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徽宗皇帝のブログ

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松竹事件の本質は何か
「村野瀬玲奈の秘書課広報室」(久しぶりに読んだ)の記事だが、真摯で有益な発言だと思う。「世に倦む日々」氏が言うように文章が長すぎる(重複的内容が多い)が、今回の松竹問題の最重要点を見事に指摘していると思う。ついでに言えば政党の「直接公選制」は、外部からのスパイや党首不適格者が党を頭から崩壊させる懸念があるだろう。つまり、「衆愚政治」と党内プロパガンダによる内からの政党破壊である。これは過去の民主党内クーデターで見られたものである。松竹は党首を目指すよりもっと簡単に組織の下の位置で内部からの「党破壊」を行ったわけだ。確か松竹は改憲論者であり、今回の共産党破壊は自民党の急速な改憲活動と歩調を合わせたものだと推測する。

(以下引用)文中の「副採用」は直前にも書いてある「副作用」の書きミスだろう。

さて、ここから徐々に今回の本題にはいります。

まず、この記事を書いている私は、広義の少数派の犠牲のもとに広義の多数派が利益を得たり、権力者が非権力者を一方的に支配・搾取したりするような不正義や不平等や不公正のない世の中になるような政策や社会の作り方を考えて、その実現を願ったり求めたりしている者です。その考え方のもとにこのブログを続けています。その考えをめぐらせる時に、人類が長年の間多くの血と汗を流して獲得してきた人権の原理、言葉の高貴な意味での民主主義や立憲主義をもとに考えを導き出します。ですから、私の考えは、私の個人的な考えではありますが、普遍的で万人に通じるようにしようと努めてもいます。そのような私の考えや結論が多くの場面やトピックで一致することの多いのが日本共産党なのですが、私自身は党内部の仕組みや意思決定の原則や綱領については大雑把にしか知らない外部者です。

その一方で、松竹伸幸氏についても、名前は存じ上げているし、著書も一冊くらい持っていたかもしれませんが、よく知っているとはいえない方です。

いわば、日本共産党と松竹氏の両方について「素人」です。まあ、私は政治や社会についてのブログを長く書いているわけですから、政治や社会問題について全く知らないわけでもないですが、党と氏の詳しいところは知らない一般人の立場であるということはまず党と氏へのお詫びとともに申し上げておきたいです。つまり、一般人が大雑把な知識でこの件を見たらどうなる、というように、この記事を書いておきたいのです。

そんな私が、この件について今のところ知り得た範囲で感じた懸念を今回の記事にしるしておくことが今回の目的です。(この記事の後でこの件についてさらに知見を深めれば、また別の記事になるかもしれませんが、今はこの状態でこの記事を書いておきたいのです。そこはまずはっきりとさせておきたいです。)

松竹氏は、日本共産党を開かれた党にするために党首公選制を求めているというのが私の理解です。そのことでここに記事を書くするなら、さすがに日本共産党の委員長や幹部の決め方について大雑把でも理解しなければなりません。私の大雑把な理解では、党員が中央委員を選挙し、中央委員が中央委員会で党首を選挙し、そのプロセスでは、自薦も他薦も自由で、民主的な選挙を実施しているというもの。つまり、すべての党員が討論で参加したうえで、下から上へと幹部、そして、党代表、つまり、中央委員会幹部会委員長、いわゆる委員長を選んでいるということになります。党代表(委員長)は下からの選挙を経て選ばれるということです。いわば、国民が国会議員選挙で議員を選び、その議員が属する衆参両院で首相が選ばれるようなものだと私は理解しています。

これに対して、松竹氏は、党首公選制、つまり、党員が直接いきなり複数の候補者から党代表を選ぶような、他党もやっている方式で党首を選ぶべきだと求めているというのが私の理解です。ここで、私の「懸念」の一つは、そのような党首公選制をここまで強く求める理由がわからないということです。現行の方式でも十分に党員の意思は反映されており、逆に、直接党代表を選ぶ他党の方式が絶対的にすぐれているとも断言できないと思います。日本共産党は過去の苦い経験から、この現行方式(民主集中制というのですか)を守っている理由も説明しており、それは、その現行方式に入党希望者が納得して加入するのですから、そのことについて私には違和感はありません。この民主集中制のために党内で自由な議論が無いという主張もよくわかりません。松竹氏がこの現行方式をここまで批判する理由もピンときません。

