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徽宗皇帝のブログ

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恋愛と結婚
政治経済問題が中心のつもりのこのブログ向きではないが、「酔生夢人」ブログのほうは記事を連続して載せたもので、バランス上、こちらに載せる。
引用された文章も管理人氏の感想もそれぞれ面白い。
今でも「恋愛幻想」にしがみついている女性は多いと思うが、若い男性はそうでもないようだ。そもそも恋愛をするにはカネがかかるし、今どきの若者にはそんな余裕もない。それに、異性との交際であれこれ相手に気を使って、何が面白いのか、と思う男の子も多いだろう。それよりはアニメの中の人物に恋したり、アイドル(まあ、それも枕商売をやる連中だ、と覚めた目で見る悟った若者も多いだろう。)を眺めているほうが「現実の女」を相手にするより楽だ、ということで、恋愛も結婚も日本社会から払底しそうな形勢になってきたのではないか。もちろん、子供など生まれるはずはない。
ただ、一人で生きるよりは二人で生きるほうが何かにつけて便利なようにこの社会はできているのであり、たとえ「契約結婚」でも、しないよりはしたほうがマシだ、と私は思っている。ただし、お互いの立場を尊重し、相手の領域に必要以上に踏み込まない、ということが大事だろう。独身の利点と、結婚の利点を両方得られる可能性が契約結婚にはあるのではないか。
言うまでもなく、「契約内容」が大事であり、たとえばセックスはどうか、子供は持つかどうか、自由になるカネの範囲はお互いどこまでか、と、通常の結婚ならお互いへの信頼で無言のうちに了解できるようなことも、言葉にしないといけない、ということは面倒である。
それくらいなら、普通に結婚すれば、と思うのだが、「恋愛をしないと結婚には至れない」という思いこみ、いわば「資本主義の策略による幻想」がそれを妨げるわけである。なお、恋愛経験豊富な「恋多き」女性に対してはふつう男性は「ビッチ」の一言で、終わり、思案の外、結婚の対象外であるwww そういう女性でもかまわず結婚したいというほどの魅力がその女性にあれば、話はべつだが。(「恋多き女」と結婚して、その女が結婚後に他の男と恋愛や浮気をしないと考えるほうがおかしいだろう。)
昔の「見合い結婚」は、かなり優秀なシステムで、仲人の名誉にも関わるから、あまり変な縁組はさせなかったと思う。もちろん、財産とか家柄とかを重視した面もあったかと思うが、貧乏人でも、恋愛結婚は「くっつきあい」と軽蔑され、見合い結婚を良しとしたのである。結婚後は互いに貞潔を守る、というのも意味がないことではない。夫や妻への愛情は、恋愛とはべつだが、それ以下のものであるわけではない。



(以下「株式日記と経済展望」から引用)


マスメディアと資本主義が手を突っ込んで、恋愛と結婚が、さも常識で
あるかのように吹聴した。若者に恋愛してもらったほうがお金が儲かる

2016年12月9日 金曜日

「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉とこれから 11月29日 シロクマ

 昔から「結婚と恋愛は別物」とは言われているにもかかわらず、結婚するためにわざわざ恋愛を経由しなければならないのは理不尽なわけで、こういう意見が出てくるのも当然だろう。家族を持つ・子どもを育てるといった家庭的なノウハウと、異性とときめいた時間を過ごすためのノウハウは大きく違っているので、恋愛が下手だから配偶者として不適かといったら、そうとも限らない。
 
 むしろ、世の中には、恋愛上手だけれども結婚相手としては最悪な人も多い。だから、結婚する前に恋愛というハードルを越えなければならないという固定観念は、恋愛なんてどうでもいいから結婚したい人には邪魔でしかない。

 ここで岡田育さんが言っているように、恋愛の延長線上に結婚があるということ、逆に言うと恋愛というハードルを越えなければ結婚はできないということは、単なる共同幻想、あるいは流行でしかない。
 

猫も杓子も恋愛だった、あの時代

  そういえば、猫も杓子も恋愛を持ち上げていた、あの、恋愛結婚の時代とは何だったのだろう?
 
