツテをたどって会談。米国への巨額投資と雇用創出を約束した。象徴的なのがファンド設立時。サウジの首都リヤドの王宮でトランプ、サルマン国王のトップ2人の前で、孫氏ファンド立ち上げの調印をする。
米連邦準備理事会(FRB)が利上げに踏み切ってもカネ余りの「売り手市場」で、何処から資金調達したかがステータスとなる米国内で「サウジマネー」を嫌う動きが広まれば孫氏にとっては打撃となる。
最大リスクのムハンマド氏が失脚すれば、サウジ国内では同氏の肝煎りで進めてきた孫氏との投資戦略を覆す動きが出かねない。孫氏が築いた米・サウジとの投資トライアングルに激震が走っている。
(抜粋)
10/19 日経新聞




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菅官房長官は安倍政権の象徴

菅官房長官は、まさに安倍政権の顔であり、その象徴とも言える人物だ。
その性質を一言で言えば、「鉄面皮」であり、もう一言付け加えれば「恥知らず」である。
だからこそ県民葬で「県民の敵」安倍総理の原稿を代読するという、常人なら不可能な行為もできるのだ。恥を知らない人間ほど強いものはない。だが、それは、ルース・ベネディクトの考えを流用するなら、「恥の文化」である日本の、日本人としての特質を持たないということだ。
なお、私がマスコミに望みたいのは、「菅話法」を徹底的に批判してほしいということだ。
相手の質問や批判に対し、「そのご指摘は当たらない」とだけ答えて、なぜ当たらないのかの説明は無い。つまり、質問にまったく答えないわけだ。そういう無責任の極みである人間が「政府の顔」をやっている限り、政府は悪事のやり放題であり、民主主義は成立しないだろう。
まあ、マスコミ自体、政府と同じ穴のムジナであり、菅話法のでたらめさなど重々分かっていてそれを放置しているのだろう。マスコミは政府に睨まれるのが一番怖いのだ。


(以下引用)






◆菅官房長官への罵倒が意味するもの


「嘘つき!」「帰れ!」「卑怯者!」――。


 9日に執り行われた、故・翁長雄志前沖縄県知事の県民葬で、安倍晋三首相の弔辞を代読する菅義偉官房長官には、数々の罵声が浴びせられた。


 内地の人々からすれば、「厳粛たるべき葬儀の場で、罵声を浴びせるとはなにごとか」と眉を顰めたくもなる出来事なのかもしれない。


 しかし、沖縄知事選の前後、現地を取材して感じた、「菅官房長官の沖縄での嫌われっぷり」から考えれば、あの罵声はむしろ当然の結果だった。


 現地で取材して驚いたのは、新しく知事に選出された玉城デニー氏の支持者だけでなく、とりわけ支持する先のない、いわゆる「無党派層」も、そして驚くべきことに、熱心に自民党側の候補である佐喜真淳氏を応援する人でさえも、異口同音に「菅官房長官への怨嗟の声」をあげることだった。


ハーバービジネスオンライン: 写真/時事通信社 © HARBOR BUSINESS Online 提供 写真/時事通信社

 今回の知事選で、自公両党の候補である佐喜真陣営は「対立から対話へ」を標語として戦った。その佐喜真陣営に属する、とある地方政治家は、選挙後のインタビューに「何よりの失敗は、菅さんと佐喜真候補を並べて打ち出したことですよ。熱心に自民党の応援をしている人でさえ、菅さんだけは毛嫌いするのに。菅さんこそが“対立”の象徴だから当然ですよね」と答えてくれた。


 菅義偉はこれまで、沖縄からの要望を受け付ける窓口でありながら、「ことごとく沖縄の要求を蹴る」という態度を一貫して示してきた。死の直前に翁長雄志が、政府に対して剥き出しのファイティングポーズを取ったのも無理はない。


 知事選で惨敗を喫した佐喜真陣営の選挙は、その菅義偉が取り仕切っていた。おそらく菅には「自公両党の力を結集させる技量は、俺にしかない」という自負があったのだろう。だが自分が沖縄で「対立の象徴」として受け止められている自覚に欠けていた。菅が仕切る以上、沖縄知事選での自民党の敗北は半ば必然だったのだ。


