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原発の連鎖的崩壊

「asahi.com」から転載。表ジャーナリズムも、もはや嘘や誤魔化し、洗脳報道、誘導報道ばかり書いているわけにはいかなくなってきたようだから、電事蓮に都合の悪い報道もどんどん出てくるようだ。もはや日本の原発は総崩れである。ということは、日本崩壊ということだ。

日本本土の海岸地帯にはまんべんなく原発があるから、日本の中で原発被害から逃れられるところはどこにあるかと言えば、ほとんど無い。まあ、沖縄が一番原発に関しては被害は少なくなりそうだが、ここは膨大な米軍基地に占領されていて日本国民が住む土地は不足している。これまで沖縄に米軍基地を押し付けていた日本国民のエゴが、こんなところで皮肉な結果になってきたわけである。
今頃、宮古、八重山では土地の買占めが始まっているのではないだろうか。日本一(下から2番目か?)の貧乏県に猛烈な人口流入が起こりそうである。
ところで、新しい日本の首都はどこになるのだろう?
もはや首都移転は確実だと私は見ているのだが、そうでもないのだろうか。別に首都住民全部が引っ越すわけではなく、政治機能だけを移せば済むのだから、沖縄がワシントンみたいに政治都市になるという案も選択肢としては考えられる。
これまでも首都移転の話はあったが、その時にナンバーワンの候補地だったのが、「福島」である。それが今や原発事故で死の土地である。官僚の考える案にろくなものはないという好例だ。
皇居は京都に戻るのが一番だと思うが、奈良でもいい。
だが、この二つの街も原発から完全に安全ではない。
原発が存在する限り、日本の危機は終わらないのである。



(以下引用)


東通原発、非常用発電機全て使えず 女川も1台故障(1/2ページ)2011年4月8日23時29分


. 7日深夜に起きた余震では、東北地方の複数の原子力施設で外部電源からの電力供給が途絶した。このうち東北電力東通原発や女川原発では、バックアップ用の非常用ディーゼル発電機が使えないなど、危うい状態が続いたままだ。今回は辛うじて難を免れたが、今後も予想される大規模な余震の揺れと津波に、原発は耐えられるのか。

 東北電力によると、東通原発(青森県東通村)1号機は、余震で外部からの電力供給が2系統とも遮断されたため、非常用ディーゼル発電機による冷却に切り替えた。

 8日午前3時半、外部電源が復旧。外部電源とともに非常用発電機による電力供給も続けたところ、午後2時10分ごろ、発電機の燃料循環ポンプ付近で燃料の軽油がもれているのを作業員が見つけ、運転を止めた。燃料漏れの理由は調査中。

 同原発は3月11日の東日本大震災時には定期検査中で、原子炉に燃料棒はなく、現在、外部電源で使用済み核燃料貯蔵プールの冷却を続けている。非常用ディーゼル発電機は3台あるが、もう2台も、点検中のためすぐには起動できないという。

 女川原発(宮城県石巻市、女川町)1号機でも、非常用ディーゼル発電機2台のうち1台が壊れたまま、1週間にわたって必要な機能を果たせない状態にあることがわかった。経済産業省原子力安全・保安院が8日、明らかにした。

 保安院によると、同電力が今月1日、1号機の発電機の定期点検をしたところ、2台のうち1台が発電所内の電源にうまく接続できないことが分かった。

 東北電力は接続不良の原因をつきとめて8日、原子炉等規制法に基づいて保安院に報告したが、この間、新たな発電機の配備はないという。

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消費税増税の論拠は消滅した

「崖っぷち社長のブログ」から転載。
説明はほとんど不要だろう。
消費税増税の根拠である財政危機が財務官僚自身の口から否定されたのである。今後、消費税増税論者は、多少の羞恥心があれば一言も発言できなくなるはずだ。まあ、奴らは厚顔無恥(あるいは無知でもあるか)な連中だから、平気でまだ言うとは思うが、それを国民まで信じたらB層そのものだよ。


(以下引用)