日本共産党で大切にしている原則として、日本国憲法の国民主権、基本的人権の尊重、平和主義があるはずです。したがって、これらの原則を踏み外さないようにしたうえで党内での議論が積み上げられていくのであり、その原則からはずれた主張は採用されないのだろうと想像します。そして、そのことに違和感はありません。そのような基本的な原則からはずれた主張は採用されないという現実について、「日本共産党には言論の自由がない」と外部の人が主張するのはおかしな話だと思います。

松竹氏はどこかで党首公選制の絶対的メリットについて説明しているはずですが、国民が国会議員選挙で議員を選び、その議員が属する衆参両院で首相が選ばれるのと似たプロセスの代表者選びをそこまで批判する理由が私には本当によくわからないのです。日本共産党の方針をそんなに批判するなら、別の党の党員になればよいのではないでしょうか。

松竹氏の今回の「挑戦」的行動は、日本共産党の現行の代表者選びが密室だとか非民主的だとかいう一般人の偏見を強化するものになっていないでしょうか。現に、今、多くの外部の人や報道機関などが日本共産党への批判を表明しています。松竹氏にとっては、党から除名はされたけど(そして、上にリンクしている氏自身の表明の内容からして、それは想定内だったでしょう)、十分に一般世論からの「支持」は得ました。松竹氏の実質的勝利とすら言えるように思います。ですが、それらの一般世論を見ると、そのいくつかでは代表選びの方法についての理解があまり深くないようにも思われました。もっと慎重に判断すべきではないかとも思いました。だから、この記事を書いています。

上にリンクした松竹氏の「共産党員は、党にとどまってください」という記事を見た限りでは、松竹氏は日本共産党の何かを氏の考えにもとづいて改善したいという強い動機を持っているとうかがわれます。しかし、氏の行動は日本共産党の何か貴重なものを見えないところで踏み潰しているのではないかとも私は懸念しました。あるいは、日本共産党への一般からの偏見を強化する結果になってはいないかとも懸念しました。それは氏の望むことなのか、望まない副作用なのか、そこにも私の懸念はあります。そして、それが望まない副採用であったとして、それを氏は修復するつもりなのか、そこにも私の懸念はあります。

そもそも、日本共産党は、腐敗した日本のいくつもの政党と並べてみると、最も人権尊重的な政策や主張を国民に向かって訴えている貴重な政党だと思います。松竹氏がそう思っているのかどうかはわかりません。仮にそう思っているのなら、そのような貴重な政党を傷つけることになるかもしれないという意識やそのようなことは避けなければならないという注意深さを松竹氏が持っているかどうか、私にはわからないのです。それも私の懸念です。

党首公選制というトピックは、政党という組織を運営するための組織論の中にあります。そして、一般ウケしやすいとも思います。しかし、私がまず日本共産党に求めるのは、日本の政界で腐敗から最も遠い政党の一つであるというポジションからの国政への公正で正当な提言です。政権周辺の限られた利益共同体への利益誘導や権力維持を目的とした自民党政治ではなくて、国民全体を潤す公正な政治に向けて国政を動かしてほしいというのが私から日本共産党への要望です。党首公選制がそれを後押ししてくれる魔法の杖になるとは今のところ私には思えません。個別の政策で人権原理や憲法の原則を一つ一つ具体化していくことしか方法はないと私は思います。

日本共産党について肯定的に語る人に私が望むことがあります。それは、政権周辺の限られた利益共同体への利益誘導や権力維持を目的とした自民党政治に代わる、国民全体を潤す公正な具体的政策や政治哲学を望むと表現してほしいということです。なぜなら、政治の目的は、万人の生活や社会を良くしていくことですから。そして、万人の生活や社会を良くするというのは、一部の権力者やその周辺の者たちだけが利益を得るということであってはならないということだからです。

日本共産党には、その表現を受け止める役割をまず発信してほしいと私は望みます。松竹氏は党首公選制というキャッチ―な組織論を武器に派手な立ち回りをすることを選びました。しかし、私にとっては、そのような派手な組織論よりも、人権原理や憲法の原則を一つ一つ具体化して政策として社会の中に定着させていくことの方が重要です。現在の日本共産党の党首の選び方が、人権原理や憲法の原則を日本共産党が具体化する作業をすることの妨げになっているとは思えません。日本のより良い政治のためには、党首公選制だけで日本共産党が語られることを私は望みません。

政権周辺の限られた利益共同体への利益誘導や権力維持を目的とした自民党政治に代わる、国民全体を潤す公正な具体的政策や政治哲学への近道が党首公選制なのかというと、私にはそう思えません。党首公選制でないことをもって、日本共産党は閉鎖的だとか非民主的だとか自由な言論の弾圧だとかいう「あなたがそれを言うか?」的なコメントを自民党支持者や維新支持者とおぼしき大勢の人たちがしているのをネット上で見ていると、松竹氏の挑戦はそのような自民党政治や維新政治の養分となっていないかとすら危惧してしまいます。

