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他人に迷惑をかけないだけでも社会人として合格点

私自身がいい加減でズボラな性格のせいか、イトツ氏のようなこういう思想が大好きである。実は「葉隠」の中にも「人間、好きなことをして生きるのが一番だ。私は寝るのが好きだから、寝てばかりいる」という、ズボラ思想が書かれている。
世の中には神経症的なくらい真面目な人が多く、「意義のある生き方をしなくてはならない」とか、「人の役に立つ生き方をしなくてはいけない」と思い込んでいたりするが、犬も猫もべつに人の役に立ちたいなどと思ってはいない。なぜ人間だけ、他人や社会の役に立つように必死に努力しなくてはいけないのか。その結果が、毎年の自殺者数万人ではないか、という気がする。

人の役に立つより、「他人に迷惑をかけない」生き方をすることのほうが有益であり、全員がそうであれば世界は平和そのものである。逆に、自分は社会の役に立つと思っている人間の行動が、社会を不幸にしたりする。「富国強兵」思想など、まさにその種のものだろう。人間など、便利なものなど何もなくても、平和に寝て暮らせれば十分である。それさえもできない社会は地獄的な社会だろう。


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好きなことをやったらええがな。そげに深刻にならんでもええ。人の一生なんてものは、よっぽど上手くやったところで、結局は雲のように流れ去ってしまうもんだけんな。 イトツ(茂の父)










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周囲に強いられた義務と自分の本当の願い

どうやって生きていくのがいいのか、迷っている若い人への名言。


やるべきことはやるべきではない」


(「映像研には手を出すな!」第四巻より。)



意味不明なら、補足。(同作品より)






「やりたいことを」「やりたいようにやるのだ!!」




















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なぜモラルは衰退し、悪は栄えるのか

昔は、生きる範囲が限られていた(地域社会に限定されていた)から、モラルが有効だった。つまり、悪党の存在は地域社会にとって不利益だから村八分にされるので、誰でも(上辺だけでも)モラルを守っていた。だが、今では、或る地域で詐欺を行っても、そこから逃げて別の土地でまた詐欺を働くのは普通になっているし、生活範囲が広がったために「知らない人間との接触」が増え、悪事の被害者になる率も高くなった。言い換えれば、モラルが消え、「悪に有利で善に不利」な社会になるというのがグローバル化(には限らず、行動範囲の拡大)に伴う必然性なのではないか。
モラルでは束縛できない社会は法でしか人間は守れない。その法を規定し守らせる側が悪党だらけになれば、法すらも個人を守れないわけである。そういう社会でモラルに従って生きる人間は「時代遅れ」になるしかない。
未来はまさに、物質は栄え、人間は滅びるのが、妥当な推移だろうと思われる。








でもその中の限られた志ある人が、少しずつ世界を変えていくかもしれない。わずかな力でできることをして少しずつ。と思わせてくれる、私にはそんな映画でした。



  • 黒澤映画の『生きる』で末期がんの体を押して町の一角を整備して死んだ主人公を、役所の同僚たちが集まって泣きながら称え「俺もやるぞ!」みたいなこと言って盛り上がるんだけど、翌日出勤するといつもどおりののらくらしたお役所仕事を続けてる。あれは本当に人間や世の中の一面を描いてて見事です;



  • けして、ちゃかして言うんじゃなく、本当に、人はエンタメの悪を見たからといって悪に染まるとは限らないように、また善にも染まらない、ということなんじゃないでしょうか。それはそれこれはこれ、みたいな>RT


    取り消す
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    何でこんなことになったんだろう?毎週何百万人もいた少年漫画の読者は何を読んで何を受け取って何を感動していたんだろう?力の支配に打ち勝つ物語を送り続けて来たはずなのに…


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ユダヤ・キリスト教のダブルスタンダード

私がかなり前に書いた小論「革命者キリスト」の結語の部分だが、今読んでもかなり的確な指摘をしているかと思うので再掲載する。(「革命者キリスト」は「酔生夢人ブログ」に載せてあるはずだ。)(訂正:「酔生夢人ブログ」ではなく、この「徽宗皇帝ブログ」の「哲学・宗教・その他の思想」の一番最初に載せてあった。)

(以下一部再掲載)



結語



 



以上で、この小論は終わりである。キリスト教信者やユダヤ教信者には失礼な事ばかり書いてあるが、実は私が言いたいのは、一神教的世界観から来る西欧人種的発想の危険性なのである。本論中に述べたように、神に対する倫理と人間に対する倫理のダブルスタンダードの結果、西欧人種は、世界にとって危険な存在となっている。彼らの推進する自由貿易は、必ずと言っていいほどその相手国を貧困に落としいれ、西欧国家との間で恒常的な貿易を続ける限り(、モノカルチャーのプランテーションに縛られたアフリカ諸国のように)貧困から抜け出せない。そして、彼らの最大の特徴は、自分たちのルールを相手に押し付け、都合が悪くなるとそのルールそのものを平気で変えることだ。つまり、彼らには異民族や異人種へのモラルは無いのである。彼らのモラルは、あくまでキリスト教、もしくはユダヤ教を信じる同朋に対してのみ存在し、神を知らない異民族に対してのモラルなど存在しない。だから、東洋人やアフリカ人に対する西欧人の食言は当たり前の行為である。



