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徽宗皇帝のブログ

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いかにして日本は経済的に滅んだか
昔のフラッシュメモリーの中にあった古い文章だが、書かれた内容はこの当時より今の時代に合っている、つまり、10年以上前(小泉時代である。)に現在の日本経済や日本社会を予見していた、と言えないこともない。
書かれた中で、経済学(私は学問としての経済学を信じていないが、用語や基礎事項などの点での話だ。)的な間違いがあるかもしれないが、その判定は読者にお任せする。


(以下引用)


新国富論    2009年3月3日~


 


 1 通貨供給量と国富


 


 最初に、奇妙な命題から書こう。それは、「国富とはその国内の通貨量だ」ということである。この考えは、幼児ならば簡単に受け入れるだろうが、大人のほとんどは、納得しないだろう。それが本当なら、政府がどんどんお金を印刷すれば、それだけ国が豊かになるということで、こんな簡単な話なら誰も苦労はしないさ、と思うわけだ。


 もちろん、国富には様々な側面があり、資源物や生産物、あるいは人口や労働力などもすべて国富である。通貨だけをいくら製造しても、それは人民を養い、生活を維持させる生活物資ではないのだから、豊かな国とは言えない。だが、それにも関わらず、貨幣経済の下での国富とは、何よりもまず通貨量なのである。特に、外国との商取引が当たり前であるような時代においては、一国内の通貨供給量は、そのまま国民の豊かさを決定する。


 それが、私がここで論じる中心点である。


 


では、国内の通貨流通量が減少したらどうなるか。その国は窮乏する。それが、2009年現在の日本の姿なのである。


 通貨流通量の減少とは、必ずしも通貨供給量全体が減少する場合だけではない。通貨が(銀行や金融業者や政府など)一カ所に滞留して、国民の大半の懐から金が無くなった状態でも、流通量は減少することになる。それと同時に、やはり通貨供給量全体の減少も大きな影響があるのだが、国民は通貨供給量の実体を知らないから、その影響に気づかない。これが、私がこの一文を草する理由である。国民は、自分たちの手から大きな国富が消えていることに気づいていない。だから、何に対して批判し、戦えばいいのかがわからないのである。


 もう一点付け加えれば、富があっても、それが使用不可能な形になっていれば、それは富ではない。具体的に言えば、現金が証券の形に変わっている場合、それは条件付きの富であり、完全な富ではない。たとえば、力の強いいじめっ子が、お金をカツアゲする時に、「これはカツアゲじゃないぞ。その証拠に、借用証を書こう」と言って、「俺はノビタに500円借りた。そのうち返す。ジャイアン」と書いた紙を渡した場合、ノビタはその紙切れがそのうち元の500円に変わると信じられるだろうか。


 これが、日本国が米国から購入した米国債である。


 日本の通貨供給量は1400兆円であり、そのうち700兆円が過去何十年かで米国債に変わっているという。(残り700兆円のすべてが現金というわけではない。現金は70兆円程度であり、残りは銀行の「信用創造」という手品によって膨らまされた幻想の金額である。)


 その700兆円は、庶民が政府に納めた税金や銀行に預けた貯金の中から米国債の購入に当てられ、実質的には日本国民にとって使用不可能になったのである。なぜなら、米国の財政赤字は途方もない金額であり、日本が所有している米国債を売却したら、米国は支払い不能(デフォルト)になって、国家破産せざるを得ないからである。


 単純に考えれば、日本国内で流通すべき1400兆円の通貨のおよそ半分が、消えたことになる。700兆円の金(あるいは帳簿上の金額)が、米国債という有名無実な紙切れに変わったということである。この米国債を売ることは米国から厳禁されているから、実際に、紙切れと同じなのである。日本の橋本総理が、米国債売却をほのめかしたことで失脚したことを知っている人も多いだろう。日本において、アメリカの意に逆らう政治家は政治生命を失うのである。(その橋本に代わって総理になった小泉がアメリカの意向に従って、「郵政改革」などで日本の資産を米国に与えようとしたのもご承知の通りだ。)


 


