忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

ユダヤ的侵略の遠大さ
「大摩邇」所載の井口博士の記事で言及されていた博士の旧記事だが、非常に面白いので、前にも載せたかもしれないが転載する。まあ、長いので、後半は飛ばし読みしたが、一応、全文載せてみる。

(以下引用)

みなさん、こんにちは。

さて、一週間ほど前に「自然農法」の福岡正信さんの晩年の講演会の話をメモしていたと思う。これである。
昭和→平成→令和:日本株式会社→在日本株式会社→多国籍日本株式会社だった!?

福岡正信「50年前にユダヤ人から聞いた話」:いかにして日本人を殺すかの戦略!

50年前にユダヤ人から聞いた話 福岡正信


そこでは、大前研一は米メーソンの手先で、偽ユダヤ人の世界戦略の片棒を担いだ日本人である。あるいは、日本人そっくりの日本人ではない人だったという話をメモした。そして我が国はまんまとそれにはめられたと。

さて、この動画を最初に見つけてからもう何年経っただろうか?2年ほどかな。
福岡正信・自然農法( 5 )

それ以来、このときに福岡正信さんに「日本経済つぶしの戦略」を教えたというユダヤ人がいったいだれかを調べてきたのだが、まだ分からない。

同様に、この話は福岡正信さんの著書のどれに記録され、講演時にどの本を読んでいたのか?これをずっと探していたんですナ。

昨日ついにその本を見つけたのである。それで幸いにも阿南図書館に存在したので、それを借りてきた。次の本だった。
自然に還る 単行本 – 2004/9/1
福岡正信「50年前にユダヤ人から聞いた話」:日本のものは何でも潰すアジェンダのことだった1?_a0348309_1084728.jpg
(初版は1984年)

この本の447ページに問題の箇所があった。「日本経済は崩壊するか」という節である。

もしこの初版の1984年のときに今から十数年前というと、1969年ごろにユダヤ人と会ったということになる。

その頃には、米ユダヤ人は我が国の経済つぶしの長期戦略を立て、すでに着手していたということになる。

ところで、その部分は意外に短かったので(むろん、すべての計略を書いていたわけではなかったので)、ここに引用しておこう。
(4)私は十数年前アメリカで、ユダヤ系の哲学者であり企業家でもある人から、日本経済を崩壊させるためのの戦略を聞かされました。もちろん話は私の思想に共鳴する友人としての善意からです。

戦略の第一歩は、国有鉄道の解体、通信機関の民営化で、これを民主主義の名ですすめる。第二歩は、情報網の掌握のためテレビ、新聞への接近介入、政治圧力で株式の公開ができたら布石は終わる。後は知的所有権の主張、株の暴落をまち株式会社の乗っとりが始まるだけで、そのための弁護士が多数日本におしかけるようになれば、日本の経済も終わりと思えば良いと笑いました。

また、一つの産業を滅ぼす戦術の例として、日本の酒亡ぼしを話してくれました。その席で出されたコップには白い酒が入っていました。

「これは貴方が創った日本酒(ハッピーヒル)の米から創った自然酒ですよ」。酒の飲めない私にも、それは明らかに日本のどぶろくで、コップを手にするとニチャニチャしていて、甘く口当たりのよい酒でした。

彼は、大物を助けて、小物をまず倒す戦術だという。すなわち日本の地酒を滅ぼすために、一、ニの大酒造会社と手を結び、彼らに、アメリカのコーンからとった酒精(アルコール)を日本酒に混ぜることを教える。50%くらいまぜるまで、日本人は味の低下に気づかないはずだ。その数年の間に多量生産の安い酒で、日本の酒造会社は大儲けする。その儲けた金を米国に持ち帰るようなことはしない。その金は全部テレビの宣伝費に使って、地酒亡ぼしに協力する。地酒が滅び、日本米の酒がアルコール酒に変わり、味が下がれば、日本人の日本酒離れが始まるだろう。その時リキュール酒や洋酒を売りつける(確かに一時洋酒がはやり、日本酒より焼酎がもてた時がありました)。しかし最後には、一番うまいのはやはり日本酒だと気づくだろう。その時のため、今このカリフォルニアでの自然の日本酒を造っているのがこれだという。大柄で笑顔をたやさない彼の話の中で、アメリカ人の深慮遠慮としたたかさをみた思いがしました。

帰国後、一、二年した時、そのときはまだ日本政府の主税局の許可が出ないといっていたカリフォルニア産の自然酒が日本に進出し、銀座の高級料理店の自然酒はみな米国産だと聞かされました。

しかし実際は、日本の地酒もしたたかで、グルメブームにのり、なんとか危機を脱したようにみえます。だが問題は、彼らの最終目的である大酒造会社との合併、乗っ取りです。本当に大丈夫でしょうか。安心できないうわさもちらほら聞きます。

どうだろうか?