現在、神の存在を信じている人間は、本当は西欧人にも多くはないはずだ。社会の上位層が嘘ばかりついていて、弱者の不幸に対して無関心で、毎年のように何万人もの人間が銃で死んでも平気で、何の正当な理由も無く他国に攻め込んでそこの住民を虐殺することを延々と続ける、アメリカのような国は、果たしてキリスト教国家なのだろうか。もしも、キリスト教という宗教がそれを許容するなら、キリスト教にはまったく価値は無い。アメリカ社会の上位層の多くはユダヤ人だから、ユダヤ教も同様だ。彼らは本当に、自分の宗教を信じているのだろうか。それとも、やはり、彼らの宗教とモラルは同朋に対してのみのものなのか。神への信仰が無くなった状態の(そして一神教的独善性のみを残した)西欧人とは、より悪質な、アモラル(無道徳)な存在となるのである。



私のこの文章を、非キリスト教徒の独断と偏見だと思う人も多いだろう。だが、これは、世界中の人間がキリスト教やユダヤ教に対して抱いている疑いを、歴史的な聖書と教会(私の言う「新キリスト教」)のあり方の分裂の点から切り込み、分析して考察したものにすぎないのである。同じような事を、紳士的に書けば、たとえば次のようなものになる。これは中央公論社刊「世界の名著13『聖書』」の責任編集者で、ご自身も敬虔なキリスト教徒である前田護郎氏の、同著作の序文中の一節である。



 



「キリスト教教会の歴史には東西ローマの分裂とか、血なまぐさい十字軍とか、残酷な宗教裁判とかがつづき、教会の権威が学問を圧迫したこともあり、近代になってもキリスト教徒同士の争いは絶えない。今世紀の二度の大戦で、いわゆるキリスト教国が大量殺人をしたので、教会はかなえの軽重を問われている。アジア、アフリカの人々の多くにとって、キリスト教は植民地帝国主義者の宗教である。六日間非キリスト教徒を搾取して七日目に教会へ行く人々がキリスト教徒である、という人が彼らの中にある。キリスト教国といわれる地域の中にも、白人と黒人とが別々の教会へ行かねばならぬほど人種的偏見が強いところがある。



われわれ日本人にとっては、スペイン、ポルトガルの侵略に協力したキリシタン・バテレンの歴史も忘れがたく、現代では、原子爆弾や戦争裁判に関係した諸国のキリスト教会の態度が問題にされるという事実も否定しえない。



しかし、これらはいずれもキリスト教会あるいはキリスト教徒のことであって、彼らによって聖書の精神が無視あるいは曲解されて、一部の人々の勢力を守るために他が犠牲にされた不祥事である。聖書と宗教体制としてのキリスト教会とを混同してはならない。」



 



この言葉は、私などよりよほど過激に、キリスト教会とキリスト教徒を批判しており、私が言いたいことの要点を尽くしている。同じ文中に、「哲学者ヤスパースが聖書の宗教をキリスト教と区別して扱うのは注目すべき例である」と述べているのも、同様である。



要するに、私が述べたことを一言で言えば、「キリストは『キリスト教徒』ではない」ということだ。逆に、「『キリスト教徒』はキリストの教えが分かっていない」と言ってもいい。



西欧人種は、彼ら自身の内面、彼らの宗教の根本を考える必要がある。日本人は? 我々は、宗教に規制されなくても、社会的モラルを守るという伝統がある。(その伝統も、西欧文明化=グローバリズムや西欧的拝金主義によってあやしくなってきたが。)日本人に必要なのは、そうした西欧人種の正体を知り、西欧人の利益のための「グローバル化」と「西欧化」をこのまま進めていいのかどうか反省することだろう。特に英語の世界語化による言語的階層世界への組み入れや、あるいは無意識の西欧崇拝根性育成の意味を。



世界中で、政治的な植民地的侵略の尖兵となった「キリスト教」に侵されなかった国はおそらく日本だけである。それは、「キリスト教」の侵略者的役割を見抜いた秀吉と家康の鎖国という英断によるものだ。他のアジア・アフリカ諸国はみな、「キリスト教」の宣教をカモフラージュとした侵略に国を食い荒らされたのである。その日本が今や、グローバル化という第二の植民地化の波に飲み込まれようとしているのである。ここで、「キリスト教」と西欧人種の本質についてよく考えておく必要があるだろう。



ついでながら、西欧植民地主義はけっして過去の話ではない。西欧人は、自分の植民地が独立した後でも、現地人政治指導者を傀儡として使うなど、何らかの形で、その植民地を支配しているのである。(自分たちの気に入らない政権が出来てしまった場合は「民主的指導者」を支援してその国に「革命」を起こさせる。)それは日本に対しても同じであり、被占領国であった日本はサンフランシスコ平和条約で形式的には独立したが、それと同時に結んだ日米安保条約で国内に米軍基地を置くことを余儀なくされ、米国への反抗は半永久的に不可能になったのである。(戦後すぐに、アメリカの政治資金と工作によって出来た政党が現在のJ民党である。その日本側の中心人物が本来なら戦犯である岸信介であることからも、アメリカの政治のニヒルなほどの現実主義がわかるだろう。)日本の政治はアメリカからの年次改革要望書などの形でアメリカから常にコントロールされており、一部の人間の間ではすでに常識だが、日本は決して本当の意味での独立国家ではないのだ。



