忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「週刊腹切り」から「週刊シャルル(・ドゴール)」へ
「イランラジオ」から転載。
シャルリー・エブド事件自体は日本マスコミやネット論壇にとってはオワコンかもしれないが、欧米世界における「イスラム」敵視政策はまだまだ長く続くだろう。そこで、下の記事によってこの事件の全体像を総括しておくのも意義があるかと思う。
「シャルリー・エブド」の「シャルリー」が「シャルル・ドゴール」を嘲笑する意図だったのは、この記事で初めて知った。その前が「週刊アラキリ」つまり「週刊腹切り」だったことは知っていた。(たしか、フランス語は単語語頭のH音は読まない習慣だったと思う。)これは日本という「野蛮国」の野蛮な風習を嘲笑するとともに、自分たちは「腹切り」をするくらい「狂った」(勇気ある)弁論者だという捻じれた自讃でもあるのではないか。
なぜ政敵の名を新聞名につけるのかと言えば、それは仮に今の日本で「週刊安部ちゃん」を出すとしたら右翼ではなく、左翼だろう、というのと同様だ。共産党が政権党ならば、右翼が「週刊誌ィ!」を出して、志位を嘲笑するわけである。
シャルル・ドゴールについてはよく知らないが、「ジャッカルの日」では彼に対する暗殺計画が描かれたことだけは知っている。一部の政治勢力にとってにとって目障りな政治家だったのだろうか。ウィキペディアの「ジャッカルの日」解説が、参考になりそうなのでこれも転載しておく。要するに、フランス植民地の独立に肯定的だったドゴールを批判する国粋主義の新聞だったのだろう。まあ、ネット右翼の出すネット新聞のようなものかと思う。それが今や言論の自由の旗手扱いである。(嗤)


(参考)


1954年に始まったアルジェリア戦争は泥沼状態に陥った。「フランスのアルジェリア」を信じて戦う現地駐留軍やフランス人入植者の末裔(コロン、またはピエ・ノワール)らは、フランスの栄光を願う右派世論を味方に付けてアルジェリア民族解放戦線(FLN)やアルジェリア人の村落を殲滅するが、当時のフランス本国は第二次世界大戦の傷も癒えぬまま第一次インドシナ戦争にも敗退した惨状にあり、また相次ぐFLNの爆弾テロや残虐になる一方の戦争で厭戦世論も広がり世論は分裂した。1958年、本国政府の弱腰に業を煮やした現地駐留軍の決起によって第四共和政は崩壊、フランスの栄光を体現するシャルル・ド・ゴールが大統領に就任したことにより第五共和政が開始された。アルジェリアの軍人やコロンたちは、ドゴールが「フランス固有の国土」のための戦争に一層力を入れてくれると期待したが、ドゴールは戦費拡大による破綻寸前の財政などを鑑み9月にアルジェリアの民族自決の支持を発表した。1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、1962年に戦争は終結してしまった。


現地軍人やコロンらは大混乱のうちにフランスに引き揚げた。彼らは戦争中にOASを結成してアルジェリアでテロ活動を続けており、フランスでも政府転覆を狙ってド・ゴールへのテロ活動を行ったが、ジャン=マリー・バスティアン=ティリーフランス語版など現役のエリート軍人らによる暗殺計画はことごとく失敗し、組織の優秀な軍人達は逮捕され銃殺刑に処された。彼らは自分たちを愛国者であると信じ、処刑の場で兵士が自分に銃を向けることはないと自信たっぷりの態度を示したが、実際には兵士たちは迷わず命令に従って処刑してしまい、その思惑は外れた。組織にはフランス官憲のスパイが浸透した上、コルシカマフィアユニオン・コルスフランス語版)まで投入した捜査の結果、秘密だった筈のメンバーや活動もほとんど判明してしまい、表の政治組織も官憲の実行部隊により容赦なく壊滅させられるに至って、支援者だった企業オーナーらも離れていった。


以後、OASの主要メンバーたちは国外逃亡して雌伏と屈辱の日々を送るが、1968年五月革命の際に、軍部がド・ゴールに協力する代償として彼らへの恩赦を取り付けた。


ここまでは史実であり、舞台背景を説明する冒頭部分に当たる。




(以下「イランラジオ」より転載)




