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徽宗皇帝のブログ

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「リベラル」側からの改憲論を排す
「世に倦む日々」から転載。
見事な論説だ。過去の日本の政治についての膨大な知識と、ご当人の優れた見識と、論理力の高さがあって初めて出来る論説だろう。
私のように直感だけで、論理力も無く、ぐだぐだと書くだけのブログとはレベルが違う。まあ、直感に関してだけはわりと自信があるのだが。
それはともかく、ここで書かれたことは、日本の今後を考える上で実に大事なことである。
リベラル側(本当にそう言えるのか、あるいはただ、今の政権の政策の一部に反対しているだけで、根は保守反動ではないか、という疑問もある。)からの改憲論という、実に危険な動きに警鐘を鳴らしているわけだが、私もこの批判に完全に同意する。

集団的自衛権だろうが個別的自衛権だろうが、どちらも「憲法違反」であることは明白であり、今の憲法がある以上、日本は戦争することは不可能なのである。そして、その「お花畑憲法」があるために、日本は「米国の戦争」に協力することを拒否できたのだ。それが「戦争法(安保関連法)」によって一気に、「戦争ができるようになった」わけである。
では、憲法9条を厳密に守り、他国に攻め込まれたら、黙ってその蹂躙を受けろと言うのか、と、憲法改定論者たちは言うだろう。まさに、そうだ、と私は言う。戦争が起これば、いずれにしても国民生活は破壊されるのである。戦わなくても、あるいは戦争に勝っても同じことだ。
実際には、日本ほどの大国が武器を完全に捨てた状態で、世界各国と協調して生きているならば、その「平和国家」を侵略する国は、まず存在しないだろう。
それも日本の中に米軍基地があるからだ、という意見にも一理はある。あるいは二理も三理もあるだろう。では、米国による収奪と人権無視をこれ以上我慢して、奴隷的国家のままでいるか、という問題がそこに出て来る。過去の保守政権は、「平和と引き換えに」その属国状態を甘受してきた。ある意味では「大人の妥協」をしてきたのだ。そういう意味では昔の自民党は大人の政党だったのだ。だが、今や、「奴隷状態はそのままで、戦争にまで駆り出される」ようになったのである。これが安倍政権と過去の自民党政権の最大の違いだ。
引用文が長いので、私の前説はここまでとする。

なお、「リベラル」という言葉を私はあまりよく理解していない。「自由主義者」なのか、「改革派」なのか、「反体制派」なのか、実に漠然とした言葉だと思う。「リバタリアン」は一層分からない。どちらも「リバティー」に由来するのだろう、と考えているのだが。(調べろよ! という幻の声が聞こえてきたが、無視する。どうせここはそういうブログであるww)



(以下引用)

東京新聞が仕掛けた左からの改憲策動 - 「新9条」の正体は「普通の国」

先週(10/14)、東京新聞の「こちら特報部」の紙面に「平和のための新9条論」と題打って、小林節、伊勢崎賢治、今井一の3人による憲法9条の改正案が特集報道された。解釈の余地を政権に与えないため、専守防衛の自衛隊を明確に位置づけるための新9条の制定だと紹介されている。記事を企画編集した記者の署名は、中山洋子、池田悌一、佐藤圭。冒頭の説明に「安倍流の改憲を許さないための新九条である」とあり、東京新聞がこの提案を積極的に肯定し推進していることが分かる。今井一の新9条案には、「わが国が他国の軍隊や武装集団の武力攻撃の対象とされた場合に限り、個別的自衛権の行使としての国の交戦権を認める」とある。伊勢崎賢治の新9条案にも、「個別的自衛権を行使するため、陸海空の自衛戦力を保持(する)」とある。完全な明文改憲だ。小林節はもともと生粋の改憲論者であり、従来からの主張なので驚くには当たらない。他の2人についても、この明文改憲は以前からの持論なのだろう。最初に言っておかないといけないことは、この主張の中身が、ずっと前から9条改定を目論む保守派によって唱えられてきたものと同じで、小沢一郎の「普通の国」の所論と同じだということだ。戦争と軍隊を放棄した9条を止揚する。自衛隊を憲法に位置づけ、個別的自衛権を明確に認める。「普通の国」になる。まさしく、自民党など改憲派の本筋がこれであり、憲法を現実に合わせる立場の基本がこれだった。