しかし、政治的な次元での支配、つまり表面化している植民地的支配は、実はそれほど危険ではない。もっとも危険なのは、精神的な支配、我々の中に内面化された、自発的な被支配根性、奴隷根性である。支配のプロであるかつてのローマ帝国が被植民地の民族に養成しようとしてきたのも、自発的に支配に従う精神であり、「キリスト教」の利用もその一つである。話はキリスト教だけのことではないのだ。あらゆる宗教は政治との持ちつ持たれつの関係によってその力を拡大するのである。その信者には本来は罪はない。だが、政治と結びついたその行動によって彼らは世界全体に大きな被害を与えるのである。



「宗教は阿片である」という言葉は、それを言った人間が〈マルキシズム〉という「宗教的政治思想」の提唱者であるだけに価値を減じているが、その言葉自体は正しい。阿片は確かに現世の苦痛から逃避させてくれるというメリットがあり、終末期医療の手段としてなら大いに結構なものだが、現実的認識と行動を不可能にさせるという極端なデメリットがある。その危険性を再認識してもらうことが、私がこの小文を書いた理由の一つである。



 



[補記] 神の存在については、中江兆民が『続一年有半』の中で完全に論破している。この書は、世界の哲学書の中でもっともすぐれたものの一つだが、その内容が西欧精神の根本を否定しているために、これまで批評の対象とならなかったものである。興味のある人は、是非、一読を願いたい。



 



                    2008年 11月24日 記



                       



                    2009年 8月24日 一部改稿   



 


                    2009年 12月8日  一部追加    

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止まることも下がることも進むこと同様に意義がある

どうも人間というのは「進む」ことに過度にプラスイメージを持ち、止まることや後退することに過度にマイナスイメージを持ちすぎる気がする。「進化論」が世界的に大うけし、「社会進化論」にまで広げられたのもそのためだろう。会議などでも、威勢のいい「前進主義」の意見が慎重論を圧倒し、会社や組織を破滅させたりする。慎重論は「勇気が無い」と簡単に片づけられ、ゴミ箱行きになるのである。先の戦争での軍部の行動は、まさにそうして日本を地獄に引きずりこんだわけだ。
自然界では、進化に目的など無い。と言うより、たまたま環境の変化にうまく適合した変異個体が新環境で優性な種になっただけのことで、生物が意図的に進化したわけでも何でもないのは当然の話だが、進化(というより変化でしかないのだが)と進歩を混同するのが「進歩主義者」の常なのだろう。実際の人生では、立ち止まらないと周りの風景さえロクに目に入らないのだが。


(以下引用)



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学祭で虫の質問を受けて感じたのは、「進化には目的がある」「進化とは進歩である」と思っている人が多いということ。例えば「何のためにこういう形になったんですか?」とよく聞かれた。進化に方向性や価値があるわけではなく、ランダムに起こる個体変異のうちたまたま適応したものが残っているだけ。





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「自由」は言葉の運命としてほとんど必然的に放埓に至る

そもそも自由というのは他人の自由とぶつかるのが当然であり、無制限の自由などあるはずがない。たとえば人を自由に殺せるのは野蛮時代の国王くらいであった。法による自由の規制があるからこそ近代国家は成り立つのである。
ところが自由とは本来、制限が無い(制限を超える、制限を外す)ことを意味するから、〈現実には「制限された自由」が当然だ〉という事実は意識から追い出され、自由を主張するとしばしば野放図な自由がはびこることになる。つまり、「自由」という言葉を使った時点で、非常に危険性がある、と思っていい。
自由という言葉を使わなくても、「権利」という言葉で十分に表現できるのがほとんどではないか。たとえば、「表現の権利」と言えば、カマヤン氏の言う「表現の自由は人権の一形態である」ということは文句なしに示せるだろう。そして、権利とは本来制限があるものだ、ということは左右を問わず誰でも同意するだろう。


(以下引用)




「表現の自由」は「人権」の一形態なのに、「人権侵害する表現の自由」と解する人が一定数いるから、表現規制反対派は「表現の自由」という語をあまり使わないほうがいいと俺は思うのですよ。 / “ウーム、である - 走れ小心者 ARMAD…”





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損得勘定の前で倫理は無意義か

「株式日記と経済展望」から抜粋転載。
まあ、簡単に言えば「経済合理性(あるいは拝金思想)の前には倫理は無視される」というだけの話で、これは日本全国津々浦々にはびこっているし、あるいは世界中にはびこっている。通常はそれが見えないのは、それを「きれいごとで隠す」か、「圧力で隠すか」しているだけの話だ。

これも毎度書いている言い方で言えば、「案ずるに、筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし」であって、生活(人々の物欲)の前には正義(言論)は勝てない。「第三の男」の大観覧車の場面のハリー・ライムの言葉を借りれば、「あの、数十メートル下にいる黒点(人間)をひとつ消すごとに〇〇ポンド貰えるなら、それを断る人間なんているのかね。しかも税金無しだぜ」である。さらに遡れば、バルザックの小説に出てくる悪党ヴォートランの「君がひとつ頷くだけで、君のまったく知らないシナの高官の首が飛び、〇〇フラン貰えるなら、君は頷かないかね」である。
ただ、そうした行為は下劣な行為であり、下劣な行為をする者は、それをしたこと自体によって罰されている。それは、「自分は邪悪な、下劣な人間だ」という意識の下で生きるしかないことだ。意識はしなくても無意識の中で知ってはいる。(これがラスコリニコフの「罪」に対する「罰」である。)
すなわち、何億円の資産と収入があるだろう加計孝太郎や安倍総理や麻生大臣として生きるより、ただの貧乏人として、腹は減っても「気が飢える」ことなく清々しい気持ちで生きるほうがはるかにいい人生なのである。そもそも、彼ら(加計・安倍・麻生)の顔自体がその性根や生き方の汚さを明らかに示しているではないか。ああいう顔をぶら下げて人間面(づら)して生きるくらいなら、我が家の猫のほうが幸福だろう。


