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徽宗皇帝のブログ

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「組織嫌悪」思想が新自由主義をはびこらせた?
「混沌堂主人雑記」から「反戦な家づくり」記事の一部を転載。前半部分には異論があるし、組織論としては後半だけでも考察対象になるかと思うからである。後半部分も全肯定というわけではないが、面白い。
つまり、新自由主義が日本を食い散らかしたのはリベラル陣営、あるいは知識人たちの組織嫌悪に原因がある、という考えと見ていいかと思うが、どうなのだろうか。

私は、この点(新自由主義との戦い)においては、組織的抵抗が無かったから敗北した(あるいは敗北途上である)とは思えない。そもそも、敵である「新自由主義」とは、思想(抽象存在)であり、しかも「私は新自由主義者だ」と明言している人は私は見たことが無い。そういう「悪霊のような存在」に「組織的抵抗」が可能だろうか。
なお、行動の面から言えば、現在の日本を牛耳っている存在は安倍(新自由主義政策のトップ)、竹中(新自由主義政策の黒幕)、橋下(マスコミからの新自由主義援護活動者)以下、すべて新自由主義者である。雑魚レベルの新自由主義者は自民党維新その他与党政権のほとんどがそうだ。
なお、再度、「新自由主義」の定義をしておけば、「あらゆる法的制限を廃止して、資本家や経営者の自由に任せる」という思想である。つまり、法律が資本家の悪事を罰することができない、という地獄(究極の資本主義)である。その象徴がTPPだ。これは会社(国際資本)という私的存在が政府より上に立つという恐るべき条約である。

好意的に見るならば、明月飛鳥氏は「組織化された市民による政治変革」を望んでいるため、「戦いのためには組織化が必要なのだから、組織嫌悪を無くそう」という思いでこの文章を書いたのだろうし、その姿勢自体は間違いではないと思う。ただ、私は「組織は必然的に腐敗する」という考えなので、組織の持つパワーは大事だとは思うものの、むしろ「啓蒙活動による民衆の精神の変革」こそが、歩みはカタツムリのように遅くても、着実に世の中を変えると思っている。


(以下引用)


組織嫌いのもう一つの歴史的な理由は 「共産主義」 の失敗でしょう。

スターリンが象徴的なように もともとは人民の味方のはずだった共産主義が究極の腐敗組織になる。
日本でも、共産党はもちろん、それに反発したはずの新左翼のなれの果て、総括という名の壮絶なリンチ殺人、どれを見ても「組織は腐敗する」と思わざるを得なかったわけです。

正義を盾に責任をとらない。これが共産主義の失敗の根本です。
組織の腐敗に 目的は関係ありません。
役割分担とコミュニケーションが機能しなくなったとき、もう腐っているのです。

そんなわけで、とくにリベラルとか反体制的な考えの人が、「組織」に対して非常にネガティブなのは、やはりこの経験が大きいのだと思います。
気持ちはよ~~~~くわかります。
今でこそ、やや記憶も薄れて総括という言葉を普通に使えますが、少し昔は「ソウカツ」なんて非常に口にしにくかったものです。

しかし

しかし、と思うのです。

浅間山荘事件が1973年 その後、政治に対する「組織」的な反抗は影を潜め、「マイホーム主義」とか「ジャパンアズナンバーワン」とか言われる平穏な70年代が過ぎました。
そしてふと気が付くと、第二次臨調なるものが国を引き回し初め、民営化の波が押し寄せ、労働組合は解体されていきました。
今から振り返ってみれば、1980年代は新自由主義という名の国際資本に日本中が浸食されていったのです。

組織的な抵抗に躊躇している間に、日本はネオリベに侵略されたネオ日本になってしまったのです。
国鉄分割民営化にたいする国労の闘いなどはありましたが、多くの国民は冷たく眺めていました。
世界第2位の経済を乗っ取るのに、抵抗らしい抵抗もなかったのですから、新自由主義もさぞやウハウハだったことでしょう。

こうした静かな侵略の総仕上げが、1989年の総評解体と、1991年のバブル崩壊です。
労働組合の全国組織だった総評は、もともとは第二組合(組合潰しのための組合)だった同盟に吸収されて、現在の連合になってしまいます。
そして、人為的なバブルとその崩壊は、膨大な国富を外資にタダ同然で提供し、超長期のデフレが始まり、日本は米国のATMとなってしまいました。

「組織」に怯え、抵抗することに怯えている間に、日本は取り返しがつかない姿にされてしまったのです。

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