財政は問題ないと財務官僚が(笑)


まあ、素直なヤツもいるってことだな。



http://gendai.net/articles/view/syakai/128986

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「財政危機」煽る財務省の大ウソが暴露された

 20日のNHKの日曜討論を見た国民は耳を疑ったのではないか。国民新党の亀井亜紀子参院議員(45)が、財政危機を煽る財務官僚の大ウソを暴露したのだ。
 国民新党はデフレ経済脱却のために建設国債や無利子非課税国債の発行など積極的な財政出動を提唱している。亀井議員が明かしたのは、この無利子非課税国債をめぐる財務省側とのやりとりだ。番組での発言の中身はざっとこんな感じだった。
〈財務省と(無利子非課税国債発行について)やりあったら、財務省は「そんなものを出したら日本の財政は大変だと海外に思われる。いま国債は安定的に償還されてるので必要ない」と言われた。「え? 日本は財政危機じゃないんですか」と聞いたら「大丈夫です」と。(財務省は)国民に言ってることと与党に言ってることが違うんです〉
 ビックリではないか。亀井議員の発言通りなら、財務省やスッカラ菅首相が騒いでいる「財政危機だから消費税増税だ」という理屈はやはりデタラメだったということだ。
「国民新党の考え方は、内需拡大のために市場にカネが回る仕組みが必要というもので、別に無利子非課税国債の発行にこだわっているのではありません。この方法がダメなら、財務省も代案を出してほしいと何度もやりとりしているのですが、財務省側はいつもノラリクラリごまかしてきたのです」(事情通)
 改めて亀井議員に発言の真意を聞いてみた。
「財務省は最初から消費税ありきなのです。無利子非課税国債を発行して困る人はいません。にもかかわらず、提案しても話が進まない。それで党に財務官僚を呼び、日本の財政状況について平時なのか非常時なのか聞いたら『平時です』と答えたのです。そもそも財務省は、海外に対しては『日本は対外金融資産が豊富で、国債の9割以上は国内で保有しているから財政危機ではない』と説明しているのに、国民に対しては『900兆円もの借金で大変だ』と言う。海外と国民に対する説明が違うのです」
 相手によって主張を百八十度変える二枚舌財務官僚。次はぜひ国会で追及してほしい。

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    アッハッハッハッハッハッ


まあ、こいつらはわかってるはずだよな、日本のゼニを担ってる連中なんだから。

言いたくねえけど、国民は完全にバカにされてるよね。
で、本気で財政問題だ、増税だと心配してるヤツらがかなりいるわけだが、アホじゃね? ってことだ。

そんなことより、こういうまともなニュース報道するの、日刊ゲンダイしかなくなっちまったのかね?(笑)
巨額脱税朝日さんたち、大新聞社グループはなにやってんだろね。
多少なりともマシなのは中日系だけか?
まあ、あそこも地元名古屋じゃいろいろあるみたいだけどな。