◆いまだ沖縄に真摯に向き合わない安倍政権


 しかし、あれほどまでの惨敗の後も、安倍政権は玉城新知事と対談こそすれど安倍総理は原稿を読むだけに終始し、真摯に向かい合うことを避け続けている。


 そしてその意思表示であるかのように、翁長雄志前知事の県民葬に菅義偉を総理の名代として送りこんだ。官邸とてバカではない。知事選の敗因が「菅義偉という人物」「菅義偉の選挙の下手さ」にあることは知悉(ちしつ)しているだろう。にもかかわらず菅を送るとはこれ以上ないほどの、沖縄に対するイヤガラセだと言うほかはない。


 県民葬で菅義偉に叩きつけられた「嘘つき!」「帰れ!」「卑怯者!」という言葉の一つ一つは、沖縄の人の嘘偽らざる心の声だろう。


 その心の声を、もうこれ以上、無視するわけにはいかないはずだ。


【菅野完】


1974年、奈良県生まれ。サラリーマンのかたわら、執筆活動を開始。2015年に退職し、「ハーバービジネスオンライン」にて日本会議の淵源を探る「草の根保守の蠢動」を連載。同連載をまとめた『日本会議の研究』(扶桑社新書)が第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞を受賞。最近、どこよりも早く森友問題の情報を提供するメルマガが話題(https://sugano.shop/)


― なんでこんなにアホなのか ―








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もはや沖縄は精神的独立国家

まあ、とりあえず、速報だ。「来た、見た、勝った!」
いや、那覇に行ってもいないし、テレビも見ていないが、速報と言えば、例のマラソンの起源がすぐに思い出されるわけである。


(以下「ネットゲリラ」より転載)




那覇市長選で自民党負け、というんだが、ゼロ打ちで、開票前に当確出ているというから凄いw 今回も公明党の離反が目立ったようで、本土から公明党の偉いさんが来て演説しているというのに、「聴衆が一人もいない」という惨状で、まぁ、動員掛けなきゃこんなもんだw 

任期満了に伴う那覇市長選挙は21日に投票が行われ、沖縄県の玉城知事や野党が支援した現職の城間幹子氏が、自民・公明両党などが推薦した新人を抑え、2回目の当選を確実にしました。
那覇市長選挙の投票は午後8時に締め切られました。開票はまだ始まっていませんが、NHKの情勢取材や投票を済ませた有権者を対象に行った出口調査などでは、野党が支援した現職の城間幹子氏が、与党などが推薦した新人で元沖縄県議会議員の翁長政俊氏を大きく引き離して極めて優勢で、今後、順調に得票を伸ばすと見込まれることから、城間氏の2回目の当選が確実になりました。

公明党が離反しつつあるというのは、アベシンゾーのカルト好きが理由だろう。信者世帯数827万を誇る創価学会をないがしろにして、幸福の科学とか統一協会とか、マイナーな新興宗教と蜜月なんだから、元祖・下駄の雪としては面白くない。このところ、選挙のたびに、創価の三色旗を持って野党の応援に駆けつける信者がおりまして、マスコミは「末端信者の反乱」と説明するんだが、必ずしも、そうとも言えないんじゃないかなw

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日本への核配備と沖縄施政権返還のバーター案

「しんぶん赤旗」電子版から転載。
メモとしての保存である。

(以下引用)





2018年10月21日(日)


米公文書で判明

1965年当時、駐日米大使発言

“日本核配備認められれば沖縄の施政権を返還”


写真

(写真)公表された1965年7月16日付の米国務省会談記録


(拡大図はこちら)

 米軍の支配下にあった沖縄の地位をめぐる米政府内の会合で、ライシャワー駐日米大使(当時)が、日本や沖縄への核兵器配備が認められれば沖縄の施政権を日本に返還しても構わないとの見解を示していたことがわかりました。米研究機関「ナショナル・セキュリティー・アーカイブ」が米情報自由法に基づいて入手し、公開した米公文書に明記されていました。