(以下引用)




そして、残念ながら、戦後もこの傾向はなくならなかった。いまだに継続されている。特に、ラグビー、野球、サッカー、テニスなどの体育会系運動部では、年功序列の上意下達型の縦社会組織が形成されているように思える。


そこでは、いまも目上の者に対する絶対的服従は当然であり、目下の者はいかなる命令にも背くことは許されない。非科学的な根性論や精神論がはびこっている。
このような関係のもとに、必然的に起こったのが、戦時中の特攻であり、今回の日大アメフト部の事件なのだ。
(中略)

リーダーが陥っている不条理

おそらく、いずれもケースも上層部が指示命令し、部下がその命令に忠実に従ったのだろう。


しかし、なぜ上司はそもそもこのようなルール違反で非人道的な命令をおこなったのか。答えは簡単だ。彼らはいずれも損得計算し、その結果、その方が得だと考えたからである。


つまり、不正なことを命令し、実行させることが合理的だという「不条理」に陥ったのである。(このメカニズムについては拙書『改革の不条理』に詳しく解説している)


戦時中、日本軍の上層部は、海軍航空隊の若手兵士たちの実力では、到底敵を攻撃することはできないことを認識していた。それゆえ、損得計算すれば、若者たちを直接敵に体当たりさせる方が合理的だったのである。


同様に、日大アメフト部の監督・コーチは、現在の日大の選手の能力では関西学院大学には勝てないと思ったのだろう。それゆえ、損得計算すると、相手選手を直接ケガさせた方が合理的だと判断した可能性がある。


このような上司たちが行う損得計算の結果を部下に実行させることは、命令と服従の原理が浸透している組織では容易なことだ。


しかも、このような損得計算にもとづく意思決定は、ある意味で合理的で客観的で科学的かもしれない。というのも、この同じ状況に置かれれば、だれでも同じ損得計算を行い、同じ結果をえる可能性があるからである。


それゆえ、そのような損得計算にもとづいて客観的に命令しているリーダーは、その責任を取る必要性を感じないのである。


しかし、このような損得計算を行うには、はじめから人間を物体や備品のような消耗品として扱う必要がある。


損得計算の中に人間を組み入れるには、一人ひとりの人間がもつ固有の価値、個性、歴史、そして尊厳など、はじめかから無視する必要があるのだ。そうでないと、損得計算ができないのである。


このような損得計算を行動原理として、上層部は徹底的に行動していたために、戦時中、日本軍は世界でも最も人間の命を粗末にしていたのであり、特攻という人間を兵器の代わりにする前代未聞の作戦を行う鋼鉄の檻のような冷酷な組織だったのである。


その結果、どうなったのか。その過ちからいまだ学んでない組織として日本の一部の体育会系運動部があるように思える。(後略)



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リベラルは不倫に寛容であるべきか?

「はてなブログ」とか何とかいうサイトから転載。(この書き方自体、軽蔑的であることから分かるように、あまり好きなサイトではないが、時々目から鱗が落ちるような記事もある。)
「リベラル」の定義を「善に対する正の優越」とすること自体疑問に思うのだが、リベラルは基本的に「自由の拡大」を目指すものであるから、他者の行為に対して寛容であるべきだ、とは言えるだろう。だが、個人の自由は他者の自由と衝突するのが常であり、特に結婚と不倫の問題で、リベラルだから不倫に寛容であるべき、とはならないのではないか。(リベラルとは政治思想であって、個人生活問題とは分けて考えるべきだ、とも言える。)基本的に、不倫はどちらかの配偶者に不利益を与えるものであり、不倫側に特に寛容である理由は私には分からない。まあ、結婚制度そのものを自由の束縛と考えるなら、不倫を擁護するより結婚という制度に反対すべきだろう。
「記事への反応」が、シニカルではあるが、実に的確な反論になっていて、思わずニヤリと笑ってしまった。

ちなみに、善も正も究極的には個人の主観(自分の信じる善や正を絶対的なものとする思想はドグマ、狂信であると思う。)でしかないのだから、善より正が優越する、という思想は私にはまったく理解できない。善と正は一致する、という思想のほうがまだ理解できる。(善も正も主観ではなく客観性を持つ、という考えが社会秩序を成り立たせているのはもちろん分かっている。ただし、客観的な善や正の基準や根拠はかなり怪しい、ということである。たとえば武士階級の善や正と百姓階級の善や正はまったく違うだろう。)


(以下引用)




2018-01-20

小室哲哉リベラリズムの敗北(*追記有)

以前ブコメ等で「リベラル不倫に対して寛容であるべきだ」と書いたことがあります


このタイミングにおいて、この件についてもう少し書いてみたいと思います。(*追記:できれば文末の追記1〜4まで含めてお読みいただければと思います


リベラリズムにおける基底的な考え方の1つとして、「善に対する正の優越」という考え方があります


この考え方は、リベラリズム特定の「善の構想」(何が善い人生であるか)を前提することなく、それぞれの個人が持つ「善の構想」を各人が自由に追求するための「フェアなルール」を整備することを目指すものである、という考え方です。(*この説明で腑に落ちない方は、「善に対する正の優越」や「善に対する正の優先」で適宜ググってみてください)