 日本は、少なくとも2008年までは膨大な貿易黒字を重ねてきた。では、日本国民はそれで豊かになったという実感はあっただろうか。まったく無いはずだ。それもそのはずで、その間に日本の国富の半分はアメリカに流れていたからである。表面的な貿易黒字は、銀行や政府の米国債購入によって紙屑に変わってしまったのである。後の政治的スケジュールは、米国が国債を踏み倒すのがいつになるかだけだ。しかし、それは踏み倒しによって紙屑に変わったのではない。金が証券(米国債)になった時点で、実はすでに紙屑だったのである。


 


 


2 (通貨量=国富)というテーゼについて


 


 最初に述べたように、国富には様々な形がある。しかし、世の中が貨幣経済をとっている以上、通貨量こそが国富なのである。いくら物を持っていても、それを金に換えない限り、我々は自分に必要なものを手に入れることはできず、生活できない。すなわち、貨幣経済下では物ではなく金が現実的な富なのである。


 そして、一国内の富の量は国内の全通貨量である。これは奇妙に聞こえるだろう。前に書いた通り、それならば、日銀なり政府なりが紙幣を大量に発行するだけで国富を簡単に増大できることになるではないか。そんな馬鹿な話はない。


 もちろん、ここにはからくりがある。それは、現代の経済は世界経済の中にあるということである。個人と個人の間に商取引と金の流通があるように、国家と国家との間にも商取引と金の流通がある。ある国の通貨発行量が適正でないと、国家間の商取引に大きな不都合が生じることはわかるだろう。たとえば、ある取引で日本人がアメリカ人に1ドル=100円のレートで売ったのに、決済時に1ドル=80円になったら、20円の損になるわけだ。(そのドルをアメリカで使うなら話は別だが、物ではなく現金が欲しいなら、この20円の差は大きい。輸出入業者が為替レートに神経をとがらせる所以である。)しかし、一国の通貨発行量は、隠そうと思えば隠せるのである。実際、米国はある時期から通貨発行量を公表していない。というのは、それが恐るべき量になっているからだろうと容易に推測できることである。そして、通貨発行量が不明である以上、貿易相手国はその水増しされたドルを受け取るしかないのである。本当なら、ドルの価値はどんどん低落して、アメリカは大インフレになっていてもいいのだが、ドルが世界の機軸通貨であるために、ドルの暴落はまだ起こっていない。


 アメリカは、こうしていくらでもドルを印刷して、それと引き替えに日本円を手にいれることができる。簡単なたとえを言えば、子供が紙に「ドル」と書いたものを本物のお金と換えるようなものである。


 もちろん、そのドルは、本物のお金でもあるから、それで米国内の物を買うことはできる。だが、日本人がアメリカで買いたいものがあるだろうか。土地なら価値がありそうだが、治安が悪く、社会福祉も最低なアメリカに住みたい人間は多くはないだろう。つまり、日本は、貿易黒字が米国債に変わる形で、日本から日本円をどんどん流出させているだけなのである。


 ならば、日本もどんどん日本円を印刷すればいい、ということになる。


 実際にそうするとどうなるか。これまでは、少なくとも、日本円には実質的な価値があったが、その価値はどんどん低下していくことになる。ここでは話を簡単にするためにアメリカと日本の二国間貿易をモデルとして話をするが、日本までもアメリカに対抗して円を無節操に印刷し始めると、お互いにインフレになっていくしかないのではないか。


実はそうでもないのである。


前に書いたように、日本国内で流通すべき1400兆円の金のうち、700兆円が米国債の形で塩漬けになっている。その分の通貨の不足のために、これまで日本はデフレ状態だったのである。すなわち、米国に流れた分の700兆円を印刷しても、日本はインフレにはならない。


これが、一国内だけの経済と国際経済との相違であり、私が最初に言った「からくり」である。


 


 


3 なぜ日銀は通貨供給量を増やさないのか


 


