忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「民主主義」はまだ存在しているか
「晴耕雨読」から想田和弘氏の文章を転載。
正論であり、鋭い考察である、と思う。
だが、最近私は、こうした正論や深遠な考察の持つ力というものに少し懐疑的になっている。もちろん、「水になったワイン」の話とは逆に、全員が「自分だけでも」という努力を続けるうちに水がワインに変わるかもしれないのだが、私が徒労感を感じているのは、現代の日本(いや、たぶん世界中)における「言論機構の非対称性」にある。まあ、独りファシズム氏まがいの硬い言い方をしなくてもいいが、要するに、「言論に対する世間の扱いが、発言者の立場によってあまりに不平等、不公平だ」ということだ。
橋下や石原や猪瀬のように「世界遺憾」に指名される(笑)くらいの迷惑発言をしても簡単に免責される人間(要するに、マスコミが全力で守る人間)もいれば、まっとうな反原発発言をしただけで番組コメンテーターを降板させられたり、「風評被害を煽る」とされて攻撃されたりする人間もいる。要するに、「権力の側」と「非権力の側」の発言への扱いがあまりに差がありすぎるのである。
民主主義の基盤は、誰でも自由に発言でき、それが、立場にかかわらず、道理だけを元に公正に評価されるという点にある。そういう意味では日本における(いや、世界における)民主主義はもはや死滅しているのかもしれない。こちらの方こそピラミッドなどと同様に過去の遺跡として「世界遺産」にするべきか。
今の日本でTPPや原発に対する発言があまりに「非対照的」な扱いを受けていることを認めない人はいないだろう。
もちろん、これは「マスコミを支配する者は世界を支配する」というユダヤプロトコルの当然の帰結であり、何を今さら、という嘆きではあるのだが、やはり、山頂に重い石を担ぎ上げてもすぐにコロコロと転がり落ちるような仕事を無限にやっていく作業は、気がくじけがちなものである。だが、救いは、それをしている人間の数も多いことだ。つまり、「1%対99%」の戦いの中で、99%のうち9%くらいはその戦いをしており、残り90%のうち20%くらいは権力の味方(実は彼らも搾取される側なのだが、権力のおこぼれに与るつもりでいるわけだ)、70%くらいは無関心層、あるいはB層だ、と考えればいいのではないだろうか。そして、その70%が目覚めた時に、世界は変わる可能性もある、と私はまだ信じているのである。

私は常々、自分の頭は中学生レベルだ、と言っているが、だからこそ、理解困難な多くの情報の中で、自分でも分かる程度の重要情報を(まあ、一知半解だろうが)選んで伝えるということをしているわけで、そういう「狭い窓」も窓の一つではあるだろう、と思っている。ただし、その窓は曇りガラスであったり、妙な色ガラスがはまっているかもしれないので、ご注意を。(笑)

例によって引用記事とは無関係な前説になったが、まあ、これは私自身の「ガス抜き」作業である。情報発信や情報受信の現実について、最近鬱屈したものがあったのだ。


(以下引用)


2013/6/18
「最近「おまかせ民主主義」という言葉が定着してきたが、その正体は、「消費者民主主義」:想田和弘氏」  その他
https://twitter.com/KazuhiroSoda

今日は毎日新聞から参院選について取材を受けた。

「低投票率が予想されるがなぜか」と聞かれたので、政治家は政治サービスの提供で、有権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も有権者も誤ってイメージしていることが原因ではないか、と答えた。

有権者が自らを政治サービスの消費者としてイメージすると、「つまらぬものは買わぬ」という態度になる。



低投票率は「買いたい物がないから投票しないのは当然」という態度なのではないか、と。

これ、内田先生が教育現場について仰ってることの応用です。

でも有権者は消費者ではないですよ、断じて。

国王に主権(=判断し、決断し、責任を取る権限)があったのを、民衆一人ひとりに主権を移すことで近代の民主主義は始まった。

つまり民主主義では、民衆=主権者とは国王の代わりに政治を行う主体だ。

政治サービスの消費者ではない。

消費者には責任は伴わないが、主権者には責任が伴う。

この点が、消費者と主権者では決定的に異なるはずだ。

ところが消費資本主義的価値観が蔓延する中、ゆっくりと誤解が定着した。

政治家も主権者も、消費モデルで政治をイメージするようになってしまった。

だから政治家は国民をお客様扱いする。

同時に、軽蔑している。

単なる消費者だと思ってるから。

だから政治サービスを買ってもらうには、売れそうな刺激的な商品を分かり易く並べ、誇大広告も辞さない。

政治家の政策がマーケティングめいているのも当然なのだ。

一方の消費者化した有権者も、政策や問題を自分の力で吟味しようとはしない。

それは売る側の責任だと思ってるから。

首相をコロコロ変えたりするのも、「頻繁にモデルチェンジすれば売れるのではないか」というのと同じ発想だ。

だが繰り返しになるが、民主主義を消費モデルでイメージすることは、重大な過ちだ。

ここで壮大なボタンの掛け違いをしているから、民主主義の空洞化ないし劣化が進んでいるようにみえる。

最近「おまかせ民主主義」という言葉が定着してきたが、その正体は、ずばり「消費者民主主義」なのだと思う。

消費者はサービスを消費するだけ。

つまりお任せ。

不具合があれば文句言うだけ。

何も生み出さない。

税金と票という対価を払う以外、貢献しない。

いや、気に入らなければ票さえ投じない。

民主主義の原点は、「みんなのことは、みんなで議論し主張や利害をすりあわせ、みんなで決めよう」であったはずだ。

しかし主権者が消費者化してしまうと、そんな発想からは遠くなる。

消費者の態度は、「お客様を煩わさないで。

面倒だから誰かが決めてよ、気にいったら買ってやるから」になる。





拍手

PR

コメント

コメントを書く