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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「西洋文明の常識」
かつて存在した森川明氏のブログ(当時はホームページだったか。)「西洋文明の常識」から一部転載する。氏のブログは、当時の私の蒙を開いて(訂正:「啓く」である。しかし、「啓蒙」と「蒙を啓く」以外に使い道の無い漢字だ。)くれものだ。
記事中に出てくる記述から分かるように、書かれたのは湾岸戦争当時のことだから、今から25年ほども前のことになるが、書かれた内容は一つも古くなっていない。つまり、それだけ西洋文明の支配力は強靭だったし、現在でも強固であるわけだ。だが、ネットの普及で、森川氏と同じ結論に至る人間もかなり増えてきたと思う。
私自身が自分のブログで言い続けていることも、氏と同じようなことが多い。簡単に言えば、西洋文明による支配が地球の人災のほとんど9割ほどの原因だ、ということである。
ここでは、分かりやすく実感しやすい、西洋文明のもたらした「家庭の崩壊」を中心として抜粋した。
「西洋文明の常識」は書籍にもなっているが、残念ながら、おそらく入手は困難かと思われるので、過去のネット記事を引用することで、その価値を多くの人に伝えたい。(余計なことだが、書籍よりも、ネット記事時代の方が、内容は豊富で濃厚だったと思う。おそらく書籍化に際して、何らかの配慮が働いたのだろう。)



(以下引用)



 ●自由と平等の後始末はだれがする


  アメリカは、自由の国であり平等の国といわれる。確かに、民主主義の象徴
 は、素晴らしく聞こえる。しかし何でも自由に、何でも平等にしたらどうなって
 しまうだろうか。そんな無謀なことを実践してしまったのが、アメリカだった。
  生活をするのも自由、仕事をするのも自由、犯罪道具を手に入れるのまで自由
 である。何でもかんでもすべて個人の自由にしてしまったため、ついにアメリカ
 は無法地帯と化してしまった。
  あるアメリカのリポーターが、アメリカは内戦状態にあると評していたが、
 冗談のような真実である。ただ道を歩いているだけで、撃たれたり、刺されたり
 するのだから、もはや国家としての機能を果たしていないのではないだろうか。
 いまのアメリカは、国民の生命さえ守れない国なのだ。
  あるヒーローものの映画では、アメリカのおかれた現実を痛烈に皮肉った場面
 がある。映画の世界にすむ悪玉が、特別な魔法を使って現実の世界へ飛び出して
 しまうのだが、そこで彼が目にしたものは、たかがクツ欲しさのために街中で人
 が殺される場面だった。
  それだけでも十分に驚くべきことだが、通りを歩く人々は、まったく無関心で
 騒ぐ様子もない。そこで試しに、悪玉も人を殺してみた。つまりとても悪いこと
 をしたわけだが、それでもだれも気にも止めないこと驚き、喜ぶのだった。
  映画の多くはフィクションであり、現実ばなれした架空の世界を楽しむものだ
 ったが、驚くべきことにアメリカでは、現実の世界が映画に追いつき、追い越し
 てしまった。
  自由という思想は、我々の文明にはなかった。欧米は、これを知って馬鹿に
 したが、自由とはある意味で、無法にも近かった。なぜなら、好き勝手なこと
 をするための大義名分として用いたからだ。自由の定義の範囲が、あいまいで非
 常に都合がいいことに注意して欲しい。
  本来であれば、自由ではなく権利を主張すべきだろう。実際、自由の前に権
 利を叫んでいた時代があった。しかし権利の裏返しには、義務がある。権利を
 主張するなら、同時に義務という責任も果たさなければならない。
  文明の中でも、とりわけ独立心の強かったアメリカの民衆は、だれかに強制さ
 れたり、束縛されることを極端に嫌う。そこへイギリス本国が、義務だけを押し
 つける植民地政策で圧迫してきたため、その反動から権利だけを求める自由が叫
 ばれるようになった。
  義務から逃れるための自由だったから、いつかは暴走するのは目に見えていた。
 アメリカも、昔からあれほどひどかったわけではない。少しずつ少しずつ、悪い
 方向へとエスカレートしていった。