日ユ同祖論?ありえね〜〜ヨ!連中にとって日本人は東朝鮮人に過ぎないんですナ。

日本は米国の仮想敵国でしかなかった。

ところで、上述のように大柄で笑顔を絶やさない偽ユダヤ人企業家とはだれか?

これについては調査中だが、いまのところ分からない。もし分かればまたいつかメモすることもあるだろう。


さて、上の戦略をまとめるとこんな感じである。

第一歩:国鉄の解体民営化。通信機関の民営化。
大義名分として「民主主義」の名で進める。
第ニ歩:テレビ・新聞への接近介入。政治圧力で株式公開。
第三歩:知的所有権(特許権、ロイヤリティー)の主張。
株暴落をまって会社乗っ取り完了。
第四歩:弁護士制度開放。


どうでしょうか?この偽ユダヤ人の「日本経済崩壊プラン」はヨ?まさに大前研一が「良いね」といって無数の著書で得意げに主張したことだったのでは?マッキンゼーもその推進会社の1つにすぎないわけですナ。

いままさに日本の最後の砦の自動車産業つぶしがこれでやられている真っ最中なのだヨ。自動車も潰されたら我が国は最貧国に転落するだろう。

一応、我が国の「民営化」がどうなったかを参考のためにメモしておこうか。おそらく、上の偽ユダヤ人の計略どおりに進んだことが一目瞭然だろう。これである。

日本の民営化の一覧
GHQと集中排除(1945-1952)
「連合国軍最高司令官総司令部」および「過度経済力集中排除法」も参照

営団など
学習院→廃止、私立学校へ(1947年)
国際電気通信株式会社 → 電気興業株式会社 (1948年)
日本発送電株式会社 → 電力9社(1951年)
帝国燃料興業株式会社 → 清算 (1949年)
帝国石油株式会社 → 根拠法廃止(1950年) → 国際石油開発帝石株式会社
日本通運株式会社 → 根拠法廃止(1950年)
帝国鉱業開発株式会社 → 新鉱業開発株式会社
第一軍需工廠[4] → 富士産業株式会社(1945年8月16日)→ 12社に解体(現SUBARU他)
第二軍需工廠[5] → 明和興業 → 明和自動車工業と新明和興業(現新明和工業)に分割

接収された国策会社

南満州鉄道 → 中国・ソ連に接収
満州拓殖公社
満洲電信電話株式会社
東洋拓殖株式會社
台湾拓殖株式会社 → 中国国民党に接収
朝鮮鉄道株式会社

GHQ命令にて閉鎖

樺太開発株式会社
北支那開発株式会社
南洋拓殖株式会社
南洋興発株式会社
中支那振興株式会社

戦後

財団法人日本交通公社 → 株式会社日本交通公社(現・株式会社JTB)に分離(1963年)
日本合成ゴム株式会社 → 根拠法廃止(1969年) → JSR株式会社

中曽根内閣(1982-1987)

日本電信電話公社 → NTTグループ (1985年)
日本専売公社 → 日本たばこ産業株式会社 愛称「JT」(1985年) → 塩事業を塩事業センターに分離
日本硫安輸出株式会社 → 根拠法廃止(1984年)
日本自動車ターミナル株式会社 → 根拠法廃止(1985年)
東北開発株式会社 → 根拠法廃止(1986年) → 三菱マテリアル株式会社に合併
日本国有鉄道(国鉄)→ JRグループと日本国有鉄道清算事業団 (1987年)
日本航空 → 根拠法廃止(1987年)、完全政府放出 → 日本航空インターナショナル → 日本航空
日本航空機製造株式会社 → 解散(1983年)、根拠法廃止(1988年)
沖縄電力株式会社 → 根拠法廃止(1988年)

橋本内閣 (1996-1998)
「橋本内閣」も参照

国際電信電話株式会社(KDD)→ 根拠法廃止(1998年) → KDDI株式会社

小泉内閣(2001-2006)
「聖域なき構造改革」も参照

商法会社化

日本郵政公社 → 日本郵政グループ (郵政民営化関連法、2005年)
道路関係四公団[6] → 高速道路株式会社(高速道路株式会社法、2004年)
電源開発株式会社[7] - 電源開発促進法の廃止(電発法、2003年)
帝都高速度交通営団 → 東京地下鉄株式会社愛称「東京メトロ」(2004年)
新東京国際空港公団 → 成田国際空港株式会社(2004年)
日本アルコール産業 → 新エネルギー総合開発機構(NEDO)アルコール事業本部(1982年) → 日本アルコール産業(2006年[8])

