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抑圧された秩序と秩序無き自由 2

我々の日常生活の大半は、論理的思考によってではなく、自動反応(もしくは感覚的反射作用)によって行われている。論理的作業は強靭な意志の支配、思考の統御作用を必要とし、一般の人々には普通、論理的思考の習慣は無い。(これは、最近の国政選挙の結果などを見れば自明であろう。国民は、自分の利益になる政治家よりも、マスコミがもてはやす政治家に票を投じるものであり、マスコミは話題性のある政治家しか取り上げないのだから、つまりは政治家の内容よりも話題性だけが問題となるのである。)人間はいわば出来の悪いコンピューターのようなものであり、外部からの刺激に対し、持ち合わせの解答の中からその時の気分で一つを選んで間に合わせるのである。ということは、人間の(刺激―反応)の傾向を知りさえすれば、人々を支配し、操作するのも容易だということである。
 人間性の傾向とは次のようなものだ。第一に我々は、一つの物事に集中している時には、他の事は忘れている。これは奇術の基本原理であり、右手に観客の注意を向けている時、真のトリックは左手で行われているものである。第二に、人間の記憶力はあきれるほど短いものである。特に自分が見たくないものや忘れたいものは簡単に忘れてしまうものである。(マキァヴェリは、このことを「人は自分の親が殺された恨みは忘れても、金を奪われた恨みは忘れないものだ」と皮肉に言っている。)従って、為政者にとって都合の悪い事件も、半年も過ぎれば国民は忘れてくれるのであり、特に官僚の不祥事など、いつ処分が行われ、その後どうなったのかなど、誰も知りはしない。おそらく単に名目的な処分が行われ、半年もすれば前以上の役職に戻っていることだろう。第三に、人間は信じる根拠のあるものを信じるのではなく、信じたいものを信じるのである。これは新興宗教の信者などを見ればよく分かるだろう。彼らにとっては、その時、その神や教祖を信じることが必要だったのであり、外部の人間がその宗教のいかがわしさを言っても、彼らは聞く耳など持たないのである。
 こうした人間性の弱点が我々の社会をどう動かしているか見てみよう。
 人間が刺激にたいして単純な反応しかしないことを良く示すのは、「レッテル的言葉」である。たとえば「戦後民主主義」という言葉もその一つだ。この言葉が右寄りの思想家によって用いられる場合は、戦後の社会の様々な悪の根本原因というニュアンスをこめて用いており、それはまるで説明不要の、アプリオリな前提であるかのごとくである。「嘘も百回言えば本当になる」とはナチスの宣伝相ゲッペルスの言葉だが、人々も今では右翼的評論家のレッテル的言葉を信じるようになっている。しかし、戦後の様々な悪現象と民主主義との間にいかなる関連があるのか、彼らははたして論証できるのだろうか。後で論証するように、民主主義と社会悪とは結びついてないというのが私の考えである。
 我々はこうしたレッテル的言葉を用いた瞬間に、その内容について問う事をしなくなる。これが実は最も重大な人間性の欠陥であり、世の中が改善されない第一の原因であるが、それに気づいている人間は少ない。小林秀雄は、その有名なエッセイの中で「人はある物を言葉で表現した瞬間に、その物自体を見なくなる」という意味の事を言っているが、これは政治の文脈でこそ重大な意味を持つ言葉である。そもそも、たとえば人々が「民主主義」と言う時、何をその意味として用いているか、一概には言えないだろう。
 私がここで特に取り上げたいのは、「封建的」という言葉と「アカ」という言葉である。前者は主として政治的革新派が保守派に対して用いた言葉であり、後者は逆に保守派が革新派に対して用いた言葉だ。
 私の主張は、日本の戦後政治における革新派の敗北は、言語に対する無神経さと宣伝能力の無さによるものだったというものである。その代表例として、前記の二つの言葉を取り上げてみよう。
 この二つの言葉を比べた場合、後者の圧倒的な存在感、迫力に比べて前者が悪口としてほとんど機能していないことが分かるだろう。それが分からない人間は、自分が「封建的な奴だ」と言われた場合と、「あいつはアカだ」と言われた場合を想像してみればよい。明らかに、後者の場合は、自分が社会全体から抹殺されかねない恐怖と不安を覚えるだろう。「封建的」の代わりに「ブルジョワ的」とか、「プチブル」を持ってきても同じである。あるいは「米帝の手先」と呼ばれようが、そう呼ばれた人間は痛くも痒くも無いだろう。しかし、一度でも「アカ」と呼ばれたら、もうこの社会では生きていけないという恐怖感を、「アカ」という言葉は呼び覚ます。それは過去に共産主義が弾圧されてきた恐怖の歴史のためだけではない。この、「アカ」という言葉自体の持つ迫力があるのである。そして、そういう言葉の感覚に敏感であったために保守派は勝利し、鈍感であったために革新派は敗北していったのである。
 革新派の言語感覚の鈍感さは、彼らの論文に一度でも目を通してみれば一目瞭然である。まず、そこには一般人に理解可能な言辞は一つも無いと言っていい。ほとんどがその教祖マルクスの用語を撒き散らした意味不明の文章であり、しかもわざと理解されまいとするかのごとき破壊的日本語で書かれている。こうした文章や発言がまったく一般人の共感を呼ばなかったのは勿論だが、問題は、彼ら左翼人(「左翼」という言葉自体、レッテル性の高い言葉であり、私はわざと「左翼人」などという奇妙な言葉を使ってみた。)がそのことに一度も気がつかなかったことである。