NHKも、自分の敷地の脇でやってたデモや、逮捕者まで出た赤坂のデモなんかまるで無視で、中東とパンダの話ばかり。
ほんと、ここまで来るとありえんわな。

いままでのジョーシキ、一度全部捨ててみたらどうかと思うぜ。
とくに、財政破綻論者とかハイパーインフレ論者のみなさま。


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メモ日記「生活」16

#284  「すさび」と「すき」

日本の古語には、語源的に見ると面白い言葉が多いが、「すさび」と「すき」もそうである。もともと、日本人は「侘しさ」を肯定的な「わび」とするような芸術感覚を持っているが、この二語もそうかもしれない。つまり、「遊び」を意味する「すさび」は、もともとは「荒れる」意味の「すさび」であり、風流を好む意味の「すき」は、当て字の「数寄」はともかく、もともとは「隙間」を意味する「すき」でもあったのではないだろうか。
「荒れる」ことも、「隙間」も、本来は好ましくない事柄のはずである。だが、本当にそうだろうか。埴谷雄高に「自同律の不快」という言葉がある。つまり、物事が、それ以外ではありえないという事実自体が不快だという感覚だ。これは、言葉を変えれば、「合理性の不快」でもあるだろう。我々は、合理性に従わないかぎりこの世に生きていけない。そのこと自体が、我々の自由への束縛に感じられるのである。我々がナンセンスのユーモアを好むのも、そのためだろう。そうした合理性、あるいは日常の論理への反逆が、「すさび」つまり「遊び」である。遊ぶことで、当然ながら日常は荒廃する。だから、「すさび」は「荒れる」ことでもあるのだ。「すき」も同様であり、緊密な日常性の中の隙間が「すき」という風流事なのである。「すき」とは、日常性に隙間を作ることなのである。
「余が風雅は夏炉冬扇のごとし」と言った芭蕉は、そのような風雅の意味を熟知していた。だから、俳諧者とは世間の余計者であるという覚悟のもとで生きていたのである。生産と消費という経済学的観点からは許容されないであろう余計者が、芸術家というものであったのだ。もっとも、日本人はまた、「遊びをせんとや生まれけん」という遊びの哲学を持っていた、素晴らしい民族でもあったのだが。

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メモ日記「生活」15

#283 書くことと生きること

人が物語を読むのは、もちろん娯楽のためだが、それは言葉を変えれば、「より高次元の現実」を求めることである。つまり、我々の送っている平凡退屈な日常を超える娯楽の世界が、我々の求める物語なのである。物語の純文学化は、だから、物語が平凡人のための娯楽であることから一部の高踏的趣味人のための学問・研究課題となったということだ。もちろん、彼らにとってはそれこそが「より高次元の現実」であるのだろうが、それは読者を失った物語であることが多い。
私が栗本薫に感心するのは、彼女がずっと「娯楽としての物語」への情熱を持ち続けていることである。臭い文章や過度の情緒、偏向した趣味など、彼女の作品には欠点も多いが、物語そのものへの愛情と、物語ることへの情熱という点では、彼女は確かに珍しいほどの存在である。「生きた、書いた、愛した」とは、確か、デュマの墓碑銘だったと思うが、栗本薫にとっては、書くことがそのまま生きることの意味であったのだろう。
つまり、物語が作れない人間とは、結局のところ、物語への愛情と情熱をそれほど持っていないということなのである。それはまた人間そのものへの興味がそれほど無い、ということでもあるだろう。物語とは結局は人間の様々な事件であり、人間の事件に興味が無くて、物語への興味があるはずは無いのだから。
だが、もちろん、人間への興味は無くても、退屈な日常への倦怠は誰にでもあるのだから、そうした人間も何らかの暇つぶしはする。漁色、大食、などの悪徳もその一つだ。

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メモ日記「生活」14

#280  不適切な訳語

 私は、物を書くのが好きなわりには、知識が不正確で、その上面倒くさがりだから、ろくに知らない事でも調べないままで書いてしまう性癖がある。だから、書いたものを公の場で提出することがやりにくい。まあ、私の場合は、書くことで思考の整理をすればそれでいい、というだけだから、書いたものが永遠に埋もれても、それで文句はない。ただ、自分の不正確な知識が、自分だけのせいではないという場合は、少々問題だとも思う。それは、同じような誤解がそのまま社会に流通する可能性が高いからである。
具体的に言うと、エリオットの「客観的相関物」という言葉である。私は、これを、作者がある漠然とした心情や思想を作品として形成する際に、それを具体的な事物の形で表現することだと思っていた。たとえば、「寂しさ」をそのまま「淋しい」という心情語で表現するのではなく、「青い空を漂う雲」のような具体的事物で表現することであろうと。だが、これはその原語が「objective correlative」であることを知らなかったためである。もしもこの原語を知っていたら、「correlative」から「correct」をすぐに連想し、これは「適切な対応物」とするべきだと判断でき、エリオットが「『ハムレット』は、主人公の感情に対応するobjective correlativeが無いから失敗作だ」と言った、その趣旨を、最初から分かっていただろう。(現代では、インターネットのおかげで、無知がすぐにばれるから怖いことだ。)