 ある時期までの恋愛結婚には、伝統的なライフスタイルや価値観から離れ、欧米風のライフスタイルや価値観に憧れるニュアンスが含まれていた。好きな者同士が自由に結婚できる社会は、そうでない社会よりは望ましいものだっただろう。
 
 だが、恋愛結婚のアーリーアダプター達の二代目が思春期を迎え、恋愛結婚のレイトマジョリティが結婚適齢期を迎えた後の時代においては、そうとも限らない。
 
 憧れの対象だった恋愛結婚は、いつしか当然のテンプレートとなり、ある種の強迫性を帯びてきた。「好きな者同士が、自由に伴侶を選びあう」はずの恋愛結婚が、「好きな者同士を探さなければならない」ものへと変貌していった。今にして思えば、四半世紀ほど前の若者は、今の若者よりも必死に恋愛して、結婚しようとしていたと思う。彼氏・彼女がいることが正義で、彼氏・彼女がいないことが悪であるかのような雰囲気が漂っていた。90年代のクリスマスの雰囲気などは、まさにそういうものだった。
 
 そして、そういった雰囲気についていけない者には、「ダサい」という烙印が容赦なく押された。「まじめな」「かたい奴」だとしても、「ダサくて」「恋愛ができなければ」話にならない――そんな風に考えている人が、当事者たる若者だけでなく、少し年上の人達にすら珍しくなかったことを、私はよく憶えている。
 
 今にして思うと、あの、恋愛にみんなが必死になっていた時代に、心の底から恋愛したがっていた人はそれほどいなかったんじゃないかと思う。
 
 「みんなが恋愛しているから」「テレビやドラマで恋愛が恰好良いこととして描かれているから」「恋愛していないとダサいと思われるから」、なんとなく恋愛しよう、とにかく恋愛しなければ、と思っていた人って結構いたんじゃないだろうか。表向きは自由なパートナー選択が浸透したようにみえて、実のところ、恋愛の強制というか、自由選択を無理矢理に押し付けたものではなかったか。恋愛結婚推進派は、見合い結婚やイエの都合による結婚の不自由を批判し、自由な恋愛を良いものとしていたのだけれど、そういう自由が与えられた結果として、それでみんな恋愛を謳歌し結婚できていれば、世の中はこんなに少子化にはなっていない。
 
 恋愛と結婚がセットとみなされるようになって実際に起こったのは、非婚化と少子化だった。それと、恋愛して結婚しなければならないという、強迫的な固定観念。  

アーリーアダプターにとっての自由はレイトマジョリティにとっての束縛

  ちなみに私は、旧来の束縛から自由にしてくれるような価値観やライフスタイルは、ある時点までは自由の源でも、ある時点からは抑圧の源になってしまうと思っている。
 
 そこには例外は無くて、初期のキリスト教の教えも、昨今の個人主義も、諸々の解放運動のたぐいもたぶん同じ。新しい価値観やライフスタイルがまだ世間に浸透しきっていないうちは、それらはアーリーアダプターを自由にしてくれる。だが、レイトマジョリティにまで浸透し、半ば常識とみなされるようになると、今度はその価値観やライフスタイル自身が旧来の束縛に取ってかわって、人々の心を縛り付けるようになる。
 
 たぶん、恋愛結婚もそういうものだったのだろうと思う。
 
 そこにマスメディアと資本主義システムが手を突っ込んで、恋愛と結婚が、さも常識であるかのように吹聴した。若者に恋愛してもらったほうがお金が儲かる、若者がお金を落としてくれる、というわけだ。
 
 言い換えると、トレンディドラマやクリスマスのシティホテルやレジャースキー場は、あの世代の男女関係に値札をつけて換金したってことだ。値札のついていなかったものに値札をつけて経済成長とは、いかにも現代資本主義的で抜け目のないことだが、そのためには、恋愛が固定観念になって、クリスマスを異性と過ごすのが常識になって、カップルでスキー場に出かけるのがトレンディでなければならなかった。バレンタインデーだってそうだ。そうやってメディアをあげて馬鹿騒ぎをして、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気をつくることが、お金儲けをしたい大人の人達にとって肝心なことだったのだろう。
 
 おぼこいことに、私も私の周辺の同世代も、そういう換金の構図にはほとんど気付いていなかったが。
  

やっと恋愛の呪縛が解消されてきた

  でも、バブルがはじけて、就職氷河期があって、恋愛結婚についていけない人が続出して、それからも長い時間が経って。どうやら下の世代は恋愛の呪縛から少しずつ解放されてきたようにみえる。
 
 恋愛したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
 結婚したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
 
 もちろん現在でも、「孫の顔が観たい」的なプレッシャーは残っている。けれども、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気が無くなっただけでも好ましいことだ。


そう、いつしか恋愛と恋愛結婚には「恋愛できるぐらいに社会性を身に付けている」という成長の証、つまり通過儀礼としての性質を帯びていった。自由な個人主義社会ができあがり、社会から通過儀礼らしきものがことごとく消え去った後には、恋愛経験が通過儀礼としての機能を帯びるようになった。通過儀礼としての機能を帯びるようになったということは、つまり、恋愛もまた個人を抑圧する社会的因子の一つになったということに他ならない。
 
 しかし今、恋愛のそうした通過儀礼的で抑圧的な性質までもが希薄になりつつある。おめでとう! また私達は、ひとつ自由になりましたね! まあ、この自由もまた未来の不自由の芽になっていくのだろうが、その負債を支払うのは現世代ではなく未来の世代なので、今は喜んでおけば良いのだろう。
 