 沖縄には最盛期に1300発もの核兵器が配備されており、アジア太平洋地域で最大の核貯蔵庫になっていました。これらは朝鮮半島やベトナムなどでの使用が想定されており、米側が沖縄での核兵器維持に固執していたことがうかがえます。



 1965年7月16日付の「琉球諸島における米国の政策」と題した「秘密」指定の会議メモによれば、ライシャワー氏は、日本が(1)沖縄を含む日本の国土に核兵器配備を容認する(2)有事の際に米軍司令官が琉球諸島全体を統制することを保証する―との条件が満たされた場合、「施政権または“全面的な主権”を日本に返還しても、われわれの基地を島(沖縄)に保持できる」と述べています。



 さらに、リーザー陸軍長官(当時)が「沖縄を日本国憲法の制約の外に置くような新たな協定を想定しているのか」と聞いたのに対して、ライシャワー氏は「核兵器は日本の憲法上、禁止されていない」とした上で、「そのようなものは必要だろう」との見解を示しました。



 また、ライシャワー氏は同年11月に予定されていた沖縄の立法院議員選挙(現在の県議選に相当)に影響を与えるための資金工作を提起、自民党の政治家を介して資金を投入することを提案していました。同氏は「日本の保守政治家にとっても、選挙の勝利は死活的に重要」として問題ないとの認識を表明。沖縄に対し、日本の政治家も金をつぎ込むとの見方を示し、「彼らの資金に上乗せしてもらうだけで、完全に秘匿できる」と主張しました。



 ライシャワー氏が想定していた「沖縄を憲法の制約の外に置く枠組み」は、69年11月に佐藤栄作首相とニクソン米大統領(いずれも当時)が交わした沖縄核密約として結実しました。この密約は今日も維持されており、沖縄が今も「憲法の外」に置かれ続けていることを示しています。










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封建制とは過去のものではない

別ブログに書いたものだが、ここにも載せておく。封建制と中央集権制というのはまったく異なる政治体制だと我々は無意識的に考えており、また封建制は大昔のことだと思っているが、現代のほとんどの国は中央集権制と地方分権の両面を持っているはずだ。では、どこまでが中央の権利でどこからが地方の権利なのか、もっと突っ込んだ議論をすべきだろう。たとえば、現在のように沖縄県民の意思が中央によって完全に無視され虐められている状況で、沖縄が中央に従わねばならない絶対的な理由があるだろうか。日本からの沖縄の独立の可能性も考えて、真面目に議論したいものである。


井沢元彦の「逆説の日本史」の中に「封建制(地方分権制)」と書かれているのを見て、あっ、封建制というのは単純化すれば地方分権制なんだな、と気づき、そうなるとアメリカ合衆国というのは「アメリカ合州国」というべきだ、と言われるように(名前も「ユナイテッドステイツ」つまり、州を結んでできた国である。)中央による各州の統制が小さいのだから、実は現代の封建制国家と見做せるのではないか、と思った。封建領主というのが国王によって任命される(封ぜられる)のに対して、各州の人民が選挙で選んで封じるという違いがあるだけで、内実は「封建制」である国もあるわけだ。
では、日本の各県もそれぞれが独自に地方自治を行っているのだから、「封建制国家」と見做してもいいのではないか。もちろん、中央による統制の必要な部分はあるが、それはどこまで認めるべきかは議論の余地があるだろう。たとえば、県民の大半が反対しているのに沖縄に新基地を作ることに関しては、それは中央の権利なのか、議論していい。そもそも、日本全土にわたって人民の生活のすべてを支配する中央集権の強大さを国民は望んでいるだろうか。




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庶民のカネは全部ユダ金が強奪

自民党政権によって続いてきた法人税減税の「効果」が明白である。つまり、庶民の懐からユダ金(大企業の背後はすべてそれだろう。つまり、「企業背乗り」だ。)の懐に入っていったわけだ。
ランクを見ると、「自動車」「電信電話」「金融」の三つが大儲けをしていることが分かる。金融は異常に長期続いた低金利政策の恩恵を受けているのだろう。まあ、国債を買っているだけでも儲けられるのだから楽なものだ。あるいは、政府の株高維持政策により、「(政府の株価維持用株を)夜売って、朝買う」だけでも儲けられる。政府は朝のニュースで株価上昇とされるのだけが目的なのだから、朝には上がり、夜には下がっているのがほぼ確実なのである。