以上述べたように、日本国民の経済状態を改善するには、通貨供給量を増やせばいい。では、日銀はなぜ通貨供給量を増やさないのか。


そこで話は再び基本にもどる。現在の日本には、流通すべき通貨の絶対量そのものが足りないことは確かだ。だから、その分を増やしてもインフレにはならない。これも確かである。現実にインフレにはならないが、しかし、金の価値の低下はやはり生じるのである。それはそのはずで、700兆円の通貨量が1400兆円に増えれば、お金の価値は当然、半分に下がるはずである。もっとも、これは実体的な低下ではない。現在、金を所有している人々にそう感じられるというだけの、幻想的な価値低下なのである。簡単なたとえをするならば、親の手伝いをして500円のお小遣いをもらって喜んでいたら、そこに弟がやってきて、「お前にも500円やろう」ということになった時の、兄の気分である。自分が500円もらったことに変わりはなく、自分は何も損はしていない。でも、何となく損をしたような気分なのである。それが、通貨供給量が増える時の、お金持ちたちの気分だ。


実際に、通貨供給量を増やすことで、多少のインフレも生じるだろう。それが、日銀が通貨供給量を増やさない理由である。つまり、現在の金の所有者たちの損になるから、通貨供給量を増やさないということだ。


日銀は政府機関ではない。民間の機関にすぎない。ならば、その経営者が勝手に円を印刷して、自分の懐に入れるという犯罪があるのではないか、と思う人は多いだろう。だが、そうではない。なぜなら、お金の価値はお金の総量が制限されることで決まるため、すでに大金を持っている人たちにとって大事なのは、持ち金を増やすことではなく、お金の価値を維持することなのである。


もっとも、金融資本家の親玉たちが、意図的に大恐慌を起こして、それによって一気に産業資本の独占をはかる場合、その前段階として金融緩和を行うことはある。つまり、バブルを起こした後、金融を引き締めることで、多くの企業を倒産させ、その資産や経営権を手に入れるのである。その際に、銀行は預金の支払いを拒否することで、預かった金を強奪することもできる。つまり「恐慌だから仕方がない」ということになるのである。見かけ上はその銀行も倒産するが、もちろん、それは偽装倒産であり、その銀行の金は誰かの懐に安全に収まっているわけだ。


 


 


4 通貨の信頼性


 


「国富を増やすのがそんなに簡単なら、アフリカあたりの最貧国が貧しさに苦しんでいるのはどういうわけだ。お前が言うようにお金をどんどん印刷した結果が、年率2万パーセントとかいう大インフレになっているではないか」


と、このような批判をする人もいるだろう。当然の疑問であるが、その疑問にお答えしよう。


まず、お金とは何か。お金とはただの紙切れで、それ自体に価値があるわけではない。お金が様々な物品と交換されるのは、お金に対する信頼があるからである。その信頼とは、実はそのお金を発行している国への信頼だ。だから、ソ連は大国だったが、その崩壊の際にはルーブルは大暴落した。


お金への信頼性とは、「私が受け取るこのお金は、いつでも私が望む物品に、あるいは他国のお金に、妥当なレートで交換できる」ということである。その信頼を我々はふだんは意識していないが、その信頼があって、我々は貨幣経済生活を営んでいるのである。


では、たとえば国家が破産寸前のジンバブエドルを受け取る時に、我々はそういう信頼感を持てるだろうか。どうしてもジンバブエドルで受け取らざるを得なくなれば、一刻も早く、それを他の通貨に換えたいと思うだろう。以前のレートより損してでも、他の通貨に換えようとするだろう。これがジンバブエドルの貨幣価値がどんどん低下し、インフレになる理由である。つまり、その国の政治状況や経済状況などへの信頼性が、その国の通貨への信頼性となるのである。反欧米的指導者であるムガベによって反欧米的政策を取っているジンバブエは、国際経済を支配する白人たちのために、あらゆる手段で経済的窮乏に追い込まれているのである。ムガベ独裁者論など、欧米支配層の指示で欧米ジャーナリズムが書いているに決まっている話だ。


日本の場合は、その産業への高い信頼性によって、日本円への信頼がある。あるいは、潜在的には世界一の信頼性かもしれない。その信頼を揺るがすものはただ一つ。日本がアメリカに従属していることである。アメリカが破産する前に、アメリカは日本からの借金をすべて踏み倒すはずだと、世界中の人間は思っているだろう。