2015/01/26(月曜) 17:47          

西側の新たなイスラム排斥


ヨーロッパでは、イスラム排斥の新たな時代が始まっています。パリで起きたイスラム教徒を名乗る武装集団のテロ行為は、イスラム教とイスラム教徒によるものとされました。彼らは、つい先日までフランスやEUの政策のために、シリアやイラクで戦争を行っていたテロリストです。また、パリの事件も2001年のアメリカ同時多発テロのように、パリ西側の自由の基盤に対する攻撃とみなされています。このような解釈により、西側ではイスラム恐怖症やイスラム排斥が拡大し、新たな側面を見せるようになりました。



パリのテロ事件は、西側におけるイスラム排斥者が多くの政府関係者とともに、イスラムやイスラム教徒に対して大規模な攻撃を行う原因となりました。テロの被害にあった週刊紙シャルリエブドは世界の人々の同情に乗じて、預言者ムハンマドに対する新たな侮辱を始めました。この新聞社は、預言者ムハンマドに対する侮辱的な風刺画を数ヶ国語で掲載し、数百万部を発行しました。一方、このテロ事件以前には、この週刊紙の発行部数は6万部にも達していませんでした。しかし、この週刊紙は、事件後、反イスラムの雰囲気を利用して、発行部数を増やし、ヨーロッパでイスラム排斥のムードを盛り上げる機会を最大限に活用しています。
フランスや西側の政府関係者の多くは、シャルリエブドの行動を支持しました。一方、数年前シャルリエブドが預言者ムハンマドを侮辱する風刺画を掲載した際は、西側の政府関係者の一部がこの侮辱行為に対して慎重に反応を示し、またほか一部は公然とこの行為を批判し、それを表現の自由ではなく、むしろ表現の自由に反しているとしました。しかし、今回は西側政府は明らかに表現の自由の名のもとに、イスラムの神聖に対する冒涜を支持しています。
イギリスのキャメロン首相は、アメリカのCBSチャンネルのインタビューで、次のように語りました。
「私は、自由社会では、ほかの宗教の信徒に対して、侮辱的に対応する権利があると考えている」
フランスのオランド大統領も、シャルリエブドの侮辱行為に抗議する各国のイスラム教徒のデモに反応し、次のように語りました。
「彼らは、フランスが表現の自由を遵守していることを理解していない」
西側の政府が人権、自由、民主主義といった多くの概念を異なった形で解釈しているように、西側における表現の自由も、法律関係の書物や西側の政治思想にあるのとは違った意味で解釈されています。
表現の自由の支持にまつわる西側諸国の政府の主張には、矛盾が非常に多く見られ、シャルリ・エブドによる今回の侮辱行為を擁護する彼らの主張は、皮肉に近いものです。シャルリ・エブドの経歴はまさに、表現の自由を擁護する上でのフランス政府の主張の矛盾を示すものです。
シャルリ・エブドは、1960年から1961年に発行された『アラキリ』に代わる週刊紙として発行されました。この週刊紙は国民の価値観を貶めたことから、フランス政府によって発禁処分とされた後、1966年に再び発行され、1970年にシャルル・ドゴール将軍の死後、彼を侮辱したことで、フランス内務省から発行停止処分とされました。しかし、1980年代、昔からいた社員がドゴール将軍に対する皮肉を暗に示した「シャルリ・エブド」という名前で再開しました。しかし発行部数が大変少なく、その内容の質が低いため人々の批判を受けていたことから、半ば発行休止状態となっていましたが、シャルリエブドで働いていた人々に新たなグループが加わり、1992年にシャルリエブドが発刊となりました。
興味深いのは、現在のシャルリエブドの社員でさえも、言論の自由や宗教の侮辱の自由という主張を信じていないことです。シャルリエブドは2009年、当時のサルコジ大統領の息子の風刺画を描いたとして、シネ氏を解雇しました。彼は最近のテロ攻撃の後、シャルリエブドについて次のように語っています。