  一九六〇年代は、不寛容の時代から寛容の時代へと移行するアメリカの変革期
 だった。リベラルの新しい流れが生まれ、西洋文明としては画期的な多様性へ
 の寛容
を見せた時代だった。
  この変革の意義は大きかったが、西洋文明は何をやるのでも極端なのだ。何に
 でも見境いなしに多様性を認め、すべてを個人の自由にしてしまったため、みな
 自分のことしか考えない自己中心主義に陥ってしまった。
  一方この改革は、社会的弱者だった女性にも大きな力を与えた。ウーマンリブ
 運動が全盛となり、男女平等を求める運動が、世界中へ広がっていった。皮肉
 にも、この運動がアメリカ社会を破壊した原因でもあった。もちろん、男女平等
 が悪いわけではなく、男女平等の考え方に誤りがあったからだ。このことが後に
 なって大変な結果をもたらすことになった。
  運動の先頭に立った女性は、男女平等とは「女性が男性と同じことをするこ
 とだ」
と主張した。この錯覚が、大きな不幸のはじまりだった。男女の違いを
 すべて差別と見なし、女性が家庭で働くことを単純に不平等と決めつけ、社会に
 仕事をする権利を求めていった。
  しかし社会へ活路を求めたのは、西洋文明そのものに原因があった。日本では
 一般に家庭を守る妻が財布の紐を握り、夫は仕事だけに専念するよう役割分担が
 決まっている。だから日本の夫は自分が稼いだお金でも、妻がやりくりする家計
 の中から小遣いとして受け取っている。
  それに対し欧米では、家計も夫が支配するのが普通だったため、妻はすべてに
 おいて夫に一方的に従わなければならない不満があった。自立している女性が、
 男性に頼らず、自分の稼ぎで暮らしている女性であるのも、それなりの理由があ
 った。対等になるためには、経済的にも独立する必要があったからだ。
  さらに働いて稼ぎを得れば、夫にとやかくいわれず好きなものを買える魅力が
 あった。このようなさまざまな思惑がからみ合い、自分の幸せを求めてどんどん
 働きに出るようになっていった。
  自己中心的に陥りやすい理由は、教育にもある。欧米の学校では、個性が重ん
 じられ、それをのばそうとする。もちろんある程度まではいいことだが、現実に
 は自己の概念を徹底的に叩き込み、自分を主張していくことを学ばせるため、
 他人の考えを素直に受け入れる下地が育ちにくいのだ。
  日本では、一般にできるだけ個性を抑え、周りにとけ込むことを教えるが、欧
 米では、積極的に出すよう教える。
  このような違いが生まれるのは、日本では、社会を重んじるため、「自分の
 意志を押し通すことをわがままと呼んで悪いことだ」
と教えるが、個人を重
 んじる欧米では「自分の感情は素直に表現するのが正しい」と教えるからだ。
  まさに文明の違いだが、個性を全面に出せば、絶えず個性同士の衝突がおきる
 のはいうまでもないだろう。自意識だけは非常に強いため、上司だろうが他人に
 頭を下げることを屈辱と感じ、たとえ自分が悪いと思ってもなかなか謝れない人
 が多い。そのような人々が結婚するから、問題は絶えない。
  西洋文明の夫婦は、の関係で考えるとわかりやすい。たとえばサラダ
 にかけるドレッシングは、絶えず振っていないと分離してしまうだろう。変なた
 とえだが、それと同じで、絶えず意識して互いに親密さを保っていないと、すぐ
 に夫婦の間に溝ができてしまうのだ。
  夫婦の絆が育たないのは、極端な個人主義の結果である。とにかく「自分は
 自分」
という意識が強くなり過ぎたせいで、信頼関係(とくに頼り合う関係)
 に基づく絆が育たない。だから何年一緒に暮らしても、ただの同居人の線を越え
 られないのである。
  日本では、ごく当たり前の単身赴任も、欧米では、とうてい考えられないこと
 である。「マダム・バタフライ」のような歌劇が好まれるのも、西洋文明では
 ありえないお話だったからだ。
  家族としての絆が弱い上に、自己が強く、おまけに妥協することを知らない人
 々がひとつ屋根の下で暮らすのだから、その大変さは容易に想像がつくだろう。
 何かあるたびに、すぐに衝突をおこすため、いまでは離婚が日常茶飯事になって
 いる。
  昔より簡単に離婚できるようになったのは、宗教の規制が弱まったことや、男
 性と同じ高等教育が受けられるようになり、女性の考え方が変わったこと。そし
 て女性でも自立することが容易になったからだ。さらに自立した女性の新しい生
 き方として、離婚が勲章のようにもてはやされたことは大きかった。
  女性が社会に進出していくと、やがて子育てや家事など外の仕事の邪魔にな
 ることはすべて軽視され、主婦業をして家庭にこもっている女性は、時代遅れの
 人間と見なされるようになった。
  ついには、家にいると「どうして働かないのか」と非難するような風潮まで
 生み出し、後ろからは女性運動家が煽り立て、際限なく女性の権利を主張し続け
 たため、女性までが自己中心的になっていった。だが、女性が好き勝手なことを
 やり、家庭をないがしろにしたツケは、信じられないほど大きかったのである。