だが、それでもアメリカよりは日本への信頼のほうがあると思われる。それは、人間にたとえればわかるだろう。道楽者の亭主にしっかり者の女房が貢いでいる図である。女房がいくら稼いでも、それは旦那の飲み代とバクチ代(要するに、アメリカの戦争と投機)に消えるが、それでも、そうした女房に同情する人もいるはずだ。「あの旦那と別れさえすればねえ」と世界中の人間は思っているだろう。この女房、旦那の暴力が怖いので、いつまでも一緒にいるのだが、あいにくこの二人を穏便に別れさせる時の氏神はまだいない。


 


 


5 現実に流通する通貨と幻想の通貨


 


銀行の「信用創造」機能のことは聞いたことがあるだろう。それを聞いて、不思議に思わなかっただろうか。あるいは、これは詐欺行為だと思わなかっただろうか。


この秘密は、手形、あるいは小切手というものの悪用にある。小切手とは、実は幻想の通貨なのである。小切手は、現金化されるまでは、「現金である必要はない」。そこがポイントだ。そのタイムラグを利用して行われるのが銀行の信用創造という詐欺である。もう一つのポイントは、銀行の信用創造によって、経済は不安定化するにも関わらず、信用創造機能は社会に役立つ大事な機能だという洗脳が行われていることである。


銀行の信用創造で利益を得るのは銀行だけである。けっして世の中全体が利益を得ているわけではない。


私も経済の素人だが、まったくの経済音痴の人のために「信用創造」の原理を説明しておこう。


A銀行にBという人が100万円を預けたとする。するとA銀行はその100万円のうち支払い準備金として一割、10万円だけ残して90万円をCという人に融資した。だが、その金は現金ではなく小切手である。Cはその90万円をDという人への借金の支払いとする。Dはその90万円をこれもA銀行に預ける。同じような行為が繰り返された結果、A銀行が外部に貸し出した金の金額は、100×0.9+100×0.9×0.9+100×0.9×0.9×0.9+……)と続き、10回ほども貸し出せば、573万円になる。つまり、最初の100万円が、その6倍ほどの金額に増えて世間に流通したわけである。そして、その融資ごとに銀行は利子を取るわけだ。すべては、他人から預かった100万円から始まっているのである。もちろん、預け主にも利息は支払うが、たとえば銀行に預ける利息が1パーセントで、銀行の融資利息が5パーセントとすれば、100万円の預け主は自分の金を使ってわずか1万円の収益、銀行は、自分の金は1銭も無いのに、573万円の5パーセント、29万円の収益である。


 もちろん、銀行業務には人手も要るから、支出もあるが、基本的に銀行とはこのように無から有を生む商売なのである。そして、そのトリックが「信用創造」の機能である。もちろん、先ほどの話はモデル的に考えたものだから、現実には複数の銀行が関与する。そのトリックの秘密は、銀行が融資をする場合には、現金で貸すことはほとんど無く、小切手を用いることと、銀行に金を預けている人間が預けた金の総額を一度に引き出す可能性はほとんど無いことである。しかし、銀行がCに90万円を融資した直後に最初に100万円を預けたBが100万円の引き出しを要求したら、銀行には10万円しか無いのだから、銀行は支払い不能で倒産ということになる。つまり、信用創造とは、こうした危険性の上に成り立つ綱渡り行為なのである。資本主義社会の血液と言われる通貨は、このような危険な血管(欠陥というべきか)を流れているわけだ。


 ところが、こうして他人の褌で相撲を取っている銀行が、この資本主義社会では一番大きな顔をしているのである。


 いずれにせよ、銀行の信用創造の結果、社会に流通する通貨は、小切手も含めて、現実の通貨の何十倍にもなる。日本の場合は、1400兆円のうち現金は70兆円しかない。つまり、20倍に膨れているわけだ。


 とは言っても、庶民の世界で意味を持つのは現金であり、帳簿上の取引でのみ、その20倍の金額が動いているというだけの話である。


 しかし、問題は、庶民の懐にどれだけのお金があるかということだ。


 


