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自分の意思で死ぬこと(私の遺書)  9.11



私は、年齢的にはまだ老人というほどではないが、肉体労働などはほとんど不可能である。つまりは、身体障害者と同じである。器具の世話にならずに日常の行動はできるが、1キロも歩くことはできないだろう。そういう現状を考えると、私の肉体の耐用年数は、長くてあと5年程度かと思われる。もしかしたら、2、3年のうちに器具無しでは歩行不可能になるかもしれない。耳や目などの感覚器官も同様で、こちらはあと7、8年くらいかと思う。頭脳はもう少し長く持ちそうで、あと10年くらいは大丈夫かな、と期待している。もちろん、記憶力は低下しているが、判断力はむしろ若い頃よりずっといい。それに、もちろん、長く生きてきた分の知識や世間智はある。
さて、こうして自分自身の棚卸をして、全体としてあと何年ほどの耐用年数があるかと考えると、まあ、5年くらい。長くて7,8年だろう。つまり、目や耳などの感覚器官がダメになった時点で、私という人間の使用価値はなくなると思われる。頭さえしっかりしていれば、使用できるという考えもあるが、そういう職場など、どこにも存在しないだろう。つまり、この社会では、肉体的な使用期限が、その人間の使用期限なのである。
そうすると、金を稼ぐ能力が無いのに、生きていかねばならないということになるのだが、もちろん、これまで私が政府に納めてきた年金は、老齢年金の形で返却して貰うにしても、私が支払った分に相当する金額は、せいぜい10年分にしかならないだろう。それ以上を受け取るのは、受取超過である。
となると、年金受給から10年経った時点で、私は自決するのが、社会的正義にかなっていると考えられる。もちろん、年金を支払って、受給しないままに若死にした人間の分があるから、長生き老人の分はそれで相殺されるとも考えられるが、私としては、それもインチキめいていて嫌である。それに、体も利かず、頭もぼけた状態になってまで生きていたくない。
ということで、年金受給後、10年経っても私が生きている場合、私は自殺するつもりだが、問題は、現在の社会は、自殺することに対して批判する声が多すぎることである。私は、寝たきりになって、いちいち他人の介護を受けて生きるよりは、ぜひ自殺したいのだが、世間は自殺に対して厳しい目を向ける。それが自分に対してだけなら(どうせ死んでいるのだから)いいが、残された家族に向けられる冷たい目が予測できるのである。
そこで、私が考えたのが、この「自決宣言」である。私が自殺するのは、私自身の人生哲学・社会哲学の結論によるものであり、家族とはまったく無関係であることを、私はここに宣言しておく。このことで、私の家族を批判したり、悪口を言ったりすることは許さない。(とは言っても、その時には私は死んでいるのだが。)
私は、老衰した状態で「生かされ続ける」ことが嫌なのである。しかし、その頃になると、頭がぼけていて、私は意思表示ができなくなっているかもしれない。そこで、あらかじめこの「自決宣言」をしておくわけだ。つまり、これは尊厳死を求める「リヴィング・ウィル」なのである。
こうしてブログに載せておけば、後で私の死について、面倒な議論は起こらないだろうと期待している。もちろん、自分で死ぬよりも誰かに殺してもらう方が楽であるが、国家はわざわざぼけ老人を殺すほどの親切心は無いだろう。本当は、そういう「老人処理センター」を国家が作ってはどうか、と提案したいのだが、いつまでも長生きしたいという老人たちが、自分たちへの厭味だと受け取って大騒ぎになる可能性もあるから、「老人処理センター」の話は、今はしないことにする。もうしてしまったが。
念のために言うが、私が自殺するのはまだ先の話である。まあ、あと5年から10年先を考えている。

             2010 9.11(同時テロ記念日に)

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