 ●家庭を守らなかったツケ


  家庭の仕事の中で、一番大変なのは子育てだろう。ちょっと考えてみても、
 自分では何ひとつできない泣いてばかりの動物を、言葉の話し方からものの考え
 方、さらには、人間社会で生きていくためのしつけやモラルまで教え込み、ひと
 りの人間にまで育てあげなければならないからだ。これを子育てというたったひ
 と言ですましてしまっては、失礼ではないかと思うぐらいである。
  この大事業をいとも簡単にやってのけていたのは、先祖代々、母系で伝えられ
 てきた子育ての文化があったお陰である。女性運動家たちは、女性が文明を底
 辺から支えてきた事実を顧みず、ただ男女平等を叫んで、従来の社会制度や文化
 を問答無用でぶち壊したのである。


  西洋文明では、元々自己犠牲を嫌う傾向があった。他人のために何かをつく
 すことを極めて宗教的な行為、つまり聖職者がするような行為と見なし、一般の
 人間がすることではないと考えていた。
  子育てが軽視されたのも、やはり子供のために、自分の人生を犠牲にする
 こと
と考えたため、あまり子供を大事にしない歴史的な背景があった。
  経済的に余裕のある家庭なら、大抵メイド任せ(昔は乳母)にして、自分で
 育てない場合が多い。さらに金持ちの子女になると、すぐに寄宿舎に預け
 面倒な子供を放ったらかしにするのである。
  すぐに親離れさせることを、日本では子供の自主性を育てるためだとか、好
 意的に解釈しているが、現実には放任しているだけだった。
  子供のことをかわいがっているように見えても、子供を人形扱いして、着飾
 らせているだけのことも多い。人形遊びをするとき、人形の気持ちなど考えずに
 一方的に遊ぶと思うが、それと同じことを子供にするのである。
  大人社会の文明では、子供は大人の理屈に従うことを強いられる。子供には人
 格が認められていないので、認められるためにも必死になって大人ぶろうとする。
 小さいくせに妙にませた子供が多いのは、そのせいである。
  子宝といって、子供を大事にしてきた文明では、わけを聞いてもなかなか理
 解できないのではないかと思う。


  自由と平等のほかに博愛というものがある。博愛は、キリスト教の教えにあ
 る隣人愛に基づいたものだが、なぜかこれだけはあまり叫ばれない。そのわけ
 は、博愛を信じている人間など、ほとんどいなくなってしまったからだ。自分の
 子供さえ気をかけない人間が、赤の他人など愛せるだろうか。
  近年になると、人種を越えた人類愛を訴えるようになった。もう一度、基本
 に立ち返ろうとする姿勢はわからないでもないが、それを主張する文明は、隣人
 を愛すどころか虐殺して財産を奪ってきた。二千年かけてできなかったことが、
 どうしていまになったらできると思うのだろう。馬鹿げた理想をいう前に、まず
 自分の子供から愛して欲しいものだ。
  西洋文明は、面倒な子育てをしたくなかったため、昔から色々な手段を使って
 逃れてきた。そして最後に、平等の大義名分を使って完全に逃れた。女性が子供
 を捨て家事を捨ててしまったため、ついに家庭が崩壊し、機能しなくなってしま
 った。
  その影響で、子供のモラルしつけそして教育までが、極端に低下した。放
 任された子供たちの情報源は、ほとんどがテレビか映画であり、それらが厳格な
 モラルを悪と見立て、それを壊すことを楽しむ番組(欧米には実に多い)を垂れ
 流すため、わずかに残っていたかけらさえ奪われてしまうのである。
  実は、ジャズ・エージと呼ばれた一九二〇年代にも、一九六〇年代に良く似た
 モラルの低下がおきていた。第一次大戦後、婦人参政権の拡大により、少しずつ
 ではあるが、女性にも権利が認められるようになったからだ。
  いまからは想像もつかないが、欧米は女性に厳しいモラルを強いてきた文明だ
 った。文明のモラルを最後の一線で保っていたのが、女性だった。ところが、女
 性の発言力が増すと、堕落した男性を諭すどころか、自分たちだけがモラルを強
 いられるのは不平等だと考え、男性と同じように放棄してしまうのである。その
 せいで女性が権利を手にすると、文明全体のモラルが一気に低下してしまうのだ。
  一九二〇年代以降の世代から生まれ、成人したのが、一九六〇年代の女性であ
 る。一九七〇年代に、旧来の価値観が大きく変化したのは、子育てをする女性が
 大きく変わっていたせいだった。