 


6 金は貧しい者の懐から金持ちの懐に流れる


 


 言うまでもなく、日本の庶民は貧しい。高度経済成長期には、企業が稼いだ金のうち労働者への給与となる支出、つまり労働分配率はかなり高いものだった。しかし、1980年代のバブルの頃から、それは著しく下がり始めたのである。「悪平等」がマスコミで批判され、能力主義がもてはやされた結果、同じ会社内での幹部社員と平社員の給与格差はどんどん広がっていった。幹部社員になれる数は一握りであり、国内消費のほとんどは貧しい庶民が生活の必需品を買うという「生存のための消費」であるから、給与格差の広がりと共に、消費は低迷し始めたのである。(モデル的に考えよう。100名の社員の中でもっとも優秀な人間には2倍の給料を与え、それ以外の社員は1割減俸とする。最初全員が20万円の給与ならば、一人は40万円に昇給し、その他は18万円に下がる。では、収支決算はどうなるか。会社は最初2000万円の人件費だったが、この処置で人件費はどうなったかというと、1822万円となり、178万円節約できたわけである。これが「能力主義・成果主義」の実体であろう。もちろん、全員に1割減俸を言い渡してもいいが、それだと社員が会社に反抗する。ところが、一部だけでも昇給した人間がいれば、「能力と実績の差で給与に差がついたのであり、それに文句を言うのは焼餅であり、見苦しい」ということになる。これが「能力主義」や「成果主義」の一つの側面である。そして、言うまでもなく、減俸された99人の消費活動の減退は、たった一人の昇給者の贅沢ではカバーできないのである。)そして、バブルが崩壊した後は、金持ちによる贅沢品の需要までも無くなり、日本は長期に渡るデフレ時代となった。


 繰り返すが、庶民の懐に金が無いという、この一事が、現在の日本の長期不況の根本原因なのである。特に、小泉政権において、(「痛みを伴う改革」! それは、庶民にだけ痛みを強要する改革でしかなかった。)様々な福祉予算の削減と公共料金の値上げが行われ、金持ちはより金持ちになり、貧しい者はより貧しくなる政策が取られた結果、日本がアメリカ的な「格差社会」になりつつあるのは誰でも知っていることである。


 金持ちは消費をしない。これは不思議な話だが、彼らは金を使わないのである。いや、使わないで済むように政治を動かし、いつでも損をせず得をするようなシステムを作った結果、金持ちは金を使わなくても済む社会ができるのである。(あらゆる法律の背後には、それで利益を得る一部の人間の姿があると見てよい。)彼らにとって金とは紙の上の数字でしかない。消費をするのは、それが生存と直結している中流から下流の人間たちだけだ。そして、資本主義の原理が、「相手に損をさせて自分が得をするゲーム」である以上、庶民は消費行為によって一層貧しくなり、資本家は一層豊かになっていくわけだ。これは、膨大な金を持った人間と、わずかな金しか持たない人間がポーカーでもする場合を考えればよい。どんなにいい手が来ても、相手がレートを吊り上げれば、資本の無い人間は勝負から下りるしかないのである。これは企業対企業でも同じであり、資本の無いライバル企業が相手なら、こちらは幾らでも安売りすればよい。そして、相手が潰れたら、今度は(ライバルはいないのだから)いくらでも商品の値段を吊り上げることができるわけだ。


 要するに、法律による歯止めの無い資本主義とは、弱肉強食のジャングルなのだが、そこにいる猛獣たちは、きれいな身なりをして上品な風をする紳士淑女たちなのである。


 もちろん、それで資本主義を否定するわけにはいかない。だが、金持ちという、圧倒的な力を持った存在と、無力な庶民を同じ土俵で戦わせるのは、「公平」な方法かもしれないが、「正義」にかなっているとは言えないだろう。それが、20世紀前半に労働者保護の法律が各国で次々に作られた理由であり、労働組合などができた理由なのである。ところが、日本では貧乏人までが「俺は、労働組合は嫌いだ」と公言する始末だ。あまつさえ、選挙では自分たちから徹底的に収奪し、自分たちをいじめ抜いている与党政権に投票する始末である。奴隷制度が盛んだったころ、黒人は奴隷であることが幸せなのだという発言をする連中が黒人の中にいたという。これはつまり、「内面化された制度」という奴である。奴隷自身にそう思わせることができれば、それは支配が最高水準に達したということである。


