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アッキード事件とCIA


「文春オンライン」から転載。
文春と聞いただけで、「あのCIAが指示を出している雑誌か」とつい思ってしまうのだが、下の記事を見ると安倍政権に対して批判的なスタンスで書かれているのが興味深い。まあ、批判と言ってもぬるいものだが、安倍政権と米国(トランプとCIAの関係も微妙なものだが)の関係はかなりぐらついているようだ。
飯山の爺さんの、「トランプとプーチン(と習近平もか。)が手を組んで世界的な世直しをしようとしているのだから、トランプに接近しようとしている安倍の足を引っ張るな」という発言など愚劣そのものだと私は思っているが、安倍問題と世界政治をリンクさせている視点だけは評価していいかもしれない。
つまり、森友学園(もうひとつ、それ以上の問題も出てきたが)問題は、日本の国内政治だけでなく、CIAなども(火元として)関係しているような気がする。
もちろん、CIAは世界的な「悪の組織」だが、だからと言って、安倍が正義、ということには絶対にならないわけである。毒をもって毒を制する意味では、今回の事件の背後にCIAがいても、それは結構な話だ。実質的「無法国家」である日本において、悪を倒すにはそれ以上の力をもった悪しかないだろう。
さらに言えば、CIAはトランプによってもうすぐその力を削減される可能性があるから、「最後の善行」として安倍追放をしてもらいたい、と私は願っている。小泉竹中安倍を自分の手で木に吊るすこともできない腰抜け国民には「月光仮面」「バットマン」的存在が必要なのだ。

なお、例によって引用記事とは無関係な前説になったが、私は「教育勅語」は「文学」として好きである。言葉のリズムがいい。しかし、その基本にある「皇国思想」は民主主義とはまったく相容れない内容であることは言うまでもない。吉田茂が言うように、「教育勅語」に代わる、「人間として、日本国民としての基本モラル」を示した何かがあれば、本を読まなくなった現代人を心の深いところで「悪の手前で立ち止まらせる」効果はあると思うが、それは洗脳であることは言うまでもない。まあ教育とは基本的に洗脳なのだが。




(以下引用)

「軍歌を歌う幼稚園」を二度と生まないため「教育基本法」に注目せよ

無対策が「教育勅語」をよみがえらせる

脊髄反射的な記号に

「軍歌を歌う幼稚園」のおかげで、「教育勅語」がひさしぶりに話題だ。


 戦後「教育勅語」は、保守派によって定期的に再評価されてきた。それは、憎むべきライバルとして「教育基本法」が存在したからである。


 保守派は「教育基本法」を排撃しようとして「教育勅語」を持ち出し、革新派は「教育勅語」を振り払おうとして「教育基本法」を擁護した。


 だが、こうした保革対立は、いつしか「教育勅語」と「教育基本法」を脊髄反射的な記号に変えてしまった。保守派なら「教育勅語」に賛成、革新派なら「教育基本法」に賛成、というように。


「軍歌を歌う幼稚園」の「教育勅語」暗唱などは、その果てに発生した珍現象のひとつであろう。


 とはいえ、「教育勅語」と「教育基本法」ははじめから対立関係にあったわけではない。その歴史をひもといてみよう。


幼稚園で教育勅語を学ぶ塚本幼稚園の園児たち ©共同通信社

教育基本法「押し付け」論は間違い

 「教育基本法」は、占領下の1947年3月に公布された。そのため、「日本国憲法」と同じく、GHQの「押し付け」ではないかとの批判がある。


 だが、実際はそうではない。


 そもそも戦後の教育改革は、なにからなにまでGHQの一方的な「押し付け」ではなかった。日本人は、むしろ積極的にGHQに働きかけ、その力を利用して、戦前から計画されていた教育改革を実行しようとした。


 いわゆる「押し付け」論は、当時の日本人のしたたかさ、たくましさを低く見積もりすぎている。


 戦後日本における教育の理想像を示した「教育基本法」にいたっては、完全に日本側の発意だった。


 発案者は、第一次吉田茂内閣の田中耕太郎文相である。あるいは、文部省参事の田中二郎東京帝大教授が立案し、これを田中文相が推進したともいわれるが、いずれにせよ、日本人が発案者なのは揺るがない。