  このリベラルの改革に、真っ向から反対したのが保守勢力である。保守勢力と
 は、強いもの、すなわち金持ちを優遇する政党である。昔の価値観を擁護する保
 守は、一見家庭を重視しているように思えるが、少数の金持ちのために、多数の
 弱者を切り捨てる現実を見れば、むしろ逆であることがわかるだろう。
  保守勢力は強いアメリカを合い言葉に、強者優先の政策を押し進めた。その
 結果、巨額な財政赤字と急速な産業の空洞化を生み、いまではアメリカの労働者
 の七十%以上がサービス産業に従事している。しかも、ほとんどが技術を必要と
 しない単純労働のため、労働者の平均年収は年々低下している。
  既に述べたが、経営者は、労働者の首を切ることを何とも思っていないので、
 人々の生活は非常に不安定である。それに強者優先の政策が追い打ちをかけたた
 め、貧富の差が一層拡大し、共働きをしなければ暮らしていけない低所得者層が
 激増した。
  平均的な家庭では、共働きをしないと貧困層に陥るのだから、選択の余地など
 ない。昔のように、働きたいから働いているのではなくなった。そのせいで、好
 むと好まざるとに関わらず、子供を保育所やベビーシッター任せにしなければな
 らなくなっている。
  家庭の崩壊にとどめをさしたのが、教育の質の低下だった。財政難を理由に、
 民主主義では絶対に必要なはずの教育予算が削減されたからだ。公立学校では、
 満足に先生も雇えなくなり、優先度の低い音楽や美術の授業がカットされた。教
 育の崩壊は、子供にしつけをする最後の砦が崩壊したことを意味している。
  かなりの時間が経過した後、ようやく反省の風潮がおこり、学校や家庭が見直
 されるようになった。とはいえリベラルが失敗したので保守化し、保守が失敗し
 たので、またリベラルにするといういい加減さでは、家庭を救えるはずもなかっ
 た。
  アメリカの最大の問題は、どちらに転んでも、家庭の崩壊が止められないこと
 にあった。リベラルと保守が、政権を交代するたびに両極端な政策を続けたため
 社会を保つ基盤が滅茶苦茶に破壊されてしまったが、どちらの政党も、この問題
 を真剣に修復しようとはしなかった。


  現実問題として、いまアメリカで問われていることは、家庭の崩壊を止めるこ
 とではなく、崩壊してしまった家庭をどう救ったらいいかである。たとえ家庭が
 なくても、子供は大きくなる。それを放置してきたため、子供が大人になり家庭
 を持ったいま、問題が顕著になったからだ。
  いまのアメリカには、自分さえよければいい自分勝手な人間が驚くぐらい増え
 た。他人が迷惑していようが、気にもしない。個人の自由が横行し、だれもが好
 き勝手にやる風潮が社会を蝕んでいる。
  義務こそなかった自由だが、自分のおこないには、責任があった。自由を手に
 する代わりに、それ相当の責任をとる。それが社会の決まりだった。それもいま
 では、みな「自分は悪くない」と何をやっても自分の責任を否定するようにな
 った。
  モラルやしつけが身についていない大人が増えたため、最低限のモラルさえ持
 たない子供(大人)が急増した。街中では、犯罪が絶えない。何せ、人を殺すこ
 とに何の感情も持たない人間が存在するのだから、この種の犯罪を一般の犯罪と
 同列に並べても良いのかと疑問にさえなる。
  いくら逮捕したところで、刑務所はどこも満杯である。だれかが入れば、だれ
 かが出てきてしまう。たとえ重犯罪を犯した人間でも、仮釈放などで減刑され、
 数年で社会へ舞い戻ってくる。そのため、仮釈放された凶悪犯が、また凶悪な犯
 罪を引きおこす悲劇的な事件が多発している。
  すべての社会秩序が破壊されてしまったアメリカでは、もう何がおきても不思
 議ではなくなった。都市部では日常生活がサバイバルゲームであり、明日自分が
 生きていることさえ保証できない状況にある。
  問題の深刻さは、犯罪の年齢層が年々低下していることからも、明らかである。
 子供に未来を託すどころか、世代ごとに悪くなっていく社会に、どんな未来があ
 るというのだろうか。