 


 


7 欲望というエンジン


 


 「起きて半畳、寝て一畳」という言葉がある。人間が生きるにはそれだけのスペースがあればよい、ということだ。それは勿論、他の生活物資でも同じことで、人間がいくら頑張っても、一度に飯を10杯も食うのは難しいし、できてもそれは快楽ではなく拷問にしかならないだろう。いくらきれいな衣服が好きでも、一度に服を10枚も着る馬鹿はいない。高級なホテルが好きな人間でも、ベッドで寝ている間は自分がどこにいるのかという意識さえもない。つまり、一日三食喰えて、夜寝るための住居があれば、人間、本当はそれ以上の金はほとんどいらないということだ。だが、それでは資本主義は成り立たない。Aの商品よりはBの方が高級で、Cはそれよりも高級だ、という序列を消費者にマスコミと宣伝を通して「教育」し、彼らに常に消費の欲望を掻き立てる。物を得るには金がいる。金が欲しいから他人と競争して、その競争に打ち勝って出世する。そして高給を得て高級な商品を購入する。これが資本主義社会の庶民の姿である。もちろん、出世競争に敗れた人間は「下流社会」行きだし、能力があっても不運な人間も同じことだ。


 「象箸」という言葉がある。ある王様が象牙の箸を作らせたのを見て、その臣下が暇を願って他国に行ったという話だ。なぜ、と聞いた知人に、その男は「象牙の箸を使いだしたら、他の器もそれにふさわしい器にしないと気が済まなくなるものだ。当然、それに入れる食物も、それにふさわしい美味珍味になるだろう。それは食事だけにはとどまるはずがない。やがて生活のすべてが贅沢品で満たされ、その費用をまかなうために国民から苛酷な税を徴収することになり、国民から恨まれて、他国のつけいる隙をつくり、この国は滅びるはずである」と答えたという。まるで、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話だが、象牙の箸一つから国が滅びるというのは面白い。だが、ここでの意図は、実はこの象箸の話の中に、資本主義社会の欲望の原理があるからだ。それは、欲望は無限連鎖であり、かつエスカレートしていくという原理である。


 我々は、かつてはクーラーの無い社会に生きていた。夏は暑いのが当たり前で、時々涼しい風でも吹けば、それでよかった。だが今、我々はクーラーの安楽さに慣れて、それ無しでは生活もできないような気分である。身の回りのあらゆる品々はそうである。我々の年代では、電化製品など無いのが当たり前で、テレビも冷蔵庫も無かったのである。せいぜいがラジオくらいか。しかし、ラジオしか無かった時代の我々には、未知の世界への畏怖と憧れと夢があった。要するに、贅沢品など、無ければ無いで、実はやっていけるのである。ところが恐ろしいことに、贅沢には薬物中毒と同じ禁断症状がある。いや、薬物依存症よりもたちが悪い。なぜなら、麻薬なら、次から次へと新製品やら一段上の高級品が出てくるわけではないが、贅沢品は常に「ワンランク上」の商品を餌に我々を生存競争の渦の中に投げ込むからである。それこそ、「死して後已む」というか、「馬鹿は死ななきゃ治らない」というか、死ぬまでこのレースは続くのである。そうした下等動物の生存競争のエネルギーを利用して金持ちは一層金を稼ぎ、またこの奴隷たちが購入する商品によって一層懐を豊かにする。