田中耕太郎 ©文藝春秋

 法案の内容は、1946年後半に、首相の公的諮問機関である教育刷新委員会の第一特別委員会において中心的に審議された。GHQのチェックも入ったが、基本的に日本人の手で内容が作られ、検討された。しかも、当時は明治憲法下だったので、枢密院と帝国議会に提出されて、最終的な成立をみた。


 このように、「教育基本法」がGHQの「押し付け」でなかったことは明白である。


吉田茂の教育基本法批判

「教育基本法」は、公布された当初「教育勅語」とかならずしも対立関係になかった。


「教育勅語」が衆参両院で排除または失効確認されたのは、1948年6月のこと。1年余だが、「教育基本法」と「教育勅語」は並存していた。


 また、当時の文部省や教育刷新委員会には「教育勅語」の擁護者が多かった。なにを隠そう、当の田中文相でさえそうだったのである。


 では、いつから「教育基本法」と「教育勅語」は、対立関係になったのだろうか。


 変わり目として象徴的なのは、第三次吉田内閣のときだ。


 吉田首相は1949年5月、私的諮問機関として文教審議会を設置し、その席上で「教育基本法」を「民主主義国ならどこの国にも通じることを常識的にならべて法律にしたまでのことで、これだけでは不十分だ」と批判し、「教育勅語にかわる教育宣言のようなものをつくってはどうか」「歴史と伝統のある日本人全体に感銘を与えるような血の通った教育信条のようなものがほしい」と提案したのである(八木淳『文部大臣列伝』)。


 吉田の意を受け、同内閣の文相に就任した天野貞祐は、「教育勅語」を再評価し、べつのかたちで復活させたいと発言。1951年11月、その具体例として「国民実践要領」の大綱を発表した。


天野貞祐 ©文藝春秋

 「国民実践要領」は、「天野勅語」などと批判されて白紙撤回に追い込まれた。ただ、この過程で、保守派にとって基本的な対立構図ができあがった。


 すなわち、抽象的で無国籍な「教育基本法」と、具体的で日本固有の「教育勅語」(とその後継者)、これである。

防波堤として使われた教育基本法

 その一方で、革新派のあいだでは、はじめ「教育基本法」の評判はよくなかった。文部省や諮問機関が密室的に作った法律であり、美辞麗句を並べただけで具体性に乏しいと批判さえされた。


 ところが、1955年11月に自民党が発足し、中央集権的な教育制度の整備に取り組みはじめると、「教育基本法」はこれに対抗する有力な防波堤とみなされるようになった。「教育基本法」の意義は、あとから「発見」されたのである。


 その後、保守派は「教育基本法」改正をなんども試みた。すると、革新派はそのたびに同法の擁護にまわった。ここに「教育勅語」に対する賛否が重なり、「教育基本法」と「教育勅語」のライバル関係は完成したのである。

改正教育基本法の「使い方」

 長引くライバル関係は、いつしか両者を脊髄反射的な記号に変えた。2006年12月、第一次安倍晋三内閣のもとで「教育基本法」が改正されたが、国民の関心は概して低かった。


 革新派(現代風にいえばリベラル派)は、保守派による「改正教育基本法」に批判的だ。たしかに「我が国と郷土を愛する」などの文言は入った。ただ、それ一辺倒ではなく、他国の尊重なども加えられ、政治的中立の条項もそのまま残された。


教育基本法の改正に反対する集会。日比谷野外大音楽堂で開催された ©共同通信社

「改正教育基本法」は、「教育勅語」にくらべれば、多様性や国際社会への配慮を含み、はるかにまともな内容である。あの安倍政権のもとでこれで済んだのは、戦後民主主義の成果とも読み替えられる。


 そこで、従来の保革対立の構図をリセットし、「改正教育基本法」をうまく読み解き、利用していく。現実的な対応として、これが求められているのではないだろうか。


 かつて左翼系の教育を批判するために用いられた「教育の政治的中立」は、今日「軍歌を歌う幼稚園」の件で、皮肉にも、右翼系の教育を批判するために用いられている。「改正教育基本法」をこのように使うこともできるはずだ。


 われわれは、今回の事件を奇貨として、「教育基本法」の歴史や意義にあらためて関心をもたなければならない。そうしなければ、「教育勅語」は脊髄反射的な記号としてなんどでもよみがえるだろう。






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