例えば、リベラリズムは「結婚すること/結婚しないこと」について特定の善の構想を持ちません。つまり結婚する人生も、結婚しない人生も、どちらが「善い」ものかということについてリベラリズムは関知しません。リベラリズムが目指すのは、「結婚する人生」が善いと思う人も「結婚しない人生」が善いと思う人も、どちらも”えこひいき”することなくフェアに暮らせるためのルールを整備することになります


私は、上記の「善に対する正の優越」という意味で「リベラル不倫に対して寛容であるべきだ」と考えています


多くの人々の感覚とはズレるかもしれませんが、「不倫は悪いもの」というのも人生における「特定の善の構想」を前提とした考え方になります。人には色々な事情があり、家族には色々な事情があります。色々な事情に応じて、人々には色々な「善の構想」が — 甘いものも苦いものも酸っぱいものも含めて — あるわけです。


もちろん各人の「善の構想」の追求も無制限に許されるものではありません。例えば、他者危害を与えるような「善の構想」の追求は当然に制限されることになります。その意味で、「不倫」についても不倫行為により危害を受けうる当事者家族や親しい関係者から非難されたり断罪されるのは正当なことでしょう。どんどん非難されたり断罪されたり(あるいは赦されたり)するとよいと思います


逆に言うと、不倫行為について非難したり断罪することの正統性があるのは、その当事者家族や親しい関係者だけだと思います関係ない第三者他人の「善の構想」に口をはさむというのは、(その構想が他者人権尊重抵触しない限り)少なくともリベラリズム立場からは、やるべきではないことだと私は考えます


また、そもそも、「誰を愛するべきか/誰と一緒にいるべきか」について社会関係ない第三者から指図されない、というのは現代において我々が獲得した「自己決定権人権」の中でもかなり基底的なものなのではないでしょうか?


上記の考えから、私はこれまで報道された有名人不倫について非難したり断罪たことは一切ありません。


今回、小室哲哉さんが不倫疑惑」によって 昨今の不倫に対する不寛容世間アングルの中で出た、不倫に対する疑義についての報道を契機として(しかも、不倫に類する行為は実際には存在しないであろうことがほぼ明白であるにもかかわらず)(*追記2)、その潜在能力の発揮が妨げられることになったのは、リベラリズムの信奉者として残念としか言いようがありません。


リベラル他者不倫行為に対して寛容であるべきなのです。


リベラルが考えるべきなのは、その不倫行為等の帰結により何れかの潜在能力の充足が果たされないような状況 --- 子供貧困など --- を生じさせないためのルール整備だと私は考えています


#追記:殺人への第三者から批判については本文中の"(その構想が他者人権尊重抵触しない限り)"の但し書きの部分に該当すると考えています。「他者人権尊重」に抵触する行為については第三者から批判は当然許容されるべきです。


#追記2:小室さんへの言及が舌足らずだったので変更しました。ブコメでご指摘いただいた方、ありがとうございました。


#追記3:私が勉強不足なのは認めます。皆様のブコメは大変勉強になります。「不倫」ではなく「婚姻恋愛」としておけばよかったですね。あと色々異論全然たくさんあると思うので異論をたくさん書いていただければ嬉しいです。(*特にガチプロガチプロ観点から何か書いてくれれば嬉しいなあ)


#追記4:「現状でリベラル不倫不寛容である」とは一言も書いていない(し思ってもいない)のですが。。。以前に「リベラル不倫に寛容であるべき」とブコメ等で書いたときに、「何言ってんだこのクソ馬鹿野郎」みたいな反応をいくつかいただいたことがあるので、自分としての上記の考えの理路をメモ的にまとめたのが本エントリーです。「リベラリズムの敗北」は道徳主義人民裁判みたいなもので人の社会的人生を終わらせてもやむなしという世間の流れが定着したことを指したものです。



記事への反応 -
  • anond:20180120101421

    言いたいことはなんとなく理解したけど日本人全員がリベラルなわけじゃないだろう そしてリベラルじゃない人にリベラル思想を押し付けるのもリベラルじゃないって事でおk? また...




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自殺の統計への感想

「混沌堂主人雑記」に載っていたグラフを転載。
上の方のグラフはいろいろと面白い。
一見して分かるのは、ギリシア、イタリアなどEU内では経済がうまくいっていない国の自殺が少ないことだ。これは、能天気な国民性だと貧しいだけでは自殺しにくい、ということではないかwww まあ、いざとなれば売春をしてでも女の紐になってでも生きていけばいいさ、という連中はなかなか死なないwww 下手にプライドがあると自殺する。
一見しただけだと気づきにくいのは、男女の自殺率が、世界的に見ても(まあ、世界的と言うほど網羅的な統計ではないが)大きく差があることだ。つまり、男は自殺しやすい。女はなかなか自殺しない。これは、男が観念的な生き物で、つまらない観念で頭がコチコチになっているのに対し、女はより本能的な生き物だからだろうと私は思っている。観念に縛られると、観念に殺される。だが、本能を優先させれば、自己保存は本能の最たるものであるから自殺という選択肢は出て来ない。
三島由紀夫など、観念の化け物だから、若いころから死に憧れており、ああいう最期を遂げた。作家に自殺が多いのも観念に殺されるわけである。女の自殺はたいていが情死や心中ではないか。言い換えれば、同情や共感、優しさゆえの自殺だ。自分自身の存在や生きることで受ける恥辱を嫌悪するがゆえの(いわば本質的にはエゴイズムからの)観念的自殺は男に多いように思う。
もっとも、私は観念からの自殺を否定するものではない。自殺は究極的な「自己決定」であり、「自殺権」は人権の最たるものだと思っている。
自殺を許さないというのは人間以上の存在、つまり神を想定しないかぎりありえない話だろう。神に与えられた命だから、当人にはそれを処分する権利は無い、という思想である。
もちろん、無神論的社会でも、自殺を「無責任だ。周囲の人間に迷惑だ」と非難したり批判したりするのは周囲の人間の勝手だ。だが、「人間には生きる義務がある」などというお説教は余計なお世話というものである。生きようが死のうが当人の勝手である。

