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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

過去記事掃除等の件
とある事情により、人跡未踏の僻地(笑)へ行く可能性が出てきて、インターネットとの接続も不可能になるかもしれないので、少し身辺をきれいにするため、過去記事の中からアホな小説の一部などを消去した。主に「酔生夢人ブログ」中の記事である。べつに政治的迫害のためではない。今そちらに書いている「易経」解釈の記事はなるべく全部書き終えたいが、どうなるか。今は一日に4項目ペースで書いているが、一日に幾つも記事を上げることになるかもしれない。これも「宿題」のひとつで、それが終われば特に思い残すことはない。
なお、趣味関係(野球の話や漫画の話が多い)や雑談関係の馬鹿記事は「アンファニズム」という別ブログにも書いているので、その過去記事を読めば暇つぶしにはなるかと思う。ネットに上げた時点で恥は覚悟の上だが、雑談よりも小説の方が(頭を使った分)書き手のアホさが際立つので少し整理しただけだ。
別にもうひとつ、「独楽帳」という、「酔生夢人」ブログに近いブログも書いていて、思索メモや個人的メモが主な内容だが、富永仲基の「翁の文」の翻訳(意訳)など、少し珍しい記事もあるのでこれも暇つぶしになるかもしれない。
もうひとつ、別ブログがあって、これはいずれ小説を書く時(まあ、空想であって、もはや書く可能性はゼロである)のためのメモが主で、自分以外の誰にも役に立たないブログだろうが、ただ、その中に書いたヘミングウェイの短編の翻訳や村上春樹の短編小説の英語訳からの再日本語訳はお気に入りの記事なので、著作権問題は気になるが一応ブログ名だけ紹介しておく。別ブログと重複する記事も当然ある。「四月の雨」というブログである。

今、何気なく読み返していた「アンファニズム」の過去記事の一部を転載する。これは格闘技を論じた文章の一部だが、人生論になっている。私も「頭ではわかっているが、感情に支配されて、自分に有利な(あるいは適切な)行動ができない、悟り切れない人間」である。

(以下自己引用)


力を抜くことが必要なのは、体を使うことだけではない。我々がテレビで見る芸能人は、なぜあのように楽々とふるまえるのだろうか。彼らの姿こそ、まさしく「力が抜けた」姿であり、禅家で言う、「随所に主となる」に近い状態だと私には思われる。どんな二流三流の芸能人でも、彼らには自らのすべてを、裸の姿を人前にさらけ出す覚悟だけはあるということだろう。だからこそ、何一つとどこおることなく反応できるのである。彼らが人間として上等かどうかはさておき、ほとんどの坊主よりはある種の悟達の域に達していると思われる。(よく勘違いされるところだが、ある種の技能の達人だからといって、必ずしも人格的にすぐれているとは限らない。また、その技能以外の知識的な面では、それらの達人は幼稚園児並ということもありうるのである。囲碁や将棋などの名人が政治や経済まで論じるのはおこがましいと言うべきだろう。)
あらゆる技能とは言っても、頭脳労働だけは、「力を抜く」こととは無関係のようだ。そもそも、頭脳労働では、力の入れようもない。しかし、ここで一つ大事なことがある。それはロシアの神秘思想家、グルジェフの考えだが、思考と感情は別々のセンターがあるという考えだ。理性と感情は別という言葉は我々にもおなじみだが、我々はしかし、どちらも結局は同じ脳の働きなんだから同一だとも思っている。それをまったく別のものと考えることは、有益な面がある。それは、自分は今理性を使っているか、それとも感情に支配されているかと省みることで、より冷静な判断が得られるということだ。これを私の次兄は「気を使うな。頭を使え」と簡潔に表現した。この言葉は私の一生の宝になっている。感情に支配された状態が、いわば精神的に「力の入った状態、力んだ状態」である。頭脳労働でも、これは有害な状態だろう。逆に、感情で行動するべき時に、冷静に理性を働かすのも間違いで、恋人(あるいは幼児)との語らいに理性的な発言ばかりしていては相手に嫌われるだけだろう。恋愛などというものは、「あばたもえくぼ」という熱に浮かされた状態なのであり、理性の分野ではない。



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