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徽宗皇帝のブログ

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生活の技術 1
「生活の技術」という書きかけの原稿から、幾つかピックアップして掲載する。
前にも書いたが、私は人生で成功する方法自体は知ってはいるのだが、性格的にそれはできない。つまりコーチにはなれても名選手にはなれないタイプである。たとえば、人生で成功するのにもっとも大きな資質が演技力であるのは誰でもうすうすと感じてはいるだろうし、演技力自体も努力で向上させることはできる。しかし、演技をするのがいやだという感情を克服するのは容易ではない。自分自身の感情に打ち勝って自分をコントロールできれば、それは人生の達人である。
要するに、これから書くことの中には、私自身は実践していないこともたくさんあるが、そのほとんどは有効性があると私は信じているということだ。それを実践すれば、あなたも人生の「名選手」になれるかもしれない。




第二章 財産形成について

 「人生問題のほとんどは経済問題である」、というのは清水幾太郎の名言だが、金持ちの親を持って生まれなかった貧しい若者にとって、いかに財産を形成するかは、人生の最大問題の一つである。これに比べれば、恋愛など、幻想的な問題にすぎない。つまり、人生の基本問題は二つ。一つは、いかにして健康な状態を維持するか。もう一つが、いかにして財産を形成するかである。その後者について述べよう。
 まず、犯罪的手段で財産を形成することは、避けたほうがいい。犯罪を行うには犯罪者としての性格と才能(平気で嘘をつく能力など)が必要なのであり、犯罪者的素質の無い人間は犯罪者としての成功はまず不可能なのである。これを良く示しているのが、ドストエフスキーの『罪と罰』である。あれは、犯罪者の資質の無い善人が、自らの超人思想に取り憑かれ、柄にも無い犯罪を実行してしまった一部始終の記録である。ただし、犯罪者的資質は養成することも可能であり、少年院や刑務所が、その種の「教育機関」であることは一部では良く知られている。大企業にも似た面はあり、企業の利益になることなら何でもやる人間こそが出世するのが資本主義のシステムであるため、大企業の上層部は、たいていは非人間的な怪物になる。これはマイケル・ムーアの「シッコ(シック・コーポレーションの意味か?)」などに如実に顕れている。軍隊が殺人者の訓練所であることなども言うまでもない。
 そうした華やかな修羅の道を選ぶのも一つの生き方ではあるが、あまり冴えなくても「人間らしく」生きたいなら、堅実な人生設計をする必要があるだろう。
 まず、人生の生き方には大別して二つある。一つは個人事業主として生きることであり、もう一つは組織の中で生きることである。芸術家やスポーツマンは前者である。個人商店の店主なども前者だろう。後者の中には、親しい仲間だけでチームを作って小さな組織の中で生きる方法もあり、これは両者の中間的形態である。大組織に比べて自由度は高く、個人事業主の孤独からは免れているのだから、理想的形態かもしれない。だが、交友関係に恵まれていないとできないことだから、ここでは考察しない。個人事業主の中でも、才能が前提となる芸術家やスポーツマンの人生も無視することにする。