下のグラフは、「まあ、当然の結果だろうなあ」という感想だ。今の日本(あるいは韓国)のような、若者にとって「(未来への)夢も希望も無い」国で若者がどんどん自殺するのは当たり前である。

ただ、若者のために忠告しておくが、私は10代のころは毎日のように自殺を考えていたが、あのころ自殺しなくてよかったと思っている。たいていの悩みは自分自身で作り出した妄想であり(特に劣等感や恋愛関係の悩みはそうだろう。)、自殺は悩み事のいい解決策かもしれないが一度しか使えないという欠点があるwww 旧約聖書の中に「最後まで耐え抜いた者は救われる」という言葉があり、若いころの私は自殺念慮が起こるたびに、なぜかその言葉を想起しては自殺を延期し、結局、若さゆえの神経過敏が治まるころには自殺したいなどという気持ちはまったく起こらなくなった。
解決困難な人生問題に対する一番の解決策は、問題を棚上げすることだ。そうすれば、たいていの問題は、問題自体がいつのまにか消滅する。(若いころの自殺念慮は、当人が思っているようなあれこれが原因ではなく、実は若さそのものが原因であるから、若さが無くなれば自然消滅するわけだ。それに類似した錯誤は多いと思う。)

なお、「最後まで耐え抜いた者は救われる」は、よく考えると、「最後まで」とは「救われるまで(現在の状態が終わるまで)」ということであり、生きたまま救われるか死ぬことで救われるかは別として、「最後まで」行けば救われるのは当然なのである。つまり、これは「救われるまで耐え抜いた者は救われる」という同義反復とも言えるが、数学的真理とも言えるわけだwww


蛇足だが、「最後まで耐え抜いた者は救われる」という言葉を知ったのは旧約聖書を読んでではなく、ドストエフスキーの本によってである。そういう意味では私はドストエフスキーに命を救われているとも言える。ひとつの言葉が命を救う、ということは珍しくない。逆も真なりで、ひとつの言葉が人の命を奪うこともある。



(以下引用)




出典:しきそく



出典:しきそく





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現実を通して真実に至るという、「漸近線」的な試み

「現実」と「事実」と「真実」という言葉の使い分けをするほど、これらの言葉を私は明確に意識して使っていないが、とりあえず、「現実」そのものを見ることや記録することや伝えることの困難さ、そこから「真実」を把握することがいかに至難のわざであるのかがよく分かる。

この記事の場合で言えば、戦地での兵士が見た「現実」そのものが、兵士の頭の中のフィルターを経て記録され、その「歪められた現実」が、本の著作者の頭の中のフィルターを経てさらに歪められた現実となって著作化される。それを解題を書いた人によって「真実」に戻そうとする試みが行われ、その一端は成功するが、同時にそれもまた解題を書いた人のフィルターによって歪められたものかもしれないという懸念は確実にあるのである。
そうした幾重もの過程を経て「現実や事実とされるもの」の記録が後の世代に残っていく。

安易に現実や事実についての何かの言説を信じるべきではない、という結論もここからは出るが、しかし人間の認識力や表現力はもともとそういう限界を持っているのであり、そうした「原始的な道具」を使ってここまで人類の文化が発展してきたことは驚異的であるとも言える。要するに、誠実に努力をすれば、そういう原始的な道具を使ってもかなり満足のいく成果は上げられる、ということだ。


(以下「紙屋研究所」から引用)

2017-05-21 戦時の日常はのんきだったか 『「北支」占領』

田宮昌子『「北支占領 その実相の断片 日中戦争従軍将兵の遺品と人生から』Add Star




「北支」占領 その実相の断片 -日中戦争従軍将兵の遺品と人生から- 宮崎の「平和の塔」(その実態は「八紘一宇の塔」だけど)前の売店にふらりと立ち寄った時、まったく偶然に手に取った。




 「戦況や戦闘ではなく、一見『平穏な日常』と化してさえいた占領の諸側面」を描き、「対象となってこなかった諸側面」を描いているということに興味があったので購入して読んだ。遺品を残したのは、「とりたてて好戦的でも反戦的でもない平凡な個人」(いずれも本書p.22)であるという。したがって、


戦争の大義従軍への彼らの姿勢と意識は「時代の趨勢」の側に居た大多数の国民や、戦争の遂行にあたった大多数の将兵の意識に繋がるだろう。(本書p.22)