  これがアメリカが求めた、自由と平等の結果である。そして、これが西洋文明
 の常識でもある。欧米はいつも新しいことばかりやろうとするが、新しいことを
 試みるとき、それがもたらす負の面をまったく顧慮しないのだ。
  新しいことをするのが、すべて悪いわけではない。問題は、新しいことをする
 とき、古いものをすべて否定して、捨て去ってしまうことだ。古いものでも、何
 らかの形で引き継がなければならないものがある。
  たとえば、「女性が家庭を見捨てたら、だれが家庭を守るのか」である。
 日本では、女性に家計を一任して、財政面での実質的な権限を与えることで、専
 業主婦に関しては、日本なりの男女平等を達成した。
  一方、欧米は、すべての秩序を破壊して、女性でも男性と同じことができる決
 まりを作っただけだった。驚いたことに、それを男女平等と呼んでいるのである。
  だから、現実の世界をのぞくと、ほとんどの男性は家事をやらないので、結局
 は女性がやっている。社会へは出たが、仕事に家事、さらには子育てまでこなす
 重労働を強いられたため、それが嫌な女性は家庭を放り出してしまった。
  何でも平等にしろといっても、口でいうほど簡単ではない。共稼ぎでも家庭が
 保たれている場合は、大抵、女性がスーパー・ウーマンになっているはずであ
 る。男性が家事に協力する理想的な家庭など、現実には少数しかなかった。
  西洋文明は、目先の欲望だけで、新しいものを際限なく取り込む文明である。
 とにかく古いものをぶち壊せば、未来が開けるだろうというぐらいしか考え
 ていないから失敗する。自分のことしか考えない文明は、後のことまで考えたり
 はしないのである。


 ●搾取を隠す巧みなトリック


  民主主義は、民衆が政治を動かす制度である。すべての責任は民衆にあるわけ
 だが、いくら民衆が賢くても、正しい情報が知らされていなければ、誤った判断
 をしてしまうだろう。
  民主主義は、誤った情報が流されるだけで、国が誤った方向へ進む。つまり情
 報を操作できるものが、すべてを支配できるのだ。
  たとえば、アメリカ人の核兵器に対する意識が、日本人とは大きくかけ離れて
 いるのも情報操作の賜物である。かつて高名な科学者が放射能は危険ではない
 と断言していたように、基本となる情報が誤っていれば、簡単な判断さえできな
 くなる。
  驚いたことに、某有名アクションスターが出た、一九九四年制作の映画でも、
 いまだに核兵器が破壊力の大きな爆弾といった程度に扱われていた。まるで少
 し離れていれば、核爆発がおきても大丈夫としか受けとれない映像を見ると、ひ
 と昔前の内容に逆戻りしてしまったかのようである。


  現代のような情報化社会では、情報が津波のように押し寄せてくるため、ある
 程度の選別は必要だろう。しかし、重要な真実を隠したり、世論の支持を取りつ
 けるために情報操作をすることは、国民に正確な判断をさせないことであり、
 あってはならないことだ。
  湾岸戦争で報道規制がされたのも、真実が流されると、それまでの情報操作が
 ばれてしまうからだった。ウソで塗り固めた戦争の真実が暴露されると、折角企
 画した戦争ができなくなってしまうからだ。では、どうして面倒な情報操作をし
 てまで、民衆にウソをつく必要があったのだろうか。
  それは、単にいまの政治が民主主義だからだ。それだけである。その民衆は、
 人から何かを押しつけられたり、指図されることを極端に嫌う。常に自発的な行
 動でないと、納得しない。そこで民衆が自分が判断したと思わせるために、巧妙
 な情報操作が必要になった。
  つまり情報操作は、西洋文明にとって、必要だから生まれた結果といえる。
 長年の搾取のせいで、恐ろしく強い自主性を持ってしまった民衆を支配するには
 力で押さえ込む支配、つまり旧ソ連のような徹底した武断政治しかない。そこで
 文明の主流派は、自由や平等の看板を掲げることで、従来の武断政治ではないこ
 とを強調した。
  民主主義の基本になった多数決も、やはり民衆を力だけで支配できなくなった
 新しい支配者層が受け入れた妥協の産物だった。だから、基本的には民主主義だ
 が、原爆のような支配者層のビジネスが関わると、民主主義でなくなってしまう。
 欧米の民主主義国家におかしな二面性があるのは、そのせいだった。ビジネスの
 ために作られた情報まで、一字一句真に受ける必要はないだろう。


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