 いや、私は金持ちの存在自体を否定しようというわけではない。自分が彼らの立場なら、同じようにする可能性も十分にある。だが、悲しいことに、彼らは自分が稼いだ金の使い方を知らない。彼らが、世界中の文化や芸術や科学の発展のために、あるいは人間全体の幸福度を増すために金を使ったことなどない。慈善事業への寄付行為も、節税対策か、別種の金儲けの布石でしかないのである。つまりは、彼らもまた一種の依存症なのだ。金の魔物に取り付かれた精神異常者でしかないのである。私が金持ちを批判するのは、その一点においてである。そう、彼ら自身も不幸な人間なのである。本当は、彼らは不幸なのだが、自分たちを幸福だと信じている。それは、より幸福な状態を知らず、物質的な幸福こそが幸福だと信じているからである。他人の不幸の上に成り立つ幸福など、本当は幸福などではないのだが。


「起きて半畳、寝て一畳」という言葉を彼らは馬鹿にするだろう。王侯貴族の生活も知らない貧乏人が何をほざく、と。


 しかし、たとえば日本なら、毎年3万人から4万人の自殺者が出るが、その死体の上に自分の豪華な生活があると知りながら、平然としていられる、そうした神経は、600万人のユダヤ人を虐殺したとされているヒトラーよりも病的だと私は思う。あるいは、平和なイラクに戦争を仕掛け、その国を破壊しつくして、国民のそれまでの生活のすべてを奪って平然としているその神経も、同じである。つまり、日本であれ米国であれ、「自分の金儲けのためなら世界中の人間が死んでも平気だ」という連中が世界を動かしているという、この事態が私には不愉快でならないのである。だから、せめてはできるだけ多くの人々が、そうした世界の裏の姿を知って欲しいと思う。


 


 


8 自由主義とは何か 


 


 さて、政府の仕事とは何だろうか。それは、放っておけば放埓な「自由」のはびこる社会に、「正義による秩序」を与えることである。言葉を変えれば、弱肉強食の世界に法的な規制を加えて人間らしい生活秩序を与えることである。放任状態での「自由」とは、「力ある者にとっての自由」でしかない。そこに「道義に基づく規律ある自由」を打ち立てるのが政府の役目だと言ってよい。


 昔の西部劇でよくあったシチュエーションだが、まだ法の支配が及ばない西部の町では、地方ボスがその町を支配するという状況が生じる。そこで、町の大多数の合意で保安官を雇うことにして、その保安官によって町に秩序が確立するのである。これが「法の支配」の原型である。こうした状況で、「それは自由への干渉だ」と言う批判が成り立つだろうか。


 最近は露骨な欲望肯定の発言が幅を利かせており、「正義」という言葉は偽善扱いであまり評判が良くないが、社会的な意味での「正義」とは、「公正」のことである。政府の役目は、社会を公正なものにすることだと言っていい。では、「公正」とは何か。


 よく、「機会の平等」と「結果の平等」という区別が論じられる。社会主義や共産主義は「結果の平等」であり、「悪平等」だ、というのが右側の論者によくある発言だが、そのような発言は、資本主義社会あるいは自由主義社会において本当に「機会の平等」があるかどうかという部分を見てから言うべきだろう。もちろん、機会の平等など存在しないのである。機会の平等を言うなら、あらゆる青年は義務教育を終了した時点で同額の金を与えられ、そこから人生にスタートするべきだろう。その原資となるのは、もちろん、全国民に対する100%の相続税である。死ぬ時点で親が子供に金を残すまでもなく、子供には政府から均等な金が与えられるのだから、遺産はすべて国庫に納入すればよいのである。


 もちろん、そんな政策など永遠に実施されることはないだろう。人間というものは、自分の「稼いだ」金を子孫に残したがるものなのである。つまり、金持ちは永遠に金持ちで、貧乏人は永遠に貧乏人であるというのが、金持ちの理想とする社会なのである。これがつまり「保守主義」という思想を経済的に見た時の実体だ。もちろん、保守主義とは文化的伝統を守ることだ、という考えもあるだろうが、現状を維持するとは、実際には身分と財産の固定化のことなのである。


 そして、本題の「自由主義」だが、自由とは誰にとっての自由なのかが問題だ。貧乏人や下層階級の人間に、どのような自由があるというのか。はたして「やりたいことができる」のは誰なのか。言うまでもなく、権力を持つ者である。かくして、カール・マルクスの名言「自由とは、何よりも権力である」という言葉が妥当するわけだ。それも知らずに、下層階級の連中が、「自由主義」を擁護するという喜劇が行われているのである。その自由は、「君たちの自由」ではないよ、と誰かが言ってあげるべきだろう。


 つまり、自由は確かに理想ではあるが、「(経済的)自由主義」とは実は、強者(富者)のための自由を法的・政治的に保障させるための口実なのである。言い換えれば、「俺たちがどんな悪事をやっても、政府はそれに対して口を出すな」というのが経済的自由主義の意味だ。皆さんは、そういう意味の自由をお望みだろうか?


