忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「石油禁輸」と対米戦争開戦
「ZERANIUMのブログ」から転載。
昭和天皇も含めて、当時の日本上層部が最初から「負ける予定で」戦争を始めたとは私は思わないが、米国との開戦が不合理そのものであったことは苫米地氏の言う通りだろう。「負ける予定で」と「負けることも覚悟の上で」とはまるで違うと私は思う。そして、実際には後者だったのではないか、と私は考えている。なぜなら、それこそがまさに「日本的な思考」の特徴だからだ。
「玉として砕けることは美しく、瓦として生き延びることは醜い」という「滅びの美学」だけでなく、日本には昔から「神風頼み」という性格がある。いざとなれば神風が吹いて何とかなるのではないか、という気持ちだ。それが、あの戦争での開戦時の気持ちだったのではないか。
そういう気持ちを私はすべては排斥しない。私は「合理的思考」というものも全面的には信じていないからだ。だが、可能な限り計算し尽くした上で国家の大計を立てるというのが為政者の義務だろう。それが国民全体の生命に関わるときにはなおさらだ。
日本上層部の「無責任さ」「愚かさ」(あるいは「愚かさ」ではなく、誤魔化しに満ちた、意図的な「国民搾取」と言うべきか。)というのは、明治以降の日本の政治と経済の特徴だろう。
太平洋戦争が、日本への「石油禁輸」で決定的になったという過去の「定説」を苫米地氏が否定してみせたのは非常にいいことだと思う。世の「定説」というのは、冷静に考えると案外いい加減なものが多いのである。(だから私は「ビッグバン説」も「地球温暖化説」も信じない。「進化論」も疑っている。)こうして、過去の「定説」を検証することで、現在を見る見方にも新たな光が照らされることもあるだろう。



(以下引用)


・太平洋戦争は筋書き通りに行なわれた


   過去に行なわれた戦争の理由について考えたことがあるでしょうか?
   たとえば太平洋戦争では日本はなぜアメリカと戦争すると決めたのか? それに対する一般的な説明は、日本が対米宣戦布告を行なった理由は、アメリカが日本に対して石油の禁輸を決めたからだとされています。

   石油が手に入らなくなると、エネルギー資源に乏しい日本は日中戦争を続けることができなくなり、たちまち敗戦国になってしまいます。それで日本はやむなく、連合国との戦争に踏み切った。生命線を絶たれた以上、もはや戦うしか道はなかった。日本人の大半はおそらく、このように戦争の理由を捉えているでしょう。しかし、これは本当のことでしょうか?

   1941年に7月にアメリカは確かに、対日石油輸出の全面禁止を決定し、実行に移しました。当時のアメリカは原油の世界シェアの半分を占める最大の産油国です。そして国内消費の80%近くをアメリカの石油に依存していた日本は早くから、アメリカが日本に対して石油輸出禁止に動くのではないかと危惧していました。日本がそれを怖れていたことは、日中戦争を遂行する過程で、アメリカにいちいちお伺いを立てていた事実によく現れています。

   日本軍がアメリカの許容範囲でしか行動できないことは、当時の国会議員や高級官吏、陸海軍の幹部、さらに最高戦争指導機関である大本営を含め、誰もが認めることでした。なぜなら中国に攻め入って支配圏を拡大すればするほど、そのために必要とされるエネルギーと資源は、よりいっそう英米依存せざるを得なかったからです。

   アメリカには当時、戦争国への物資の輸出を禁じる中立法というものがありました。
   これが発動されると、自前の資源を持たない日本はたちまち動けなくなります。それを怖れた日本は、中国との戦争を宣戦布告なしに始めました。一方の中国も、アメリカの中立法発動を怖れたために宣戦布告を行なうことなく、日本と開戦しています。つまり宣戦布告すれば、自分たちの行為が戦争であることを世界が認めることになるからです。(中国は、日本が真珠湾攻撃を行なった翌日の1941年12月9日に、対日宣戦布告を行なった)

   日本も中国も、こんなつまらない茶番を演じなければならないほど、アメリカに気を遣(つか)っていたのです。そうまでしておきながら、アメリカが石油輸出の全面禁止を決めると、なんと日本は、今度は対米開戦に向かうのです。つまり、早晩エネルギーが枯渇することを知りながら、アメリカと戦う道を選ぶのです。

