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徽宗皇帝のブログ

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「自由」は言葉の運命としてほとんど必然的に放埓に至る
そもそも自由というのは他人の自由とぶつかるのが当然であり、無制限の自由などあるはずがない。たとえば人を自由に殺せるのは野蛮時代の国王くらいであった。法による自由の規制があるからこそ近代国家は成り立つのである。
ところが自由とは本来、制限が無い(制限を超える、制限を外す)ことを意味するから、〈現実には「制限された自由」が当然だ〉という事実は意識から追い出され、自由を主張するとしばしば野放図な自由がはびこることになる。つまり、「自由」という言葉を使った時点で、非常に危険性がある、と思っていい。
自由という言葉を使わなくても、「権利」という言葉で十分に表現できるのがほとんどではないか。たとえば、「表現の権利」と言えば、カマヤン氏の言う「表現の自由は人権の一形態である」ということは文句なしに示せるだろう。そして、権利とは本来制限があるものだ、ということは左右を問わず誰でも同意するだろう。


(以下引用)




「表現の自由」は「人権」の一形態なのに、「人権侵害する表現の自由」と解する人が一定数いるから、表現規制反対派は「表現の自由」という語をあまり使わないほうがいいと俺は思うのですよ。 / “ウーム、である - 走れ小心者 ARMAD…”





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