 「では、お前は、自由の束縛を望むのか?」とお尋ねになる向きもあるだろう。その通り、私は束縛を望む。ただし、それは私への束縛ではなく、「経済的犯罪者」への束縛なのである。つまりは、自由の束縛の中にしか、社会正義は存在しないと私は考えているわけだ。法律にせよ道徳にせよ、束縛以外の何だろうか。束縛を拒否する人間とは、つまりあらゆる法律と道徳を自分に適用することの拒否を主張しているのである。もちろん、だいたいの「自由主義者」は、そこまでも考えず、ただ幼児的な欲望のままに自由をくれ、自由をくれと叫んでいるだけなのだが。


 もちろん、ここでは経済論としての自由を論じているのであり、たとえば冤罪で投獄された人間や独裁国家で自由の束縛に苦しむ人々の場合は、話がまったく別である。


 要するに、「経済的自由主義」とは資本家や大実業家が、自らの犯罪的収奪の隠れ蓑としている思想だという、私にとっては常識にすぎないことを改めて主張しているだけである。


 


9 国富とは何か。


 


 ある中国の古典の中に、「政府がいくら金があっても、国民が貧しいなら、それは豊かな国ではない」という趣旨の言葉があったが、私がここまで論じてきたのも、結局はそれに近いことだ。ただし、それに加えて、「国民のわずかな一部だけがいくら金を持っていても、国民が全体として貧しいなら、それは豊かな国ではない」という言葉も入れよう。


 たとえばアメリカは世界一の貧乏国とは言えないまでも、相当な貧乏国なのである。かつてのアメリカの繁栄を知る者は、なぜアメリカが今のような状態になったのか、信じられない思いがするだろう。だが、1960年代の繁栄の前に、1930年代の大不況と貧困の時代がアメリカにもあったのである。その大不況の反省から、アメリカは投資銀行と貯蓄銀行の分離を行い、金持ちのマネーゲームが庶民生活に影響を及ぼさないようにした。その結果、金持ちは他の金持ちから奪う以外に資産を増やす手段がなくなり、金融が庶民生活を破壊することはなくなったのである。そして、高い累進課税と高い労働分配率によって、庶民の資産はどんどん上昇した。これが1960年代までのアメリカの繁栄の原因である。だが、レーガン以降の(民主党大統領も含め)ほぼ全大統領による金持ち優遇政策により、労働分配率はどんどん低下し、庶民の税金は上昇し、その一方で金持ちの資産は数倍に膨れ上がった。これが現在のアメリカの貧困の姿である。


 要するに、国富の総量は決まっているのである。したがって、政治と経済の課題は、その分配をいかにすれば、国民が全体として幸福になるかということなのである。これはべつに共産主義の勧めではない。ほとんどの企業人は強欲という病に犯されている。それが政府や法律まで味方につけたなら、国民の大半が貧困のどん底に陥るのは当然だということなのである。


 幸いなことに、世の中には金持ちより貧乏人が圧倒的に多い。これは何を意味するかと言えば、彼らが選挙での投票の権利を正しく使えば、今の状態を変えることは簡単にできるということなのである。口先だけではなく、実効性のある庶民のための政策を主張する政治家に投票することで、今の状態は変えられるのだ。


 そういう、投票の威力を前回の衆議院選挙で国民はやっと分かったはずだ。後は、現在の世の中の不合理や不平等、不公平がどこに起因しているかについての理解を国民一人一人がすることである。


 この一文も、そのための一助になれば幸いだ。


                            2010年1月9日


  








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