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「貧困問題」の大きな戦場と小さな戦場

「紙屋研究所ブログ」6月5日記事を抜粋転載。実にいい記事だが、長いし、個人的生活に関する部分もあるので、ここだけ抜粋した。
「子供の貧困」という「切り取り方」に胡散臭いものを感じているのは私だけではなかったのだな、と感じたが、その問題点をこれほど明晰に論じる能力は私には無いので、感心した。
つまり、「大きな戦場」の問題(戦略問題)を「小さな戦場」の問題(戦術問題)にすり替えることで、本当の戦いの相手や問題そのものが見えなくなるわけだ。
抽象的な言い方が嫌いな人もいるかもしれないので、言い換えれば、問題とすべきは「貧困(格差)がなぜ存在するか」であって、「子供の貧困」ではないし、まして、「子供の貧困」のさらに個別部分である「子供の教育問題」ではない、ということだ。こうして、問題はどんどん局所化、矮小化され、「庶民全体がなぜ貧困や格差に苦しむのか」という社会構造問題が消されてしまう。それこそがまさにお役人(あるいは支配層)の狙い目なのだろう。
なお、私が自分のブログの永続的な主テーマとしているのが、「世界から貧困と戦争を廃絶する方法」を見つけることである。世界全体を問題にしているわけだwww 誇大妄想狂である。


(以下引用)赤字部分は徽宗による強調


 貧困を削減・根絶する方策は、政治によって再分配を強化するか、経済成長によってパイを大きくするか、どちらかである。そこには論争があるが、大きくはこの2つで、現実にはこの2つのハンドルを両方使って貧困との戦争に取り組んでいる。



教育は貧困対策としてどんな位置を占めるのか

 この大きな貧困対策の方策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない。「よい教育、レベルの高い教育を受けることで、就業や所得拡大の機会を増やし、貧困から脱出する」というイメージである。


 このイメージは、貧困そのものを減らしたり、削ったりすることと別のスローガンを生み出す。すなわち「貧困連鎖を断つ」という言い方だ。貧困に陥った親のもとで、十分な教育資源が得られず、その子どももまた貧困に陥る。教育を受けて、高校や大学に行くことでお金がたくさん得られる仕事についてその連鎖から抜け出す――こういうものだ。


 このイメージ自体が問題をはらんでいないわけではないが、とりあえず受け入れられるものである。しかし、今述べたように、このイメージの中には貧困そのものを削減・根絶する必要は、ロジックとして入り込んでこない。


 下手をすると、貧困そのものの削減・根絶を後まわしにしてしまう危険性をもともと潜ませているのである。




 政府の「子ども貧困」対策は、この危うさの臭いが強烈に漂っている。貧困の削減目標は設けずに、教育支援のメニューを厚くしている。いや、政府に言わせれば「子ども貧困対策方にある通り、経済支援含めて4つの柱(教育支援、生活支援、就労支援、経済支援)で総合的にやってますよ」というかもしれないが、そもそも生活保護基準を空前の規模で切り下げたのは、政府自身である。


 その意向を受けた自治体貧困対策も、こうした偏りが強い。


 例えば、福岡市生活保護基準の引き下げに連動して就学援助基準を引き下げた全国でも珍しい自治体であるが、新年度予算は「子ども貧困対策」を大々的に打ち出して、子ども食堂をやっているNPOへの支援だとか、生活保護世帯への「学習支援」(無料塾)などを売りにしている。さらに言えば福岡市は60年間続けてきた生活保護世帯への下水道料減免制度も今年度からなくしてしまった。いわば、貧困世帯に足払いを食らわせておいて、「貧困対策」を売り物にしているのである。



主戦場と局地戦を取り違えないこと

 貧困問題は、主要な戦線と局地戦の関係を誤ってとらえると、反動的なものになってしまうことがある。それは貧困問題自体が、きわめて論争的だからである。つまり自己責任論と社会責任論とがせめぎ合う場であり、決着がつくことのないまま、きわどい政治的バランスの上に成り立っているのが、現実に合意された「貧困対策」なのだ。


