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徽宗皇帝のブログ

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グローバリズムは受容すべきか拒否すべきか
野口悠紀雄(あまり私の好きな顔ではない)の「世界史を創ったビジネスモデル」という本を図書館から借りてきて最初のあたりを読んだのだが、この本の要点は

1:多様性の確保
2:フロンティアの拡大

を推奨することにあるようで、特に今の日本にはそれが必要という主張らしい。
分かりやすく言えば、グローバリズムを受け入れよ、という主張だが、前々から書いているように、私はグローバリズム否定論者である。しかし、グローバリズムの波はマルクス流(ヘーゲル流かもしれない)に言えば「歴史的必然」かもしれないし、グローバリズムの悪の面を何とか排除した形での受容も考察してみたいと思っているので、ここに「私の課題」としてその意図だけメモしたわけである。
なお、私の考えでは、グローバリズムを受け入れたら、国家の内実が大きく変化し、文化の混交と平準化が生じる。つまりそれまでの国民的文化特質と国民精神が滅び、外観は同じでも実質的に国家が消滅するわけだが、これ(国家の消滅)は実はマルキシズムの予見したところである。ただ、マルキシズムは「資本主義→社会主義」という段階を経て国家という存在が消滅すると見たのだが、現実は「資本主義→グローバリズム」という過程で国家の実質的消滅という事態が目前にあるわけである。EUは「国家消滅」の雛型だと言える。ブレグジットは、国家消滅への英国民の本能的な拒否反応だろう。

参考として別の本から引用する。赤字部分は徽宗による強調。

「ここで大事なことは、計画(徽宗注:ソ連の五ヵ年計画など)の主体を『国家』と規定することを『古典』(徽宗注:マルクスやエンゲルスの著作)は断固拒否したということである。それというのも、彼らの理論においては、革命後に国家は確実に死滅に向かうものと想定されていたからである。」(上島武『ソ連史概説』94P)
「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家的所有に転化する。だが、そうすることで、プロレタリアートはプロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、そうすることであらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、そうすることでまた国家としての国家をも揚棄する」(同書中の、エンゲルス『反デューリング論』からの引用)

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