忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「歴史は繰り返される。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」
「ギャラリー酔いどれ」所載の「長周新聞」記事の一部を転載。



大新聞をはじめとする商業マスコミは、「弾圧される側」であるどころか、
最初から終わりまで国民を弾圧し、国民を否応なくあの無謀な戦争へと引きずり込む側であった


彼らは敗戦後、GHQ占領軍が「100万の軍隊に匹敵する」といって
天皇を免罪・擁護したのと同じく、ほとんど例外なく釈放され、
首相や大臣クラスへ出世していった。




まあ、そういうことだ。それを許した国民なのだから、今の安倍自民党がやりたい放題の暴政をしても文句など言うわけがない。言えば「非国民!」である。(笑)
ごく僅かな人間が、なけなしの勇気を振り絞って抗議をし、そして押し潰され、踏みにじられていったのが、先の戦争である。そして、今度もまた同じことだ。
相も変わらず、である。
なお、私は天皇制は日本の歴史と文化の根幹にある貴重な国民遺産だと考える「尊皇主義者」だが、昭和天皇の戦争責任問題に関しては、それをGHQが免責したのは高度な政治的判断であり、賢明だったと思いつつも、しかし、それが戦後日本のアモラル(無道徳)な風潮の原因の一つとなったことは否定できないとも思っている。とはいえ、当時の天皇としては「皇祖皇宗」への責任から、自分の代で天皇制を終わらせることはできなかっただろう。まあ、天皇(昭和天皇が最大の戦争責任者であったことは疑いないとは思う。)を死刑にすれば、あの戦争を推進した者全員(乳幼児を除くほぼ全国民に近かったのではないか)の罪が代わりに免罪されるわけでもないから、天皇の戦争責任問題というものは一億総懺悔論と反対のようで、実は同じような空虚さを持っているのでは、と思っている。
しかし、天皇の場合は日本国憲法によって政治的発言や政治的権力を一切剥奪されたのに対し、天皇を神輿として日本国民を戦禍に巻き込んだ連中がその後政治や権力の中枢に舞い戻ったことは最大最悪の出来事であり、それを許した日本国民は根っからの愚衆であり、権力の振る舞いに卑屈に追随するだけの奴隷国民であった。今も同じことである。
さて、
「歴史は繰り返される。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」
と言ったのはヘーゲルだったかマルクスだったか忘れたが、安倍という大馬鹿大根役者の三文芝居がこの後、どういう喜劇、あるいは悲劇を作るか、眺めることにしよう。とはいえ、この悲劇、あるいは喜劇のモブ(無名の群衆)として殺されるのは我々国民なのだが。(笑)


(以下引用)



戦争が苛烈になるなかで、国内では治安維持法を振りかざした特高警察による
血なまぐさい言論弾圧が吹き荒れた。
共産党員にとどまらず、それがたとえ日常会話であっても
反戦的、批判的な言動をしたものは「スパイ」「非国民」のレッテルを貼られて
片っ端から検挙された。

地方紙や雑誌も同人誌もみな検閲の対象となり、統制とともに廃刊に追い込まれた。
この時期、大新聞が権力とどのような関係にあったか。

日中の全面戦争がはじまる前年の1936(昭和11)年には、
言論・情報統制強化のために内閣情報委員会がつくられ、
翌年には内閣情報部へと強化された。

そこには、新聞・通信・放送界からは、緒方竹虎(朝日新聞社長)、
高石真五郎(毎日新聞最高顧問)、正力松太郎(読売新聞社長)、
古野伊之助(同盟通信社長)、芦田均(英字新聞ジャパン・タイムズ社長)、
片岡直温(実業家)が、
出版からは、増田義一(実業之日本社社長)、野間清治(講談社社長)など、
当時の商業メディアの中枢が参与として顔をそろえている。

この情報部は、国内外の言論を含む情報全般を監視して
政府や軍、財閥中枢と密に連絡をとりあい、
国策遂行のために積極的に宣伝、啓発するなど国民世論のコントロールを役割としており、
そのためにあらゆる企画・宣伝の立案、愛国行進曲の募集や制定、
時局講演会や展覧会などを全国各地で展開して世論統一を図った。

1937年には、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンで
戦争への協力意識を徹底するため国民精神総動員運動が始まり、
その推進組織として国民精神総動員中央連盟
(緒方竹虎、高石真五郎、古野伊之助が理事に就任)が結成され、
欲しがりません勝つまでは」 「贅沢は敵だ!」 「進め一億火の玉だなどの標語を広げながら、
国民への耐乏生活を強いるさまざまな法令を浸透させる空気がつくられた。

勤労動員を拒んだり、国防献金に積極的でなかったりしたものには、
まさにその街に住むことができなくなるほどに紙面上で書き立て、
戦争の提灯を持つことを誉めたたえた。

そのような全民族的な規模での思想統制を下地にして、
38年には国家総動員法、39年には国民徴用令が公布され
日米開戦前年の1940年には全政党が解散し大政翼賛会が発足する

この年、内閣情報部は言論統制の最高機関・情報局となって大幅に組織や権限を拡大した。
総裁として入閣したのは朝日新聞の緒方竹虎(国務大臣を兼任)であり、
後任総裁は日本放送協会(NHK)会長の下村宏であった。

大新聞をはじめとする商業マスコミは、「弾圧される側」であるどころか、
最初から終わりまで国民を弾圧し、国民を否応なくあの無謀な戦争へと引きずり込む側であった


彼らは敗戦後、GHQ占領軍が「100万の軍隊に匹敵する」といって
天皇を免罪・擁護したのと同じく、ほとんど例外なく釈放され、
首相や大臣クラスへ出世していった。



拍手

PR

コメント

コメントを書く