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徽宗皇帝のブログ 徽宗皇帝のブログ

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業家の兄弟

 この話の、問題の事件の半年以上前に、末っ子の憐はそれまで預けられていた寄宿制の学校から帰ってきた。それは東京にあるキリスト教系の学校で、幼い頃から瞑想的傾向の強かった三男に、この寄宿舎生活が悪影響を与えたと言う人もいる。もともとぼんやりした性格だったのが、神がかりの傾向まで出てきたと言うのである。だが、他人に説教をしたりすることはなく、他人の悪行を見ると悲しげな顔をするだけなので、それほど害は無い人間だと思われていた。彼の母親は、依怙地なほどのキリスト教信者で、それが明治初期の流行とはいえ、浄土教系仏教徒の多いこの町ではあまり評判が良くなかった。その母親も憐が中学に上がる少し前に死に、その遺志で彼は東京の私立中学校に遣られたのである。というのも、業家の生活は、子供の教育上、あまりよろしくはなかったからであった。濫三郎は、かなり好色な人間のようで、家の女中、工場の女工などの多くに手をつけていたが、女房がキリスト教に入れ揚げ、清らかな生活を送ろうとするのに反撥して、町の酒場や遊郭で毎晩どんちゃん騒ぎをするばかりでなく、飲み屋の女や売春婦を家に連れ込んでは、人の面前だろうがかまわずに不埒な行為に及んだりすることも多く、こんな雰囲気の中で息子を育てるわけにはいかないと女房は思ったのだろう。濫三郎としても家に子供などいない方が気楽だから、それを承知したのだが、それ以前に、上の二人もとっくに別の学校の寄宿舎に放り込んでいたのである。
 この事件の当時、長男の乱は大学4年生、次男の論が大学2年生、三男の憐が高等部3年生だったが、憐は学校を中退したのかどうなのか、一学期の初めころに故郷に帰ってきて、そのまま親の家に住み着いたのである。濫三郎は、息子のその行為を薄気味悪く思ったが、別に害になる人間でもなさそうなので、そのままにしていた。もともと、学校を卒業しようが、中退しようが、息子に関心などなかったのである。家に帰っても、憐は父親に何かを言うわけでもなく、女たちが現れてどんちゃん騒ぎが始まると、黙って二階の自分の部屋に行くだけであった。最初は、その顔に批判の色を探していた濫三郎も、彼が特に自分を批判しているわけではないと知ると、彼をまったく気にすることはなくなったが、なぜかその放埓さに少し歯止めがかかったように家の召使いたちの目には見えた。人間、人から批判されると反撥するものだが、黙って見られていると、少しは自分の行為が恥ずかしくなるものらしい。

 憐が帰ってきたその年の冬、木枯らしが強く吹く12月のはじめに、大学卒業を来春に控えた長男の乱が軽魔町に帰ってきたが、こちらは実家には住まず、町の旅館に宿を取った。というのは、彼は父親を毛嫌いしており、母親の仇くらいに考えていたからだが、その彼が帰ってきたのは、父親と交渉すべき問題があったからである。それは、母親の遺産相続の問題である。もちろん、母親の財産はすべて父親の物になっており、本来なら父親が死ぬまでその財産は彼の手には入らないのだが、それを今すぐに貰いたい、というのが彼の希望だった。どうやら、彼は卒業を機に新しい事業を始めたいのだが、それには元手が必要だったらしい。父親が死ねば、長子としてその財産はほとんど彼の手に入るのだが、それが彼には待てなかったわけだ。父親が今すぐ死んでくれればそれが一番だが、あいにく、濫三郎は百姓上がりなだけに、不摂生な生活にも関わらず、体だけは因業なほどに丈夫で、年齢もまだ50を少し過ぎた程度で、まだまだ当分は死にそうになかった。
 乱は帰郷するとすぐにその交渉の為に父親の屋敷に行ったが、交渉は不調に終わり、その際に乱が激怒して、父親に向かって「お前を殺してやる」と言ったということは、数人の人間の証言がある。もちろん、その場にいた濫三郎の放蕩仲間や飲み屋の女の証言だ。それに対して父親も黙ってはいなかっただろうが、その返答は不明である。憐は当然ながら、その場にはいなかった。飲み屋の女や父親の遊び仲間がいる場には、彼はほとんど顔を出さなかったのである。後になってこの「殺してやる」が大きな問題となったのだが、激怒した人間はそういうことを言いがちなものであり、とりたてて重視するほどのものではないと乱に同情的な意見を述べる者もいた。しかし、その人々も、乱という人物の人間性をあまり信じてはいなかったようである。

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