 この本は、「北支」すなわち中国北部華北)を占領した日本軍将兵として参加した3人の日本人の資料・遺品から占領の日常・実態を読み解こうというものだ。「北支」に派遣された独立混成第四旅団に参加した田宮圭川、山本泉、田村泰次郎の3人である。




 この本の読みどころは3つある。


 第一に、戦後の戦争批判の洗礼を受けることのない将兵の日常感覚、生活感覚がわかること。


 第二に、中国民衆との「対話」「往来性」、つまり侵略をうけた人びととの乖離や対決。


 第三に、筆者・田宮昌子と、「解題」を書いた加藤修弘との対決である。



将兵の日常感覚、生活感覚がわかる

 第一の点、すなわち戦後の戦争批判の洗礼を受けることのない、戦時のままの将兵の日常感覚、生活感覚がわかる、という点について。占領=侵略をおこなった将兵の感覚と生活、ということである。


 圭川のアルバムやそこに書き込まれたメモ。


 それを眺めると、占領の日常が驚くほど「のんき」なように見えてくるのだ。


 典型的なのが、子どもたちとの交歓だろう。


 子どもたちとののどかな写真に加えて、現地人たちの証言が載っている。


日本兵の中には子供の頭を撫でて涙ぐむ人も居た。自分の子供を思い出すんだろう。(日本兵だって)人情もあった(盂県文化研究会13.4.23)。(本書p.114)



実を言えば、兵隊たちの中には子供を可愛がる者が結構いた。ほんとのことだ。(日本兵だって)何もいいとこがなかった訳じゃない(杜修新07.9.5)。(同前)


 「日本軍がおこなったことは、残虐でもなく、侵略でもなかった」という「根拠」となりがちなのは、こうした側面をとりあげるからだろう。




侵略をうけた人びととの乖離や対決

 第二の点、中国民衆との「対話」「往来性」、つまり侵略をうけた人びととの乖離や対決。


 どういうことか。


 この本では、アルバムやメモを紹介するだけでなく、実際に現地に行ってみて現在はどうなっているか、どんな土地なのかを確かめるとともに、当時のことを現地人に聞いているのである。


 それですぐ「乖離」があらわになるわけではない。


 先ほど述べたように、当時少年だった住民たちからは、むしろ日本軍にかわいがられた思い出が出されたりする。


 また、「慰安婦」たちとの、これまたのんびりした日常を撮ったスナップも多い。


 しかし、こうした写真、メモ、「事実」自体が、いかにもナイーブな解釈であることは、さらにつっこんだ取材や認識の中で明らかにされていく。




 たとえば、纏足を撮影されている3人の現地女性の写真がある。


 「ものめずらしさ」から撮影したものに違いないが、写真の3人の女性たちの顔はこわばっている。囚人の管理用ポートレートを撮影しているようなカタさなのである。纏足が、当時のある種の中国女性にとって「夫以外の男性には決して布を解いて裸の足を見せることはしない」(p.316)ものであるという認識の弱さ、その「無邪気」な撮影自体が、占領という権力者と被占領という弱者の圧倒的な対照であることを思い知らされる。




 また、現地住民は「苦力」として駆り出され、しかし、大人は殴られるものの子どもであれば殴られないので、子どもがよく派遣されたという事実をふまえると、その中での「子どもとの交流」という構図も明らかになる。




 都市と農村での体験の差も明らかになる。日本兵が来れば若い男と女は姿を隠してしまい、年寄りと子どもだけが残り日本兵使役に駆り出される過酷な農村部に対し、


一方で、大隊本部があった盂県城に住んで居た孫賜芹さんは八年近くにわたる占領期に使役を経験していない。「自分は子供で、毎日学校に行っていました」と言う。部隊長の歓送迎式など軍の行事に地元の小学生が動員されてはいるが使役はされていない。旅団司令部があった陽泉でも使役の話は出なかった。都市と農村、あるいは学校に行っているかどうかで状況は違うようだ。(本書p.114)




 さらに、「対日協力者」として占領軍日本軍)の「手先」になって現地統治の尖兵となった人間がどのように現地でその後遇されたか、という問題も興味深い。


 ぼくらの予想は、中国共産党政権ができてからは激しく追及されたに違いない、ということなりがちだが、たとえばここに出てくる李宜春という「対日協力者」は、まったく違う。


 李は、日本軍による現地傀儡組織「維持会」の会長を務めながら、共産党とも関係をもったとされる。日本軍との良好な関係を保ちつつ、それを利用するという二面性をもつ難しさを生き抜き、戦後も平穏に生活したという。詳しくは書かないが、県の抗日史では「愛国志士」「地下の党組織に派遣された」存在として描かれている。他方で、漢奸として処刑された「対日協力者」もおり、地元民の証言などからすればその地位で悪いことをしたかどうか、特に「血債」、殺人をしたかどうかが大きな分かれ目になっているようだった。


 このような事実ひとつをとってみても、例えば「現地人リーダーと良好な関係だったから、暴虐や侵略という事実はなかった」という言説の根拠にはなりえないことがわかる。




 圧巻は、李の長女に聞き取りをするために、著者・田宮がインタビューに出かけた時のシーンだ。


 長女は、絶対に会わないと憤り、会ったときも現地語でわめきながら、いきなり踊りかかるように著者に詰め寄ってきた。そして、聞き取り中も絶対に田宮に向かい合おうとしない(その写真まで載っている)。解題を書いた加藤が「臨場感と緊迫感に満ちている」「迫真ドキュメンタリー」(本書p.318)と述べているように、この「出会い」の場の迫力に圧倒される。