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メモ日記「生活」13

#278 禅とは何か

禅宗はもちろん、仏教の一派だが、これは仏教の中で特異な地位を占めている。他の仏教が、釈迦の教えを理解することにその努力を傾けるのに対し、禅宗はそうした他者依存を何より嫌う。つまり、「悟る」ことが目的なのであり、そのために邪魔ならば、釈迦も仏も不要なのである。これが「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ」ということだ。言葉を変えれば、仏とは自分自身が成るものであり、外部に存在するものではない、ということである。「お前たちの肉体の中に『無位の真人』がいる。まだわからない者は、よく見よ、見よ」という臨済の言葉はそれを表している。
では、悟りとは何か。それは心が外部によって脅かされることがなく、いかなる状況でもどっしりと落ち着いたものとなることである。これを心の「性(本性)」と「相(姿)」が一致した状態と言う。我々は日常的に心が動揺した状態にある。だから、不意打ちの打撃に対応できない。禅問答における一見意味不明の応酬は、実は、相手に不意打ちを与え、相手の境地を見るためであり、それがそのまま修行なのである。それ以外に特別な修行などはなく、日常生活がすべて修行なのである。食事も排便も修行なのだ。「徒然草」に、集団生活の決まりに従わない我が儘な坊さんの話がでてくるが、兼好がそれを賞賛しているのは、それが禅的には高い境地の表れだからだろう。「随所に主となる」ことができる人間こそが、禅的に完成された人間なのである。(1月8日)

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メモ日記「生活」12

#221 眠れる財宝

私はクラシック音楽や古いジャズ、ポップスが好きなのだが、無知と怠惰のために、それらに対する知識があまりにも少ない。しかし、それは世間の人間も同様で、古典音楽や古いジャズ、ポップスについての知識が無い人のほうが絶対的大多数だろう。実は、ここに膨大な宝の山についてのヒントがある。つまり、新しい才能を探すより眠った文化遺産の発掘をしてはどうかということだ。これは商売としても成立する話だ。
クラシックの場合だと、たとえばベートーベンの交響曲だと第五番の「運命」と、第九番の「合唱(付き)」、後は第六番の「田園」くらいがせいぜい演奏されるだけで、それら以上の名作である第七番はほとんど演奏される機会が無い。いや、四番も八番もそれなりの名作であるのだが、我々がそれを聞く機会そのものがほとんど無いのである。演奏会などで聞く曲目というと、いつも同じような曲である。たとえば、ボロディンの「ノクターン」など、名曲中の名曲であるが、演奏される機会は滅多に無い。名高いベートーベンやモーツァルトですら、その無数の作品の中で演奏される品目はほんのわずかなのだから、それ以外の作曲家の佳作の大半は実際に演奏さえされないままに埋もれているのである。なぜ、芸大などの演奏会で、積極的に無名作品を発掘して演奏しないのだろうか。それでは切符が売れない、と言うかもしれないが、こうしたことからクラシック復興の機運が盛り上がる可能性は高いのである。それは他のジャンルでも同様である。
注:この文章を書いたのはだいぶ前だが、その後、「のだめカンタービレ」の大ヒットで、ベートーベンの第七番は飛躍的に知名度を上げた。