これら改憲派の面々が、この9条改正論をこの機に打ち出して国民的議論にしようという思惑は理解できる。不可解で面妖なのは、それを東京新聞が担いで「こちら特報部」でキャンペーンした事実である。東京新聞の「こち特」と言えば、まさに現在のこの国の左翼リベラルを代表するマスコミ言論の場であり、多くの市民が信頼を寄せて注目する情報源だ。共同の配信で全国の地方紙に掲載されていて、ここ数年、反動政治に抵抗する言論の拠点として人気を集めてきた。40年前の朝日の論説のような位置だろうか。この新9条論が、朝日の紙面でプロモートされたのなら、まだ話は分かる。5月に池澤夏樹が全く同じ主張を試みて、時節が安保法案が審議入りする直前だったため、護憲派の警戒感を刺激して非難囂々の結果となった。東京新聞より右寄りに立つ朝日が、こうした「左折の改憲」へ世論を誘導する動機は頷ける。しかし、護憲派の急先鋒と思っていた東京新聞がこのような挙に出るのは、想定していない意外きわまる出来事だった。記事を見るかぎり、明らかに東京新聞はこの意見と運動を肯定していて、読者をこの改憲の方向に導いている。「新9条」などと巧妙な表現で化粧しているが、3人と編集部の主張は9条の原理原則とは全く異なるもので、それを真っ向から否定する反動の論理に他ならない。戦後一貫して、親米保守派が実現に狂奔してきた改憲論の中身そのものである。

日本国憲法の9条は、国権の発動たる戦争は厳として認めておらず、国際紛争を解決する手段として戦争を認めていない。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明記している。改憲派は、これをお花畑のファンタジーだと言い、現実にそぐわない夢物語だと罵り、9条を現実に合わせるようにずっと要求し続けてきた。それに対して護憲派は、9条は平和国家のあるべき理念を示していて、現実を憲法に近づけることこそが求められているのだと反論。専守防衛や非核三原則や武器輸出三原則の縛りで軍事を抑制してきた戦後日本の平和主義の意義を評価し、日米安保の破棄と東アジア共同体を展望した上で、9条の理想に近づけるべしと論陣を張ってきた。丸山真男の「憲法9条をめぐる若干の考察」が、この護憲派の立場を理論的に基礎づけている。9条は前文とセットの構造で、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という、決意から9条が導出されている。もし東京新聞が唱えるように、個別的自衛権と交戦権を認め、自衛隊を認める9条に変えるなら、前文もろとも書き替えて「普通の国」憲法にする必要があろう。

前文を変えず、このままにして、9条だけを変えて自衛隊と交戦権と個別的自衛権を認めるのなら、その新9条は前文と論理矛盾をきたすのであり、前文の決意と条文の制度との整合性がとれなくなり、憲法全体の法的安定性が崩れてしまう。前文で宣言された決意は、安倍能成が全面講和の闘争時に正しく説いたように、そして「新しい憲法のはなし」でも説かれているように、丸腰主義の勇気が本質なのであり、諸国民の公正と信義に信頼して、素手の外交一本で平和と安全を実現し維持するという国家方針となっている。侵略の脅威や予兆は外交と対話で未然に防ぐことができ、諸国との絶えざる協調と細心の注意による外交努力でそれを阻止できるはずだという信念が前提されている。自衛権を認め、交戦権を認めれば、それを根拠にし、自衛を名目にした戦争を起こしてしまうから、そちらのリスクの方が大きいのだという判断と確信がある。この理想論の態度は、国際政治の冷酷なリアリズムの中ではあまりにナイーブでリスキーだとずっと批判され、平和憲法の丸腰主義は嘲笑と誹謗を受け続けてきたけれど、あの戦争を経験した日本人が掴んだ哲理として揺るぐことなく、ジョン・ダワーの言い方によれば、戦後日本人は理想を地上に引き下ろして現実のものにした。70年間、憲法前文と9条を変えずに守り抜いた。非武装が平和憲法の核心であり、戦後日本人の理想であったことを、東京新聞は肝に銘じなくてはならない。