 社会を変えるものは思想である。しかし、思想を伝えるものは言葉である。人々の心に伝わらない言葉が世の中を変えるはずはない。このことになぜ左翼陣営の誰一人として気づかなかったのか。それは、彼ら知識人の発言は大衆にではなく、常に自分と同レベルの知識人階級に向けられていたからである。つまりは彼ら自身の論壇における評価だけが彼らの関心の中心だったからであり、その不誠実さを人々は鋭く見抜いていたからである。
 もちろん、仮に誠実な発言をしていたところで一般人の賛同が得られたかどうかは分からない。前に書いたように、人々は理性や論理によって判断するよりも、むしろ雰囲気や直感で判断するものだから、ヒトラーのような巧妙なアジテーターによって人民が扇動されていく可能性は非常に高い。しかし、どのような形であれ、人民の意志が国家の意思を決定していくのが真の民主主義である。知識人のなすべきことは、その決定を誤らないように人々に呼びかけること以外にはない。
 左翼活動家たちは、言葉に対する鈍感さと不誠実さのために敗れていった。しかし、その事は、保守派の思想が彼らの思想より正しかったことは意味しない。事は単なる技術的問題だったのである。
 もう一度、「アカ」という言葉がいかに巧妙なものであったかを示しておこう。
 この言葉の持つ異様な迫力は、「赤」が死と破壊の色、殺戮の色であることから来ている。言うまでもなく、共産主義は現体制を破壊するものであり、それが赤色を自らの象徴として選ぶことは当を得ている。しかし、それが人々に与える心理的イメージに対し、共産主義者はあまりに鈍感である。赤とは何よりも血のイメージであり、火事、危険、災厄のイメージである。共産主義という正体不明の「破壊的存在」に対し、相手を「アカ」と呼ぶことほど効果的に相手への嫌悪感や忌避感情を煽り立てるものはないだろう。この感覚は人間の生理に根ざした感覚であるため、聞く者に直截的な恐怖を呼び覚ます。人々は自ら災厄に近づこうとは思わないものだ。こうして「アカ」に対する嫌悪感、忌避感は人々の間に醸成されていったのである。
 私は、人々が共産主義を理解した上でそれを忌避したとは思わない。なぜなら、彼らのほとんどは、「鎖のほかには失う物も無い労働者」だったからである。現体制が変わることによって何らの不利益も被らないはずの、そのプロレタリアートの支持さえも得られなかった所に共産主義の敗北の根本原因があったのである。
 おそらく人々のほとんどは、共産主義と社会主義の区別もつかず、また社会主義とは必ずしもマルキシズムだけの専売特許でもないことも知らないだろう。バーナード・ショーやH.G.ウェルズら、当時の一流知識人の賛同を集めたウェッブ夫妻らのフェビアン協会のような穏健な漸進的社会主義の存在も知らず、社会主義者とアナーキスト、テロリストを混同している人間がほとんどであるはずだ。そうでないと思うのは、自らは象牙の塔の中にいるおめでたい学者先生くらいのものだ。
 人民の知的レベルを買いかぶってはならない。しかしまた、人民の直感的理解を過小評価してもならない。人民が社会主義にノーと言ったのは、マルクスの唱える「科学的社会主義」こそが空想的社会主義であり、現実に即さないものであることを本能的に見抜いていたからかもしれないのである。もっとも、ソ連にせよ中国にせよ、マルクスの社会主義でもレーニンの社会主義でもなく、その時その時の国情に合わせた土着的社会主義であっただろうが。
 ともあれ、人間は理性や論理よりも直感や本能で判断し、行動するものであり、ある種のアメーバーのようなものである。その本能的部分に訴えることができた為政者が人民を思いのままに動かしてきたのであろう。その良い方の一例を挙げれば、アメリカの独立戦争(これは米植民地のイギリスに対する革命であったが、この戦争を革命として捉えている人間は少ない。なぜなら、革命が正義であることを認めることは、為政者や支配階級にとって都合の悪いことなので、アメリカの歴史の中ですらこの独立戦争は非常に軽視され、ハリウッド映画などが独立戦争をテーマにした映画を作ることも滅多に無いのである。これまで一本か二本くらいしか無いのではないだろうか。同様に、フランス革命もハリウッド映画では取り上げられない。)の時の、パトリック・ヘンリーの「我に自由を与えよ。しからずんば死を与えよ」という言葉である。この言葉は、あるいはそれ以外の無数の物理的条件以上に、アメリカの勝利に貢献した言葉かもしれないのだ。
 一つの言葉は、時には人間を死地に飛び込ませる力を持つものだ。つまり、人間は本能に動かされるばかりでなく、観念のためにでも死ねる奇妙な存在だが、しかし人を動かすその観念なるものは、通常はごく単純な一言なのである。天草のキリシタン一揆にせよ、信長がてこずった石山本願寺の戦いにせよ、信徒たちは宗教の教義や来世の観念について深く知っていたわけではないだろう。今、パレスチナで戦っているイスラム教徒やユダヤ教徒を動かす力も、この人間の奇妙な単純さを考えなければ理解はできない。
 もう一度確認しておこう。人間は論理よりも感覚的、直感的判断で行動するものである。そして、その判断は、些細な言葉の持つイメージによって大きく左右されるものである。世の中のレッテル的言葉というものは我々の行動を決定する大きな働きを持つものであり、我々はそういう言葉の存在に常に気をつけなければならない。

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