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メモ日記「生活」11

#212 臨死体験の正体

臨死体験には洋の東西を問わず、共通点があって、そのため真実であると思っている人が多い。だが、死と生ははっきりと隔絶しているのであり、死んだ人がこの世に戻ってきた例は無い。あるのは、死の寸前まで行った人が戻ってきた例だけである。では、そういう人々の臨死体験とは何か。簡単に言えば、夢である。それも、夢であることが意識されている夢、つまり覚醒前の夢に近い夢だ。夢が、起きている間の現実の変形であることはフロイド以来、よく知られている(これを見事に表したのが、アニメの「銀河鉄道の夜」である。あの中の銀河鉄道の車輪の音は、昼間の印刷所の印刷機械の音で、それ以外にも様々な昼間の印象が形を変えて夢に現れている。)が、臨死体験では、自分が死にかかったことが分かっていて、自分で夢を作っているのである。自分が自分の夢を作っているという意識が、自分の死体を上空から見下ろす自分の魂というイメージとなり、また、西欧にも日本にも共通した「死んだ後で川を渡る」というイメージにもなるのである。しかし、そこで自分がまだ生きていることの意識が生じて、その合理化のために川の向こうで、以前に亡くなった親しい人間、祖父母や亡き両親が自分に「元の世界に帰れ」と忠告するわけである。つまり、臨死状態というのは一種の気絶状態であり、眠っているのである。手術などでの臨死状態なら、実際に麻酔で眠らされている場合もある。その浅い眠りの中で患者が作っているのが臨死体験なのである。浅い眠りだから、患者の周囲での人々の発言なども聞いており、それが臨死体験の中で語られる、それだけのことだ。

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メモ日記「生活」10

#181  市民としての想像力

現代の様々な社会的出来事、事件や事故を考えると、その多くが想像力の欠如と無知から来ているように思われる。現代の人間は、無数の情報にさらされており、一見、過去の時代の人々より知識が増えているように見えるが、実はその知識は自分の仕事に関する狭い知識と、テレビから得た芸能・娯楽の知識にすぎない。特に欠如しているのが、他人の内面を見抜くという姿勢である。現代人がいかに騙されやすいか、というのは、様々な詐欺事件や新興宗教に入る人々を見てもわかる。もちろん、騙すテクニックそのものも進歩しているのだが、それ以前に、現代の日本人は他人の悪意というものに対して無防備であり、自分を騙そうとしている人々の存在そのものを知らないのである。これを社会的想像力の衰退と言っていいだろう。昔の人間はこれほど容易には騙されなかったはずである。想像力の欠如は被害者だけのことではなく、犯罪の加害者も、自分がこういう行動をとれば、こういう結果になる、という想像が無いまま、粗暴な犯罪を行う例があまりに多い。特に、若い人々が家族や他人を殺傷する事件において、加害者は、犯罪の「その後」を想像しているとは思えないのである。そのたった一度の行為で、自分の一生をふいにするという覚悟があって犯罪に踏み切ったわけではけっしてないのである。ただ、かっとなって、衝動的に犯罪を行っただけなのだ。こういう想像力の欠如は、現代の社会全体にはびこっており、あるいはこれこそが日本社会のすべての問題の根底ではないかとも思われる。

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メモ日記「生活」9

#161 物の価値と人間の価値

価値ほど主観的なものは無い。特に美術品の価値など、見る人によって天と地ほどに違うものである。それを利用して、美術品は様々な「錬金術」に使われる。たとえば、織田信長が茶道に凝ったのは、実は茶道具の「価値」が主観的なものであることを利用して、手柄を立てた部下への褒美とするためだったという。つまり、土地には限りがあるから、部下への褒美として領土を与えていたらいつかは追いつかなくなる。そこで、茶道具を領土以上に価値があるものだと思わせて、部下を操る道具にしたわけである。白人が土人にガラス玉をくれて貴重な物産を手に入れたようなものだ。
現代でも、美術品の価値があいまいであることを利用して、政治家への賄賂にすることが行われるという。税務署に対してはあまり価値が無いように見せながら、大金が必要な時は、いつでも金に替えられるわけである。
物質として見た場合の人間の原価は1ドル程度だと言われている。それを利用したショートストーリーがあって、神様が貧しい若者に、1ドル分の願いを叶えようと言う。若者はがっかりするが、翌朝目覚めると、その枕もとに、若者が憧れていた女性が座っていたという話だ。というわけで、人間の価値は金には換算できないのであり、それを金に替えようとするから、「お前たちの値段は1銭5厘(赤紙の郵送代)だ」などという人間蔑視の思想が出てくるのである。

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