東京新聞と3人の論者は、現行憲法と現実との間に乖離がありすぎるから、どんどん解釈で法制を暴走させ、憲法をなし崩しにされてしまうのだと説明する。9条を変えて自衛隊と個別的自衛権を認め、集団的自衛権を禁止すれば、条文の縛りが効いて政権による勝手な解釈を止められると言う。だが、本当にそうか。仮に3人の言うとおりに憲法9条を変えたとして、解釈や政策がそこから先に転がらないという保証がどこにあるのだろう。例えば、今回の集団的自衛権にしても、政府与党は、フルの集団的自衛権と限定的な集団的自衛権という詭弁を開発し、砂川判決で自衛権を認めたから合憲だなどという卒倒するような荒唐無稽なこじつけ論法を繰り出してきた。憲法を破壊する勢力が政権に就けば、どんな無理な詭弁工作でも平気で断行するし、積み重ねた法制局の解釈体系を壊滅させてしまう。今井一らの新9条で最も危険なのは、容認された個別的自衛権の範囲が広がることであり、歯止めをかけられなくなることだ。例えば、在留邦人の安全を保障するという任務が個別的自衛権の論理で正当化され、自衛隊が(侵略戦争に)出撃する大義名分になる。戦前はそのようになり、満蒙は帝国の生命線だと喧伝され、自衛の名目で侵略戦争が無限に中国大陸に拡大した。現時点で、すでに朝鮮半島有事は個別的自衛権行使の範囲という了解になっていて、その言説が左右を超えた常識になってしまっている。これまでは、憲法9条(戦争と武装の放棄)が歯止めになっていた。

現実と距離の甚だしい憲法だからこそ、為政者の歯止めとして機能した。それゆえ、アーミテージは憲法9条を自分たちを邪魔するバリケードだと呪い、その除去をマスコミを使って扇動してきたのだ。どれほど自衛隊を普通の軍隊にし、米軍の指揮下で戦争させようとしても、憲法9条が明文で掲げられている以上、その歯止めの効力は大きくて、どうしても自衛隊は縛りをかけられ、逸脱させるのに限界があったのである。東京新聞の明文改憲の方向を選ぶことは、アーミテージのバリケードを左翼リベラル自らが撤去することを意味する。今回、こうして、左翼リベラルの側から9条改正の提起が出たことに、言いようのない恐怖と不快を私は覚える。25年前の「政治改革」を思い出す。小選挙区制導入は自民党の悲願で、50年代のハトマンダーから70年代のカクマンダーまで、戦後の保守派が虎視眈々と狙ってきた制度変革の獲物だった。保守派だけが推進したのなら、「政治改革」を潰すことはできたのである。ところが、山口二郎と後房雄が左から扇動し、岩波と朝日が先頭に立って左を切り崩す工作を仕掛け、まさかと思った小選挙区制が実現してしまった。消費税も同じで、左が結束して抵抗を続けていれば、8%への引き上げは阻止できていた。やはり岩波と朝日が賛成に回って旗を振り、山口二郎と神野直彦と宮本太郎が調略作戦を担当し、湯浅誠が政府の広告塔となって「社会保障のための財源」と「広く薄く分かち合い」のプロパガンダを吐き、左が切り崩されて押し切られてしまった。

同じパターンで政治戦に完敗した。今回、不気味なのは、左翼リベラル界隈の機関紙のような東京新聞が、9条改正を正面から提起し、「普通の国」への移行を主導し始めたことである。左翼リベラルの売れっ子の想田和弘も、この佞悪な動きに早くから加わって明文改憲の世論工作をリードしていた。自衛隊と個別的自衛権を認める中身で9条を変えること、この改憲路線は、現時点で維新・民主・生活の3党で一致できるものだ。公明も喜んで乗ることのできる。左からの初めての本格的な改憲策動に寒気と目眩を禁じ得ない。


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