完全民営化

電源開発株式会社 - 2004年10月に完全民営化。
東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本) - 2002年に完全民営化。
西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本) - 2004年に完全民営化。
東海旅客鉄道株式会社(JR東海) - 2006年に完全民営化。
株式会社日本興業銀行 - 2002年にみずほフィナンシャルグループに合併。

第3次安倍内閣(2016)

「第3次安倍内閣_(第2次改造)」も参照

完全民営化

九州旅客鉄道株式会社(JR九州) - 2016年に完全民営化。2016年10月25日の東京証券取引所への上場により、鉄道建設・運輸施設整備支援機構の保有株式がすべて売却された。



さて、お次は同様に米人偽ユダヤ人企業家の「日本酒亡ぼしの術」をまとめるとこんな感じだろう。

別名「大物を助けて小物を潰すの術作戦」=大酒造を助けて地酒を滅ぼす作戦

(1)米トウモロコシ(モンサント)からとった合成アルコールを日本酒に混ぜさせる。
(2)徐々に混合率を上げ、50%まで混ぜる。
(3)大企業儲かり、小企業の地酒が潰れる。
(4)大企業のその利益を宣伝費(電通)に使う。地酒を亡ぼしにかかる。
(5)日本酒がアルコール酒になると味がおち、日本酒離れを起こす。
(6)同時に海外のリキュールと洋酒ブームを起こす。
(7)最終的に日本人は洋酒に飽き、日本酒が一番となる。
(8)このチャンスに加州産の日本酒を盛大に売り込む。
(9)その時のために加州で最高品質の日本米から最高品質の日本酒を造っている。
(10)本当の目的は日本の酒造会社を乗っ取ること。


さあ。どうでしょうか?

偽ユダヤ人企業家の「日本酒潰し戦略」は?

まさにこのまんまだったのでは?

その証拠にこれまた日本酒の歴史をメモしておこう。以下のものである。
日本酒の歴史
高度経済成長期
三増酒の流通とその背景

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年1月)

1956年(昭和31年)「もはや戦後ではない」と言われるようになり、メチルやカストリといった危険な密造酒は大幅に減じ、甲類焼酎さえも1956年(昭和31年)を境に消費減少へ転じた。しかし、日本酒に、戦前と同じような消費環境が戻ってきたわけではなかった。日本酒の消費は伸び続けていたが、戦後の一時的救済策として開発された三増酒が、その消費の主流として定着していた。

昭和一桁世代は、旧来の日本酒との接点を持たずに大人になり、増産酒以前の日本酒に味覚的郷愁を持っていなかったため闇酒、粗悪な焼酎、ビール、ウィスキーから飲み始め、日本酒といえば三増酒のことで「頭が痛くなる」「気持ち悪くなる」ものであった。

焼け跡世代は、下級ウィスキー(その時々の級別制度によって「三級ウィスキー」から「二級ウィスキー」になっていった)から飲み始めた。大量のアルコール添加をしている点では、三増酒と同じであったが、調味料が入っていないこと、日本産でも西洋のイメージがあること、アルコール度が高いものを炭酸水で水割りにして飲むことなどから、三増酒に向けられるような泥臭い印象は持たれなかった。下級ウィスキーは1968年(昭和43年)ごろまで庶民によって旺盛に消費されていく。

食糧管理制度の形骸化

三増酒であっても経済成長期で「造れば造るだけ売れた」時代であったので疑念や危機感を持つ酒蔵がまだ少なかった。良質な酒を生産しようと志しても、いまだ1942年(昭和17年)に制定された食糧管理法の下に、日本国民には米穀配給通帳が発行され、酒造米も配給制となっていたために、満足のゆく原料の調達が困難であった。しかも、配給量は日中戦争開始以前、まだ小作農が農業人口の大半を占めていた昭和11酒造年度(1936年(昭和11年) - 1937年(昭和12年))の米の生産高に基づいて算出されていたため、戦後の農地改革を経て農業も機械化され富裕になった1960年代の日本の実態に即していなかった。

原料である酒造米の配給高が蔵ごとに決められ、製成酒の生産高も戦前のそれに準じて規定されていた。それで「造れば造るほど売れる」「造りに手を抜いてもアルコール添加で最終調整すれば出荷できる」「よい酒を造っても消費者に見向きもされず、しょせん販売価格は同じになる」のであれば、生産者も企業努力をしなくなった結果、三増酒による量産主義となり、そうでない酒は市場から姿を消した。

算定基準である昭和11酒造年度には、まだ大メーカーと地方の零細蔵の生産量の格差は小さかったため、割り当てられる酒米の量の差も小さかった。ところが生産の主流が三増酒という「工業製品」になるとこの格差は広がり、投資のしやすい大メーカーが急速に成長し、製成高も急増した。一方、旧来然とした素朴な設備しか持たない零細蔵は、自分たちの販売能力を上回る酒造米を割り当てられていたため、零細蔵が製成した酒をタンクごと大メーカーが買い取るようになった。