   これは実に、不思議な話と言わなければなりません。
   なぜなら生命線を絶たれた瞬間に、日本はすでに死に体になっているにもかかわらず、もう一度騒ぎを起こして派手に死んでやろうというわけなのです。

「石油が絶たれたから戦争を起こした」という世紀の大ウソ

   不思議ついでに言うならば、石油の対日全面禁輸が行なわれてからも、アメリカ産の石油はなぜか日本に届いていたのです。「そんなことがあるわけがない」と思うかもしれませんが、これはれっきいとした事実です。アメリカは日本船籍のタンカーへの石油積み出しには応じなかったのですが、外国船籍のタンカーについては目こぼしをしていました。

   当時、世界最大の石油会社だったロックフェラー家のスタンダード石油と密接な関係にあった、ナチスドイツの複合化学企業であるIGファルベンを経由して、日本にアメリカの資源が輸送されていたことが明らかとなっています。日米開戦によって、太平洋の島々に広く日本の戦線が拡大していけば、日本軍の重油やガソリンの消費量は増加の一途をたどるのは当然です。蘭印に攻め込みインドネシアの石油を確保したから、それが賄えたとは言えず、インドネシアの石油は簡単には国内に輸送できなかったのです。

   当時、石油や資源の運搬は、軍によって徴用された民間商船が行いました。
   ですがそれらはことごとく米潜水艦の攻撃にさらされ、どんどん撃沈されていきました。ちなみに第2次大戦中に失われた民間商船はおよそ2500隻、犠牲になった船員は6万人を超えると推定されています。

   それはおよそ3年9ヶ月の間に2500隻ですから、月にならすと毎月55隻以上です。
   ということは毎日、必ず2隻近くが海の藻屑となり、それが3年9ヶ月にわたってずっと続いたという状況です。米潜水艦は大型輸送船に限って狙いをつけたはずなので、こうした状況でインドネシアの石油が日本に届いたわけがありません。

   ちなみに民間の船員の死亡率は推計で43%とされ、海軍兵士のそれの2倍以上に達しています。つまり戦争で死んでいくのは、戦争指導部や陸海軍の幹部ではなく、それは常に現場の兵士と民間人なのです。こうした状況にありながら、日本海軍は数多くの巨大戦艦を太平洋に展開し、敗色濃厚となる1944年春ごろまで、重油(艦船の燃料)を惜しげもなく消費し続けたのです。

   いったいこれのどこが、アメリカから石油供給を絶たれた国がとる行動と言えるのでしょうか? 狂気の沙汰という言葉で片付けるのは簡単ですが、実態はそうでもありません。当時の国会議員や陸海軍幹部、高級官吏たちは、むしろ自分の役目を理解して冷静に、段取り通りの仕事をこなしていると見える状況ですらあったのです。彼らはそうした中で大きな苦悩を抱えるでもなく、淡々とクライマックスへ突き進んでいくわけです。

   そして敗戦を迎え、新たな体制が生まれると、戦争遂行の責任を負うべき人々は、一部を除いて断罪されることもなく、どんどん社会の要職に就いていきました。それが、この21世紀の日本の土台となっています。こうした結末を見ると、石油を絶たれたために万策尽きて、やむを得ずアメリカに宣戦布告したという解釈は、どこからどう見ても成り立つようには思えません。なぜかというと、「石油を止められてどうしようもなかった」という言い訳はあまりにも軽佻浮薄、あまりにも軽いからです。

   この戦争で少なく見積もっても、軍人、民間人を合わせて310万人の命が失われました。軍人総数230万人のうち140万人は餓死でした。天秤棒の一方にこの犠牲の重さがあるとすれば、とうてい釣り合いがとれる開戦理由ではありません。

   日本がわざわざ派手に負けるために、辻褄の合わない戦争の道を突き進んだことに、私はあたかも、筋書き通りのプロレスショーを見せ付けられたような違和感を抱くのです。そしてこの違和感は、たとえ歴史家や戦史家たちがいかに百万言を費やして合理的な説明を行なったとしても、決して消えることはないでしょう。


              日本人だけが知らない
       book『 戦争論 』  苫米地英人著  フォレスト出版




拍手

PR

コメント

コメントを書く