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徽宗皇帝のブログ

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閉鎖空間の危険性
「株式日記と経済展望」3月20日記事の「私のコメント」部分を転載。
記事前半の引用記事部分も面白いが、かなり長文なので割愛する。
まあ、要するに、「閉鎖空間に人間の集団を置き続けるとキチガイ化する」ということで、これはどんな組織にも当てはまるだろう。いや、組織に限らず、閉鎖的な集落もキチガイ化しがちであることは知られている。そういう人間集団ではその集団の精神規範から少しでも外れた者は異物と認識され、排除や敵視の対象となる。
まあ、そういうことを言うと、組織を作ること自体が不可能になってしまい、組織化のメリットが享受できなくなるわけだから、組織には常にそういう危険性がある、ということをできるだけ多くの人が知り、「組織悪」の発生に敏感になることが大事だろう。そして、組織悪が発生しないようなシステムやルールをあらかじめ構築することである。学校や会社で言えば、物事をすべて「内部ルール」だけで片付けることが諸悪の根源だと思われる。常に、どこかで外界に開かれた空間であるべきだろう。言い換えれば、集団の異物にとって「逃げ場」があるかどうかだ。学校にも家庭にも逃げ場の無い生徒が自殺などをするのではないか。

たとえば、「登校し、テストで一定の点数(及第点)を取りさえすれば、後は(法律に触れない限り)どこで何をしてもいい」というような学校というのがあってもいいと思う。それなら閉鎖空間での人間関係とはほとんど無関係に学校生活を送れるわけである。授業に出なくてもいいし、登校時間のすべてを図書館などで過ごしてもいいということだ。学校は、勉学の便宜は与えているわけだから、それ以上は生徒に関わる必要もないし、したがって生徒への責任を問われることもなくなる。過度のいじめなどは警察の問題となるだけの話だ。


(以下引用)





日本の学校は塀に囲まれて見るからに閉鎖的ですが、一般社会とのつながりがあまりない。生徒たちは狭い教室に閉じ込められて授業を受けている。学校の先生方も社会における外部の経験がなくて、新卒で学校の先生になることが多い。だから一般社会の事をあまり知らない先生が多い。

学校の先生になるような人は、新卒の先生ではなくて、社会で実績のある人を先生に入れていったらと思うのですが、学校の先生は年功賃金体系であり、途中から採用になった先生は新卒者と同じ給料になってしまう。学校の校長も一般公募した例がありますが、あまり上手く行っていない。

ただでさえ閉鎖的な学校で、先生も閉鎖的になりがちで、いじめの問題が起きても学校内で隠蔽しようとする。結局は校舎自体も塀に囲まれた閉鎖空間であり、外部との人的な交流も少ない。日本の会社も新卒採用から始まって終身雇用と年功序列の閉鎖された社会であり、中途採用の少なさは閉鎖された環境をもたらす。

学校におけるいじめや企業におけるパワハラも同じであり、閉鎖された環境でなければ起きない現象だろう。もし学校も会社も自由な環境ならば、いじめが起きればそんな学校は辞めてたの学校に移ればいい。パワハラが起きるような会社も辞めて他の会社に移ればいい。ところが日本社会はそのようになっていない。

私の学校生活にしても会社員だった生活にしても、あまりいい思い出はない。閉鎖された空間が生徒や会社員を陰湿にさせて行ってしまう。サラリーマン時代でも一歩裏に回れば足の引っ張り合いであり、影で悪口を言い合っている。私はいじめられることもパワハラに合うこともなかったが、会社員時代には自殺したり精神がおかしくなる同僚がいた。

だから私は早くから会社を辞めて独立起業を目指すことにした。自営業を始めてから上司のパワハラは受けることはなくなったが、何から何まで困難は自分の実力で切り抜けなければならなくなった。逆に言えば実力さえあれば自由になれる。サラリーマン社会は実力がなくても出世ができる社会であり、失敗しても責任を問われない。

高須賀氏は、「他にも職場のパワハラ・セクハラ問題も全く同じだろう。あれを一般社会でやったら、恫喝や恐喝・痴漢と何も変わりがない。けど会社という閉ざされた閉鎖空間でそれが行われると、なぜか加害者ではなく被害者が悪い事になってしまったりする。」と書いているが、隠蔽体質は会社にもある。

日本全体でも、島国の環境から閉鎖的になりがちですが、日本人は村八分になることを異常の恐れる。少し変わっていると変人奇人扱いして排除しようとする。人と同じであることに喜びを感じて、個性的であることを変人扱いする。アメリカなどでは個性的で自己主張がなければ埋没してしまう。結局はアメリカという環境が広くて自由だからだろう。


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