 たいていの人間は、学校を出ると会社に入り、社会人生活を始める。最初の頃は給料も安く、仕事はきついが、会社の仕事に慣れてくると、仕事は楽になり、給料も少しずつ上がってくる。
 さて、ここで問題は、多くの若者は、貰った給料のほとんどを使い切ってしまうことである。もともと給料が低いのは分かるが、しかし、その金の使い方は、はたして意味のある使い方だろうか。若い男性なら、酒や女に使うだろうし、若い女性でも化粧品や洋服、音楽や娯楽に過度の浪費をしていることが多いのではないだろうか。その中でも書籍の購入に使うのは、ましな使い方だが、実は、私から見れば、これも無駄遣いである。なぜなら、文明国には、公立図書館というものがあるからだ。自宅に数千冊の書籍を保存していることを誇るのもいいが、図書館の数万冊の書籍をすべて読破した人間のほうが、はるかに高レベルな知識人だろう。もちろん、読んだ本が身についているかどうかはまた別の問題だ。要するに、教養を身につけるにも、知的娯楽を得るのにも、実は金などいらないということである。現在はインターネットもあるから、中古品のパソコンを安く手に入れれば、意欲さえあれば、インターネットを通じて何の勉強でもできる。まあ、これは無料とはいかないから、やはり公立図書館ほどの貧乏人の友はいないが。
 酒や女も含めた、遊興娯楽に使う金については、幾分かは若い頃の思い出にはなるだろうが、やはりほとんどは無駄金と言うべきだろう。まったく使わないのも無理だろうから、できるなら、使う金を自分でセーブするのがいいだろう。
 さて、ここで本題に入ろう。いかにして財産形成をするかである。ギャンブルや犯罪以外の方法で、ある程度の資産を作るには、時間がかかるのは当然だ。しかし、真面目な人間なら、何の才能が無くても、ある程度の資産形成はできるのである。
 あなたが、ある程度しっかりした会社に入社したなら、まず、そこで10年は勤めることである。そうすれば、銀行はあなたが住宅取得をするための貸付に応じてくれる。現在の世の中は、大不況の時代であるから、かつて作られた豪華な住宅が、格安の値段で売りに出されていることがある。そうした物件を根気よく探すのである。新築をしてはいけない。現在のような不況の時代の建築は、建築費を安く上げるための安普請で作るに決まっているからである。中古住宅ならば、かつては3000万円くらいしていたものが、1000万円程度で手に入る例もある。築20年だろうが、しっかりした物件なら、新築当時とほとんど変わらない状態であることもあるのだ。ところが、中古住宅販売は、築年数で値段が大きく下落していくから、物件の内容に比べて、格安の値段で売られる住宅が多いのである。つまり、あなたは、本来なら3000万円の住宅を、1000万円そこそこで手に入れることになる。
 もちろん、銀行の融資を受ければ、それからはローンの返済が始まる。だが、1000万円程度のローンなら、利息も含めて、10年もあれば返済できるはずである。20歳で入社して、10年後に住宅を取得したなら、あなたはわずか30歳で一国一城の主である。そして、この家は、あなたに金が必要になった時には担保にもなってくれるのである。
 借金が気になる? 借金も財産のうちである。あなたが借金をしているということは、あなたにそれだけの社会的信用があることの証明なのである。信頼性の無い人間に金を貸す人はいない。
 そして、さらに十年後には、ローンも完済して、あなたは借金も無くなる。だが、ここで、もうワンランクアップをしてみよう。今度は、自分が住むための住宅ではなく、投資のための住宅を取得するのである。40歳なら、定年もまだまだ先だ。前と同様に、中古物件の掘り出し物を探し、それを見つけたら、思い切って勝負に出よう。前のローンを完済したことで、あなたの信用度は上がっているから、今回も銀行は快く融資してくれるはずである。もし、融資を渋るなら、他の金融機関を試してみよう。銀行よりも審査がゆるやかで、条件も有利な金融機関もあるはずだ。
 だが、現在の不況の中では、今勤めている会社がいつ倒産するかもわからない。ローンを抱えたまま職を失ったら大変ではないか、と考える人もいるだろう。確かにそうだが、借金は、払える限度以上に払うということはない。払えなくなれば残りはチャラである。それが資本主義のシステムなのである。ローンの途中で失職したなら、今住んでいる家を売って、借金の返済に当て、また一からスタートするだけである。もともと裸で生まれた人間ではないか。裸でやり直すのに、何の文句があろうか。
 こうして二つ目の不動産を手に入れれば、その新しく取得した住宅は他人に貸して家賃が稼げる。場合によっては、その家賃がローンの支払いを上回ることもあるだろう。ローン以下であっても、いずれにしてもあなたはそれほどの負担無しにローンの返済を続けていけるのである。そして、ローン期間が終われば、あなたはまったく借金は無く、二軒の家の所有者になっているわけである。
 人間の苦労は、毎日の生活費をどうして手に入れるかということである。そのために、いやな宮仕えもしなければならない。だが、家賃不要の住宅があり、毎月の食費程度を稼ぎ出すもう一軒の家があれば、人生の主要問題は、もう解決したのである。
 これは地味な生き方であり、才能のある人間にとってはお笑いぐさかもしれない。だが、世間の大半の人間は平凡人である。平凡な人間でも真面目に生きていけば、人生の末期には経済問題から解放された晩年が期待できるというのは、大きな希望ではないだろうか。
 たとえば、太宰治という人は、頭の良さや文学的才能は抜群の人間である。だが、彼の人生と私の人生を取り替えたいとは、私はまったく思わない。いや、現在自分を恵まれていない運命だと思っている人間でも、主観的生活としては、太宰治よりもはるかに幸福だろう。それは、太宰治が自分で自分の不幸を選び取るような生き方をしてきたからである。平凡人の人生は、けっして不幸な人生ではないのである。案外と華やかな生活を送る有名人のほうが、精神的には不幸な生き方をしているかもしれない。
 財産形成は、何千万人もの人間が毎日頭を悩ませている問題であり、確実な方法など無いが、その要点を言えば、「資本蓄積」「投資」を適切に行うことだろう。貯蓄だけでは、大きな財産の形成はできない。資本主義の社会においては、「投資」は財産形成の必要条件だと言えるだろう。それはもちろん、ギャンブルではある。馬券を買おうが証券を買おうが、宝くじを買おうが、すべてギャンブルなのである。しかし、そうした勝負を避けてばかりいては、満足な老後資金程度も残らないだろう。というのは、この社会は貧乏人のわずかな金を搾り取ろうとする金持ちでいっぱいだからである。つまり、広く薄く、下層階級全体から金を取り上げて、上の人間に配分するようにこの社会の仕組みは作られているのである。聖書ではないが、「持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているわずかな物も奪われる」というのが、この社会なのだ。

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