「私はシャルリエブドではない。私は、以前は風刺画家としてシャルリエブドのために仕事をしていた。2009年、金のためにユダヤ教に改宗したサルコジ大統領の息子の風刺画を書き、解雇された。シャルリエブドは私に謝罪を求めたが、私は受け入れなかった。シャルリエブドはユダヤ教を侮辱したとして、私を解雇した」
ヨーロッパのシオニストロビーは、フランスで最大の影響力を持っています。このため、フランスではシオニストに対する批判は全てユダヤ排斥と解釈され、司法機関がすぐに批判者を訴追するほどです。フランスの多くの思想家は、ただホロコーストや、パレスチナ被占領地で行っている犯罪を隠すために行われている、この事件に関するシオニズム神話に関して疑問を呈するだけで、訴追されることになるのです。こうした哲学者でもっとも重要な人物には、ホロコーストを否認したロジェ・ガロディを挙げることができます。
学校などの公的な場所における、イスラム教徒の女性のベール着用禁止も、フランスにおける法的自由の侵害の一つです。フランスでは、イスラム教徒の女性は宗教信仰に基づいて自分の衣服を選ぶことができないのです。一方、シャルリエブドの侮辱は、表現の自由に基づいて正当化されています。
もっとも、パリのテロ事件以前にも、ヨーロッパで発生している事件は、イスラム排斥の激化の方向に進んでおり、これはヨーロッパでのこの陰謀における、新たな側面を物語っています。パリのテロ事件は、この方向性で評価することができます。たとえば、昨年10月からは、ドイツで「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」、通称ペギーダという組織が立ち上げられました。ペギーダはドイツ東部のザクセン州の州都ドレスデンで設立され、そのメンバーは毎週月曜、イスラムとイスラム教徒に反対するデモを行っています。
ドレスデンは、2009年に起きた悲惨な事件を思い起こさせる場所です。この事件は、ドイツ在住のエジプト人医師シェルビニ氏が2009年7月1日、裁判所に対して、近所に住むアレックス・W容疑者の人種差別的な侮辱行為を告訴し、法廷が開かれた際、W容疑者はシェルビニ氏を刃物で18回も刺して、殺害しました。このとき、シェルビニ氏は妊娠3ヶ月でした。彼女の夫はシェルビニ氏を助けようとしましたが、興味深いことに、警察は彼女の夫を守るのではなく、彼に対して発砲しました。
ペギーダは500人のメンバーとともにイスラム排斥行為を開始し、ここ最近行われた抗議デモで、その数は1万8千人に達しています。ドイツ政府の関係者はペギーダの抗議運動の継続に懸念を示し、イスラム排斥に反対するデモに参加することを表明しています。この運動の活動は、ドイツだけではありません。ペギーダの支持者はデンマークで、「コペンハーゲンで最初の抗議デモを行う」と表明しています。
過去においては、イスラムを排斥する人々はイスラム教を冒涜する出版物や映画、イスラム教施設の攻撃により、自分の存在を示そうとしていましたが、現在、彼らは街頭に出て、人種差別やイスラム排斥を行う理由を明らかな形で提示しています。しかし、ヨーロッパではそうした事件はあまり見られませんでした。西側の政府関係者が、シャルリエブドによるイスラムの神聖の冒涜を支持したことで、西側のイスラム排斥主義者はさらに大胆になり、さらに組織化された形でイスラム排斥という目的を追求するようになっています。
ISISやアルカイダのようなテロ組織の行為や、イスラムを名目とした彼らの行為は、実際のところ、ペギーダのようなイスラム排斥組織を強化しています。西側政府は、表面的にはイスラム排斥行為に反対していますが、実際にはこの排斥行為を合法化するとともに、西側の政策はイスラム排斥団体を強化するものです。もし、イスラム排斥者がこのような形で排斥行為を続けようとした場合、これはヨーロッパのイスラム教徒の生活を厳しいものにするだけでなく、ヨーロッパにおけるイスラム教徒人口の多さや、西側のイスラム諸国との関係に注目すると、ヨーロッパ諸国の安全や利益にも損害を及ぼすことになるのです。


拍手

PR

コメント

コメントを書く