 恋愛の呪縛が解消された後の世界は、戦前世界に先祖返りするのではない。イエ血縁も希薄になってしまった現代社会における「恋愛抜きの結婚」とは、旧来の結婚に比べてもっと社会契約的で、もっと経済的で、もっと身も蓋も無いものになるだろうと私は予感する。そういう、身も蓋も無い結婚や社会契約的なパートナーシップが新しい常識となり、新しい抑圧の源となった時、未来の世代は何を思い、何を悩むだろうか。



(私のコメント)

TBSのテレビドラマで「逃げ恥」が好評なようですが、契約結婚が主題のドラマです。テレビ漫画が原作ですが、私は第7話から見始めて9話まで放送が済んでいる。1話から6話まではネットで見ましたが、オタクっぽいITエンジニアと、派遣社員で派遣切りに遭って失業した女性とのラブコメディです。

35歳の恋愛経験の無いITエンジニアは星野源が演じ、まさにオタクで草食男性。失業して家政婦になった25歳の女性には新垣結衣が演じていますが、まさに現代社会問題を風刺している面もある。恋愛弱者のエンジニアにとっては恋愛や結婚は無縁のものであるはずだった。

そこに家政婦として家の清掃に週一回やってくる事になり、二人の関係が始まる。家政婦と言えばおばさんの仕事であり25歳の未婚の美人でスタイル抜群の新垣結衣のような娘が来たらどうなるのだろうか。その辺が非現実的ですが、炊事も洗濯も完璧となればますます非現実的だ。

その辺はテレビドラマだから何でもありですが、そんなかわいい子が契約結婚を提案して来ると言うのもあり得ない設定だ。しかし失業して家も無いとなれば住み込みの家政婦というアイデアを思いつく。エンジニアの星野は仕事が忙しく家事を月に19万4千円で雇うことにする。

私も、20万円で家事をしてくれる新垣結衣のような若くてかわいい子が家事をしてくれるなら喜んで雇いたいものですが、そんなに世間は甘くはない。愛人契約ですら月に30万円以上が相場であり、月に4回程度のデートだけだ。ブログ記事にもあるように恋愛にはカネがかかり、若者にはハードルが高くなってしまった。

現代の若者はテレビや学校と言う洗脳装置で洗脳されてしまって、小さい時から価値観を植え込まれてしまう。恋愛結婚もその一つであり、テレビではトレンディードラマで若い男女の恋愛が繰り広げられてきた。テレビドラマにはスポンサーがついているから、若い男女は広いマンションに住み自動車を乗り回して、年がら年中高級料理店で会食している。

そうして若者は洗脳されて消費生活を押し付けられる。若者の理想の生活をドラマで描いているのですが、バブルが崩壊して若者は年収が200万円そこそこでは、テレビドラマと現実との乖離がひどくなってきて、最近ではテレビを見ない若者が増えた。

若者の非婚化も、少子化も生活難が背景にありますが、非正規社員では年収は200万前後がせいぜいだろう。新垣結衣も大学院まで出たのに就職先が無く、派遣社員になっても派遣切りで無職になってしまう所は現実的だが、父親に勧められて家政婦になる。

昔は「押しかけ女房」と言った言葉がありましたが、「逃げ恥」の新垣結衣は現代版の「押しかけ女房」なのかもしれない。奥手でオタクの星野は積極的な新垣にオタオタしてしまうが、その辺はよくあるラブコメディになっている。ITエンジニアで仕事が出来る設定だから高収入で家政婦にも給料が支払える。

要するに給料さえ良ければ嫁さんの成り手はあると言った事を現しているのでしょうが、10話では星野もIT会社をリストラされるようだ。現代のITエンジニアは使い捨てであり、35歳過ぎるとリストラされる可能性が高くなる。納期が近くなれば連日徹夜になり体力仕事になり身体がついていけなくなる。

現代の若者にとっては恋愛結婚は非常にハードルが高いものになり、経済的にも社会的にも条件を整える事は難しい。離婚も増えてきましたが、原因としては経済的な理由が多いようだ。新垣結衣は住み込み家政婦と言う職業で給料をもらっていますが、正式の結婚をすれば専業主婦となり給料は出なくなる。その辺をドラマとして訴えているのでしょうが、住み込み家政婦と専業主婦とでは何が違うのだろう。

新垣結衣や星野源のような俳優なら美男美女だから恋愛も成り立つのでしょうが、ブス女とぶ男では恋愛も成り立ちにくい。カネがあれば結婚生活も成り立ちますが、年収が200万とか300万では夫婦生活も成り立たない。「逃げ恥」にしても、ITエンジニアで高給取りだから20万円の給料も家政婦に支払える。もっとも新垣結衣のような若くてかわいい家政婦とは限らないが。




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