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徽宗皇帝のブログ

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「空気」に従う人々が社会のファシズム化を助長する
問題の大学名に入っている「帝塚山」という地名は「てづかやま」と読むらしい。関西在住の人間には常識だろうが、それが日本全体の常識とは限らない。現に、私もウィキで調べるまで知らなかった。この「帝塚山」は「手塚山」と表記されたこともあるようで、手塚治虫で有名な「手塚」姓はそこから来ているのかもしれない。前方後円墳の古墳があったことから「帝塚山」という名がつけられたらしいが、別に「帝」の墓でもないようだ。
「大学への恐喝行為は日常的な出来事」らしいが、この事件は警察が捜査に乗り出し、絶対に犯人を逮捕しなければならない事件だろう。そうしない限り、日本の言論世界は暗黒状態になる。まあ、政権の要職にある連中が「自分の仲間」を積極的に非難したり逮捕させたりするとも思えないのだが。そして、毎度言うように警察や軍隊が守るのは権力の座にいる人々やその階層であって、一般国民などではないから、この事件で警察が本気で動くとは思えない。もし、警察がこの事件の犯人を逮捕したら、私はこれまでの警察を批判したり侮辱したりした発言を(半分くらいは)撤回する。

別の話題になるが、京都のどこかの祭りで事故が起こり、死者が出たようだが、私は祭りというものにファシズム性を感じて、あまり好きではない。「みんなで」盛り上がれ、という同調圧力の下では個人の自然な感情も嗜好も圧殺されるからである。
おおげさに言えば、小さな祭りの中にすら権力が発生し、権力に従うことが強要される。これは学校教育というものも同じであり、学校の世界とは、「権力と従属」を学ぶ世界でもあったという気が私にはする。これは教師対生徒の問題だけではなく、生徒相互の関係でも同じだ。いじめ問題は、まさしく権力構造の問題であり、「日常生活の中の政治」の問題である。
まあ、集団そのものを否定しては、社会的生物である人間としての生存すら不可能になるが、集団というもののファシズム的面には常に用心している必要があるのではないか。
「集団の中では個人の知能は半分になる」とすれば、頭の残りの半分が「狂熱」などの「空気」で満たされているのだろう。その「狂熱」が気持ちいい、という層(いわゆるDQNが多いと私は思っている)が「世間」を作るわけである。



(以下引用)


◆http://sun.ap.teacup.com/souun/15441.html#readmore
晴耕雨読
◎「言論弾圧は権力から直接来るものではありません。: 内田樹氏」 


☆https://twitter.com/levinassien

「サンデー毎日」から電話取材。大学恐喝事件の件。

大学への恐喝行為は実は日常的な出来事であり、
メディアがご存じないだけですとお答えする。

ただ、ふつうの恐喝は「職業的なクレーマー」によるものなので、
言葉づかいも刑事事件になるぎりぎり手前です。

今回のような明らかに学生を殺傷する可能性を示すようなクレームは
「いきなり逮捕」という案件ですから、プロの仕事ではありません。


怖いのは「ど素人」が大学を脅迫しても「警察もメディアも味方してくれる」と信じて
こういう行動に出られるような空気が 日本社会を覆っているということです。

今回の事件の犯人がただちに逮捕されなければ、それは
「こういう行為はいくらやっても罰されない」という
政府からの暗黙のメッセージだと「彼ら」は解釈するでしょう。

首相も警察のトップも「彼ら」の味方をしてくれるのだ、と。


小田嶋隆「言論抑圧、主役はあなたです」
☆http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20141002/272048/?rt=nocnt

「われわれは脅迫やいやがらせの技術を洗練させ、
暴露と見せしめのためのメディアを手に入れ、被害者を神経衰弱に陥らせるための
あらゆるタイプの回線を通じて、今日も不毛な情報戦に多大な労働力を投入している」

前RT: 小田嶋さんの意見に僕も深く同意します。

言論弾圧は権力から直接来るものではありません。

ほとんどは「ことなかれ主義者」と「事大主義者」たちの「忖度そんたく」の効果です。

「自分は悪いことをしていないけれど、党に迷惑を掛けたから」
といって辞職する政治家たちがその宣布者たちです。

それは言い換えると、どれほど清廉潔白であっても「まわりに迷惑を掛けた」人間は
社会的地位を捨てなければならないという「ルール」を広めているということです。

クレームの当否はどうでもよい、「まわりに迷惑をかけたかどうか」だけが問題なのだ、
という話にみんなぼんやり頷いている。

それなら話は簡単だ。

「まわり」を標的にして、「まわり」が不愉快になるようなことをすれば、
自動的に本人は その攻撃に正当な根拠があろうとなかろうと 処罰されなければならない。

「党に迷惑をおかけしたから」という理由で辞職する政治家たちは
そうやって言論弾圧の培地ばいちを形成しているのです。


週刊誌の編集部あてにメディアの批評性とは何かという「説教メール」を書いたので、
それを採録します。

ほんとうの意味での批評性を回復しないと、週刊誌には後がないです。

批評性というのは別に意地悪をするとか、
人が批判をはばかるものをあえて批判するということではありません

そうではなくて、自分自身の立ち位置、
自分が自明のものとして用いている語法や判断枠組みを疑う という知性の働きのことです。

誤報をただしく訂正できないというのは、批評性の欠如です。

そちらの週刊誌はかつて『橋下徹を首相に』という記事を書きました。

アベノミクス礼賛記事も書きました。

けれども、それを誤報として訂正したことはありません。

そんなメディアが
『前はいい加減なことを書いたけれど、今週書いていることは真実だ』
と言っても誰も信じない。

高橋源一郎さんはかつて『世界』に
「発行部数が逓減しているのだが、なにか起死回生の策はないか」と訊かれた
ことがありました そのときに「『世界』の罪」という連載を提案したことがあるそうです。

戦後60数年、『世界』がその虚報や 書きすぎや 書き落としによって、
日本の世論をどのようにミスリードしてきたか、どのような情報評価の誤りや、
推論上の誤りを犯したのか、それを血を流す思いで摘抉てっけつすれば、「僕は読むよ」と。

僕だってそれなら『世界』を毎月購読します。

週刊○○が「週刊○○の罪」という誤報訂正欄を毎号掲載したら、
僕は「週刊○○に学べ」とあらゆる機会に発言するでしょう。

それくらいの覚悟がないと、ほんとうに週刊誌は危ないと思います。

ということを書きました。

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