 だから、無料塾や教育・学習支援それ自体は正しいものであっても、それが主戦場のように扱われてしまい、さらに本当の主戦場である貧困との戦争が消えてしまったら、反動的になってしまうことさえある。




 北海道大学教授の松本伊智朗は、「子ども貧困」というけども、「子ども貧困」という特別な、新しいものがあるわけではなく、大人や家庭全体の貧困と一体のものとして「子ども貧困」があるのだと指摘する。「親の貧困自己責任かもしれないが、子どもには罪はない」という保守的・反動的感情とのせめぎ合いの中で「子ども貧困」という認識・言葉を使った社会合意が結ばれたのである。


 したがって、貧困そのものの対策に向かわずに、「子ども」という部分に過剰に注目していくと、「教育支援による貧困脱出(貧困連鎖の切断)」というスローガンや政策に傾きがちなのである。




ここまで進んだ!  格差と貧困 松本はこう述べている。


注意しなければならないのは、貧困世代的再生産、あるいは貧困連鎖を問題にすることには、むしろ「親がだらしがない」「親の育て方が悪い」と「家族そのものに原因がある」という個人主義的な家族主義的な貧困の理解に陥りやすい危険があることです。英米の研究史を見ても、貧困世代的な連鎖貧困世代的な循環を問題にする立論はむしろ保守層から出てきています。(松本「子ども貧困を考えるうえで大切なこと」/「前衛2015年10月号p.215、以後「松本2015」と表記)


※松本2015は、雑誌「前衛」が初出であるが、『ここまで進んだ! 格差と貧困』という本の中にも収められている。


子ども貧困〕対策法は、「貧困連鎖を断つ」ことは強調されても、「貧困をなくす」とは言いません。貧困とは、個人・家庭が社会生活を営むために必要な資源(お金や制度、支えあう関係)の不足・欠如で、この不足・欠如が生きていくうえでの不利や困難を生み、結果として貧困という状況がより深刻になります。ところが、そもそも、いまある貧困を緩和することが法律の正面には出てこないのです。(松本2015p.215)




問題が矮小化されるので、とられる〔政府の〕対策も「学習支援」が中心になります。個々の子どもの勉強が支えられることで、教育的不利が緩和されるようなとりくみがあることの重要性を、私はまったく否定するつもりはありませんし、むしろ大事だと思っています。しかし、それは同時に、個人の頑張りに期待することになり、「勉強ができないのは子どもが悪い」という子どもの責任論に転化する危険性があることもおさえておく必要があります。/そして、求められているのは、学習支援だけではないといい続ける必要があると思います。貧困は、経済的不利・経済的資源のなさが大きな問題であり、所得保障の観点がない貧困対策は貧困対策なのかという問題なのです。そうした対策は国際的にみれば通用しません。子ども貧困対策法ができて、勉強を教えますといっても、それだけでは子どもの学習促進法になるわけです。(松本2015p.216)





 つまり、学習支援の過度な強調は「教えてもらっても脱出できないお前が悪い」という責め道具になり、「貧困連鎖を断つ」という言い方は「親が悪い」という攻撃にあっさりと変わってしまう危険があるということだ。




貧困連鎖」を問題にするときには、つねに広く社会の仕組みのなかにおいておく、問題を狭いことにしないことが必要なのです。/たしかに実践というのは、狭いところでまず勝負します。実践的な課題を考えるとには、世の中の不平等だけを語っていても実践はできません。しかし、だからこそ、実践的な課題を考えるときには、問題の理解を矮小化しないことを強く意識しないといけないと思います。そうみたときに、〔子ども貧困〕対策法には、むしろそういう危惧を感じざるをえないコンテクストがあります。(松本2015p.215-216)


 「広く社会の仕組みなかに」という意味は、ぼく流に言えば貧困を構造的に生み出す資本主義経済という「仕組み」であり、あるいは、ブルジョア国家にあってもそれを緩和するはずの再分配装置のお粗末さなのであるが、そこへのたたかいを主戦場として、小さな実践を考えないと、小さな実践を具体的に考えていくうちに、遠近感を失い、あたかも小さな実践を具体的に考えること(のみ)が「現実的」であるかのように錯覚して、大きな「仕組み」を免罪したり、隠したりしてしまう罠に陥る。

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