(以下引用)




内部留保額でわかった「利益を貯めこみ過ぎ企業」トップ10


2016.09.06 07:00


利益を貯めこみすぎの企業も



 財務省が6月に公表した法人企業統計によると、今年3月末時点の「内部留保額」は過去最高となる366兆6860億円。第二次安倍政権がスタートした2012年12月から34%も増加した。

 一般的に内部留保とは、企業の利益から従業員への給料や株主への配当を差し引いた「利益剰余金」を指す。言わば、「企業内貯金」である。

 その“貯金額”が過去最高となっているのに、懐は寂しいというサラリーマンが少なくない。厚労省が5月に発表した2015年度の実質賃金は、前年より0.1%減って、5年連続のマイナスだ。

 そこで本誌は、上場企業の「時価総額トップ100社(8月26日時点)」のうち、内部留保額からランキングを作成して実態を探った。

1位 トヨタ自動車 16兆7942億4000万円
2位 三菱UFJフィナンシャル・グループ 8兆5875億7800万円
3位 ホンダ 6兆1943億1100万円
4位 NTT 5兆742億3400万円
5位 三井住友フィナンシャルグループ 4兆5344億7200万円
6位 NTTドコモ 4兆4130億3000万円
7位 日産自動車 4兆1507億4000万円
8位 日本郵政 3兆5259億3200万円
9位 キヤノン 3兆4304億4700万円
10位 三菱商事 3兆2259億100万円




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戦争肯定論のアホさ

どこかで読んだのだろう、「人類の文明(あるいは科学)は戦争によって大きく発展した」という、戦争肯定派に都合のいい理屈に感心して、戦争肯定論を自分の思想にするアホもたくさんいる。(確かアニメ化もされたラノベの「まおゆう」もそういう阿呆の書いたものらしく、経済は戦争によって維持発展する、という思想らしいので、私は最初から嫌悪している。)
奴隷解放同様、科学も経済も、戦争が無くても改善可能だったのだ。ただし、これは悪政を肯定するわけではない。戦争と革命は別である。革命は上と下の攻防であり、下からの異議申し立てが無いと悪政は(支配者が変わる以外には)ほぼ永遠に続く。戦争は横の戦い(国と国の戦い)であり、権力と権力の戦いにすぎない。勝者が善であるわけではない。
歴史的に見れば、「何とかの乱」はだいたいにおいて反乱を起こす側にこそ正当な理由があり、それは未遂に終わった革命である。つまり、革命は、我々が思うより多い。しかし、下にいる側は弱者であるからほとんど失敗に終わる。


(以下引用)





さんがリツイート

俺は中学の頃、お婆ちゃんが「どんな戦争も悪」と言うと「南北戦争が無ければ奴隷解放は100年遅れた筈ですが?」等と早口で捲し立て、困るお婆ちゃんを見て「ハイ論破!」みたいな人間だったので、今はテレビもネットもそういう人が一杯いて自分を見てるようで恥ずかしいので全員死んで欲しいです。




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「戦争責任者の問題」伊丹万作

「青空文庫」より転載。
全国民必読の文章である。(谷間の白百合さんがこの前言及し、竹熊健太郎が自分のツィートに一部引用していた。もちろん、私も昔から高く評価している文章である。)

(以下引用)だいたい赤字部分が竹熊健太郎が引用した部分。ここだけ読むのもいいし、ここだけ拡散するのもいい。私も、この部分がこの文章の肝だと思う。


戦争責任者の問題

伊丹万作



 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
 しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
 いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
 たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
 では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
 では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
 私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
 昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
 そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
 つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
 しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
 なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
 しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
 要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
 それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
 最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
 ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
 そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
 しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
 なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
 では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)


(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)

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