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徽宗皇帝のブログ

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「民主主義」に別れを
この記事のタイトルは意図的に誤解を招く可能性のあるものにしている。いや、誤解ではないが、主旨としては「民主主義という言葉に別れを告げよう」ということなのである。
私は基本的には大衆の側に立つ者だが、「民主主義」は実現不可能な思想で、その幻想を世界の支配者たちにマスコミ操作や選挙操作で上手く利用されている、という考えである。
政治の主権が民衆にあるという思想が幻想でなくて何だろうか。これはルソーがイギリス人について言ったように「イギリス人(民主主義を標榜する国家の国民)は選挙の間だけ主権者で、それが終わると奴隷に戻る」というのが永遠の真理だろう。
たとえば岸田政権の支持率がもはや20%を切ろうとし、その政策への支持率も5割以下である。はたしてこれは民意を反映した政権であり、政策だろうか。民衆がその政権を支持せず、その政策を支持しない国のどこが「民主主義」国家であり、「民衆に主権がある」と言えるのか。

毎度言うが、「民主」とは「民衆主権」の意味であり、「主権」という言葉が迷妄の元なのだから、「民主主義」という言葉、あるいは「民衆による支配」が原義である「デモクラシー」という言葉に我々は別れを告げるべきなのである。それで初めて、国民は政治の現実を知るわけだ。現実の正しい認識こそが正しい行動への第一歩なのである。

そこで私が提示したいのが「民衆主義」という言葉だ。もちろん、デモクラシーの訳語には「民本主義」という言葉もあり、これは「民主主義」よりはマシだが、やはり「民衆本位」あるいは「民衆を根本とする」という幻想(当然、その思想自体が現実の支配層と敵対するしかない。)に基づいた言葉で、現実政治的には実現不可能な思想だろう。
しかし「民衆主義」なら。「私は民衆の側に立つ」という政治姿勢(理想)を示すだけであり、実はこれこそが政治家に一番望まれる姿勢である。「人民(大衆)主権」などと言うから、少しでも常識が働く人間には馬鹿にされ毛嫌いされるのだ。そもそも「人民」とは抽象的存在であり、意思の確認すら現実には困難な存在だ。多数決で意思が判断されるなら、少数者には権利はゼロなのか。そういう抽象存在に主権があるというのが幻想でなくて何か。
ここで想像される「反民主主義(反民衆主義)者」には「体制側に付く」人間が多いことは、今は特に問題にはしない。要するに、「主権」問題の現実を私は論じているのである。
では、「民衆主義」だとどうなるかと言えば、実は近代のヒューマニストたちのほとんどがその中に含まれるのである。トルストイもドストエフスキーも、「あなたは民主主義者か」と言われたら首をひねるだろうが、「あなたは民衆主義者だ」と言われたら肯定するだろう。つまり、「民衆主義」には、主権問題が存在しないから、現実にその人間が保守主義だろうが革新主義だろうが、そこには何の問題も無いのである。「神の存在」に関して思想的天敵であるヴォルテールとドストエフスキーも、「民衆主義」という一点では同じ陣営に入るのではないか。
少し強弁すれば、「民主主義」は実現までは主権争奪戦を通じて「支配層は敵だ」となり、実現後には「支配層は我儘を通し、民衆の「主権」を無視しているから『民衆』ではない。つまり民衆の敵だ」となるが、「民衆主義」は、権力者も民衆も「国民という民衆の一員だ」と考えることができる。つまり、そこには血で血を洗う争闘の種が無いのである。まあ、「俺は民衆ではなくエリートだ」と考える連中だけは除外されるかもしれないが、そういう連中は「民衆主義」の広がりによって謙虚な姿勢を身に付けるか、自然淘汰されるだろう。

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