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徽宗皇帝のブログ

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デイベート型人間の卑小さ・卑劣さについて
管総理、枝野幹事長の人間性を批判した平野貞夫の論説に対するコメントより。(「阿修羅」記事)
ディベートに熟達することが逆に人間性を劣化させるという実例が菅・枝野の両人だろう。下記の引用の「ディベートの問題点」は、なかなか秀逸な文章である。ついでながら、西欧人種、あるいはアングロサクソン民族はまさしくディベート型人間の典型であると私は思っている。



(以下引用)



平野さんの分析は核心を突いているのではないか。
この2人の人間的なスケールの小ささを印象づけた形だが、
恐らくディベートとディスカスの使い分けが出来ないのでしょう。
参考までに<ディベートの問題点>

【倫理的問題点】
(1)
 議論の目的が命題の検証ではなく,議論に勝つことである。たとえ,自分の意見が間違っていて相手が正しいと思えた場合でも,相手からの指摘が的をいていたとしても,それに納得して 自分の意見や立場を変えることが認めらない。
(2)
 討論の基本である自己修正の態度をすべて退けられる。
(3)
 自分の間違いが発覚しても平気で嘘を突き通すことを強要される。
(4)
 どんなに相手の意見が核心を突いていても反論し続けなければならないので,論点をそらしたり揚げ足取りの話術に終始しがちになる 。
【教育的問題点】
(5)
 肯定側と否定側が,互いの価値観の折り合いをつけられる部分を模索する余地がない。双方が歩み寄れる譲歩点を見出だすような行動様式が身につかない。
(6)
 とにかく自分の意見が,相手の意見より正しい(強い)と認めさせるために,非難,攻撃をいとわない行動様式を身につけてしまう。
(7)
 自分たちに不利な情報は矮小化し,有利な情報は誇張して宣伝するような行動様式を身につけてしまう。
(8)
 物事には肯定か否定かのどちらかの立場しかないかのような考え方を身につけてしまう。
(9)
 どんなテーマでも,弁舌のうまさ一つで肯定することも否定することも自由にできてしまうかのような考え方を身につけてしまう。
(10)
 本人の意志を尊重せずに肯定側や否定側を強制的に演じさせることは人格の軽視であり,あれかこれかを選ばせる「思想の商品化」につながるという指摘もあります。憲法の否定する「苦役」だという人もいます。どうして自分の主張でないことを言わなければいけないのでしょう。

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