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徽宗皇帝のブログ

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エリートとは「待遇のいい奴隷」のこと

私は他人の文章を読む時に、あまり深い検討を加えないで流し読みし、全体の要旨を先に捉えようとする癖がある。まあ、国語の試験などはそれでないと高得点は得られないからそういう癖がついたのだが、この癖の欠点は、細部の検討をすることがひどく苦手になることだ。内容の大筋が分かった論説文を繰り返し読むのは時間の無駄だからである。丁寧に読むのは文学的文章だけ、特に詩歌だけだ。短歌や俳句ならひとつの優れた作品を覚えればそれが一生の心の財産になるし、何度同じ作品を思い出しても飽きることがない。年齢が変われば、同じ作品の印象が変わることもある。

と言うのは前置きで、実は「谷間の百合」さんの新しい記事の中で、私が少し前に引用した或る文章への言及があって、私はこの部分はさほど気にも留めずに引用したなあ、と思ったのでこの文章を書き始めたのである。まあ、長い文章の引用などそうなりがちなものであるし、引用した個々の部分への賛成不賛成の濃淡があるのは当然だが、谷間の百合さんの指摘内容は興味深い(私は、謎というものはすべて興味深く思うのだが、残念ながら、謎そのものの存在に気づかないうっかり者なのである。探偵にはなれないようだ。)ので、考えてみたい。(最後に載せた「谷間の百合」さんの言葉から先に読んだほうが話が分かりやすい。)

「なぜエリートが移民に賛成するのか」というのがここでの「問題」である。
そして、「エリートは宗教的、文化的多様性に対する寛容というリベラルな価値観をもっているという前提」(つまり問題の解答)への疑問が提出されている。

私も、「エリート=寛容」という等式は成り立たないと思う。まあ、歴史的に見てもそうであり、エリートとは社会の支配者の道具なのであって、庶民を搾取しその成果を支配者に捧げることで自らの地位を確保するものだ。被支配者に寛容であることは、自分の地位を失わせるのである。これは、会社の上層部を見ればよく分かる。下部労働者に寛容な管理職が出世する会社は無いだろう。それを社会全体に拡大すれば、「エリート=寛容」の等式は成立しないと推定できる。マクロンも安倍(ふたりともただの道具である。)も不寛容の極みである。
では、エリートが移民に賛成する理由は何か、と言えば、これは明らかに「グローバリスト(私がよく言う「ユダ金」)の大方針がそれだから」だろう。リベラリズムなどというのは仮面でしかない。
資本主義社会維持のためには世界的な「安価な労働者の不足」が大問題で、それを補うためには先進国に移民を入れるしかない、という方針が先にあって、リベラリズム云々はそこにいろいろな理屈を付け足しているだけだ、と思われる。移民によって破壊される文化や社会など知ったことではない、というのが「カネしか頭にない」連中の考えなのである。むしろ、人種も文化もごちゃまぜになった世界のほうが支配には有利だ、と思っているのではないか。

先に、問題となっている「エリート(リベラリスト)」たちの主張から書いておく。


「移民は経済成長に必要だ」

「高齢化社会では移民を受け入れるしかない」

「移民は文化を多様で豊かなものとする」

「どっちにしても、グローバル化の時代では、移民の流入は止められないのだ」



(以下「谷間の百合」から引用)


それでもわたしには疑問というか分からないことがあります。
エリートは、宗教的、文化的多様性に対する寛容というリベラルな価値観をもっているという前提が分からないのです。
わたしの中でエリート=寛容という等式はあり得ません。
だから、なぜエリートが移民に賛成するのかという根本の問題が疑問として残るのです。
エリートが自分たちに不利なこと損になることに賛成するとは思えないからです。




「移民は経済成長に必要だ」

「高齢化社会では移民を受け入れるしかない」

「移民は文化を多様で豊かなものとする」

「どっちにしても、グローバル化の時代では、移民の流入は止められないのだ」

これらの主張はいずれも、日本の移民推進論者たちにも踏襲されている。もっとも、マレーが鮮やかに論証するように、どの主張も論拠を欠いている。
ところが欧州のエリートたちは、この主張のうちの1つが破綻すると、別の主張で置き換えつつ、移民の受け入れの正当化を続けてきたのである。

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