「解題」執筆者と著者との対決

 第三の点、筆者・田宮昌子と、「解題」を書いた加藤修弘との対決とはどういうことか。


 実は、少なくともぼくについては、この「解題」を読んで初めて、3人のいた「独立混成第四旅団」の役割、日本軍の戦略・戦術意図がよくわかった。


 「解題」はこの本のおわりにまとめて収録されているけれども、むしろ初めから読むべきもので、必読部分である。




 特に、「百団大戦」による中国共産党側の反撃によって、日本軍の報復的暴力や、治安再編にともなう暴力が吹き荒れた土地であるという、その背景がよくわかる。


 そうした全体像のなかで、アルバムやメモを見ると、その「のんき」さの異様が浮かび上がる。


圭川のアルバム写真やそれに添えられた詞書きを通観するとき、そこには戦場が生みだした悲惨な現実というものがほとんど見えてこない。(本書p.310)



圭川が必死に信じようとした「大東亜共栄」の理想は、戦場の醜い現実によって既に裏切られていた。そのことを知らないままに死んでいったのだとしたら……。圭川だけではなく、この時代の日本の若者たちの膨大な数の死を、「それもまた一つの青春」程度の薄っぺらな一言で片づけては絶対にならない。まして「英霊として国に殉じた」などと歯の浮くような決まり文句で葬り去ってしまうなどもっての外である。私はこの解題をそうした一種の「怒り」に押されて書いた。(本書p.329-330)




 圭川と同じ部隊にいた田村泰次郎や、加藤が取材をしてきた(同部隊の)近藤一の批判的な筆致との落差がすごい。(田村の場合は戦後と戦前の落差)


もし圭川が侵略の現実を伝える数々の事実に最後まで気づくことなく、それをただ「懐旧」のアルバムとして残したのだとしたら、圭川が戦場に置いてきた人生とはまるで幽霊のように実体のないものでしかない。(本書p.329、強調は引用者)


 ここまでいうか?


 「幽霊のように実体のない」人生とされた圭川の肉親・田宮昌子から解題を依頼されながら、なんともすさまじい。まさに、両者は対決しているのである。




「軍靴の音が忍び寄る不安の時代」?

 筆者・田宮昌子は、従来の「軍靴の音が忍び寄る不安の時代」という戦前・戦時イメージをはじめは想定し、遺品の行間からその苦悩が読み取れないかと挑んだという。


 ところが、そのような苦悩が「存在しなかった」というところまできて「愕然」とする。本書を出すべきなのか? とさえ思ったのだという。


 田宮が出した結論は、こうである。


――戦時に懊悩した良心を持つ層は一部であり、大多数は、そうではなく順応してしまった、というものだった。


――戦後は、希望としてその(国民のごく一部である)「良心」の物語を描くことが好まれた。しかし、今は、その「大多数」を知ることの方が重要だったのではないか。




 このことは、『この世界の片隅に』の評や、戦前・戦時を評する言葉の中に見られる問題と重なる。つまり「戦争前・戦争しているときは、そんなに暗い時代ではなかった」という話だ。




 言い換えればこうである。


 暗い時代とは思っていなかった。


 しかし、実は暗黒の対外侵略の上にその「平和ボケ」は成り立っており、そのことは自分たちがヤラれはじめるまでは無自覚であり続けた、という危険の構図だ。


 田宮は新潟県での戦争別戦没者での「戦死率」が日清戦争0.8%、日露戦争4.4%、満州事変0.4%、日中戦争10.3%で、太平洋戦争で83.6%と壊滅的となることを示して *1、次のように書いている。




泉アルバム〔戦後も生きのびた山本泉のアルバムのこと――引用者注〕には「中国では勝っていた」という表現が何度も登場する。外地において自国兵士の戦士があったとしても、母社会に脅威や破壊をもたらさない戦は厭戦に結びつかないようだ。戦争が他国への一方的で優勢な武力行使に留まる間は社会はむしろ好戦的である。米国軍事力によって日本本土が悲惨な被害を蒙るまで、戦争や従軍というものに与えられていたこのような社会的位置づけやムードは戦後社会に殆ど伝わっていない。(本書p.252)


 この問題は、清沢洌『暗黒日記』で、空襲が激しくなった1945年になって清沢が「昨夜から今晩にかけ3回空襲警報なる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わず眠ってしまうが、それにしても危ない」と書いた上で、「日本国民は、今、初めて『戦争』を経験している」と述べたことと重なる。



この世界の片隅に』の「危うさ」と魅力

 こうした意識で見たとき、「戦時の日常」をそのまま描くことのきわどさ、言い換えると危険性、ナイーブさの問題にも気づく。


 『この世界の片隅に』はそのような意味で、圧倒的に「呑気な戦時の日常」と、「空襲被害を受けて気づく戦争」に一つの焦点を当てている。ただし、マンガ者のこうの史代映画監督片渕須直もその「ナイーブ」さには気づいていたし、作品としてはまさにそこに一つの意義・魅力がある。*2




 『「北支」占領』に戻ろう。


 本書は、当時の国民、将兵たち、それがたとえ戦地に出かけている将兵であっても、「のんきでナイーブ」であった可能性を示しているし、同時にそれが実際にはどんな暴力に支えられた「日常」であったかを対決させている、スリリングな一冊である。



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