松竹氏の著書は、タイトルから判断すると、軍事問題、領土問題、外交問題、国家主義問題についてのものが多いようです。毎日の生活における政治からの援助や富の再分配や人権思想の具体化というような生活中心型というよりも、男性的に高所から天下国家や軍事論、外交論を語ることを得意としているように思われました。そのような関心があることそれ自体を批判したいわけではありません。個々の人には専門分野というものもありますから。

だけど、私の関心の中心は、日常生活の中の政治です。他の多くの政党が、政治をゲームのように行なって不毛な結果しか招いていない実例を日々見せられていると、憲法や人権の原理を一つ一つ具体化して実現することに日本共産党は集中してほしいと思います。今回の党首公選制をめぐる氏と党の「対決」が、日本共産党のその役割を妨げるのではないかと心配でなりません。

今回日本共産党という組織に対して、党首公選制という武器をふりかざした松竹氏が党から除名されても個人的な実は取れるように派手に立ち回ったことで、不完全な日本の民主主義の何か繊細な価値が傷つくという心配をしなかったのか、私はそこに懸念を持ちます。

私は少し前、日本共産党の党代表(委員長)を女性にしたらいいのではないかという提言を含む記事を書いたことがあります。

■県委員会書記長が盗撮行為で逮捕された日本共産党への提案 @shiikazuo @koike_akira @jcpyamashita @ichida_t @kurabayashia @tamutomojcp
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-8925.html
2023/01/15 17:00


日本の自民党政治がおかしいのは、権力を持った高齢者男性に都合のよい政治であるからです。日本を長年蝕むこの政治を改善したければ、近道は、日本共産党の党首公選制よりも、一度女性を日本共産党の党代表にしてみるという勇気と、選挙候補者の順位付けを女性・男性交互にすることで日本共産党内の議員の男女比を限りなく一対一に近づけることの方に私は意味を見いだします。

私が自分の考えにある程度の自信を持っているように、松竹氏も自分の考えに自信を持っているはずですが、少なくとも私には党首公選制の良さが理解できません。党首公選制にしたら党が良くなるという理路もよくわかりません。そもそも、「オープンな党」って何なのか、その定義もつかみどころがありません。日本共産党の方針に賛同したら入党できることは「オープン」ではないのでしょうか。日本共産党に入党した後にその基本方針と衝突することを党内よりも先に党外で主張することが「オープン」なのでしょうか。そこが私にはまだよく理解できていません。

今回の氏の派手な「挑戦」によって、日本共産党への世間一般の偏見が強まって、それが腐敗した自民党政治や利権優先の維新政治の養分となったら松竹氏はどうするつもりなのか、そこにも私の強い懸念はあります。

日本共産党が松竹氏を除名処分にしたことについて、その理由についてある程度の納得を感じながらも、処世術的には損なやり方かもしれないとは感じました。処世術的に言って、日本共産党の今回の決定がベストだったかどうか自信はありません。ただ、この除名処分について、日本共産党に対して「残念だ」と評するよりも、私はむしろ、この「戦い」に持ち込んだ松竹氏のやり方についてとても懸念を持っています。これが自民党政治や維新政治の養分になってはいけないからです。

これからこの件がどのような展開を見せるのかはわかりません。ただ、日本共産党の基本方針と松竹氏の党改革の主張が何らかの形で調和して落ち着けばいいと少しは望んでいるという意味では、私の懸念は党よりもむしろ松竹氏の方にあります。松竹氏の動きが日本の民主主義を傷つける結果に終わらないかどうか、気をつけて見なければいけないと祈るような思いでいます。一方、日本共産党の基本的な政治的理想についてより深い理解が少しでも世間で進むように、日本の政界ではとても貴重なこの党の価値についての発信を私としては続けなければならないのかなと思っています。私は別に党員でも何でもないのですが、ほかの大政党にはあまり期待できませんから。

以上、言葉の高貴な意味での民主主義と正義と公正を希求し、それが具体的な政策として結実して社会に定着することを願うけれど、どこに連れて行かれるのか分からない派手な政治ショーからは距離をおきたい一般人としての懸念でした。

松竹氏の今後の活動や言動が私の懸念を払しょくしてくれることを心から祈りながら、今回はここまでといたします。

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