これを売り手(零細蔵)から見て桶売り、買い手(大メーカー)から見て桶買いという。桶売り・桶買いの実像は「大手酒造企業の下請け」であり、経済学的には日本酒のOEMととらえられている。酒は、瓶に詰めて出荷された時点で「酒税の課税対象」になるので、その前段階、すなわち桶売り・桶買いの時点では、取引に関わる納税の義務が生じない。そのため未納税取引ともいう。これは両者にとって経営上、重要な節税のテクニックでもあった。大メーカーは、桶買いによって集めたあちこちの蔵からの酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めたりして販路に乗せた。

このような流通システムでは、それぞれの酒蔵に特有の味が消費者に届かなくなる。酒蔵としても酒造家という、一種の工芸品の作者としての造り甲斐がなく、企業努力をしなくなる。加えて、買い手である大メーカーの言うままに酒を造っていればよかったので、蔵の本来の持ち味はどんどん失われていった。酒米の配給制は昭和43年度米まで続いた。

国民の食生活の変化

余裕ができファッションに関心が向き始めた日本人に対して、「お米は太る。パンでスタイルを良くしましょう」といった、科学的根拠に乏しい宣伝も盛んになされた。経済企画庁の発表する生活革新指数も、国民生活の「革新」の度合いを測るのに「穀物消費中のパン支出割合」が一つとして採用され、日本人はしだいに主食を米からパンへと乗り換え、食生活が和風から洋風になっていった。肉、食用油、乳製品の消費が急増し、料理と合わせる酒も、日本酒から洋酒へと変化していった。

1950年代後半は洋酒、とりわけ気軽に飲めるビールの伸長がめざましく、1957年(昭和32年)宝酒造がビール業界へ参入し、1959年(昭和34年)日本麦酒からサッポロ缶ビールが発売された。当時はまだスチール缶であったが手軽さが受け、ビールは瓶から缶で流通する時代に入っていき、やがて自動販売機で手軽に入手できるようになる。このことはのちに1980年代、日本酒のシェアが急速にビールに奪われていく素地となった。

1960年(昭和35年)10月1日、政府によって1939年(昭和14年)4月に定められた酒類の公定価格が撤廃され、酒の値段は市場原理に沿って決められるようになった。当時、酒類市場は飽和に達しつつあり、瓶や缶など手軽な容器の浸透と、潤沢な供給の実現によって「飲みたいときに飲みたいだけ飲める」世の中になっていた[34]。

1961年(昭和36年)、日本人の米の総消費量がついに減少へと転じた。実態に合わない食糧管理制度は、かつての米不足とは正反対の、深刻な米あまり現象を招き、その結果減反政策が実施された。これによって雄町、穀良都、亀の尾など優秀な酒米もしだいに栽培されなくなり、多くの品種が絶滅した。のちに消費低迷期を迎える日本酒業界は、すでに内実が空疎な状態になっていた。

1962年(昭和37年)、酒税法が大幅に改正され、それまで「雑酒」と呼ばれてきた中からウィスキー・スピリッツ・リキュールの名が初めて分類上の名称として清酒・焼酎・ビールと並べられることになった。いわば日本の酒文化のなかにこれら洋酒を認知する手続きであった。またこの改正によって、酒税は申告によって納税するよう改められた。明治時代に30%前後だった、酒税の歳入に占める割合はすでに12%前後にまで下がっており、もはや国家にとって酒税は主たる歳入源ではなくなっていたからである。さらに下って昭和54年以降は5%前後で推移していくことになる。

1964年(昭和39年)「ワンカップ大関」が登場し酒の消費形態が変化した。これは平成時代の「ワンカップ地酒ブーム」の起源でもある。

1965年(昭和40年)、佐藤和夫らにより宮城県『浦霞』から協会第12号酵母が分離された。

1968年(昭和43年)、酒造米の配給制度がようやく終わりを告げた。

1970年(昭和45年)、古米や古々米などの在庫が増加の一途をたどったため、政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした米の生産調整を開始した。これによって未納税取引は割高につくようになったため、やがて減少していく端緒となった。また、そのため多くの酒蔵が近代化促進計画の元で転廃業や集約製造への参加を余儀なくされた。

酒蔵の近代化とは、工業的にコスト削減をめざすということであった。その一環としてこのころ昭和40年代、「短期蒸し理論」という製法理論が編み出された。これは、酒米処理の蒸しの時間を、従来の約1時間よりも、米のデンプンがアルファ化する(糊状になる)までの20分程度に短縮するというものであった。燃料コストの削減から多くの酒蔵がこの理論を採用したが、これではデンプン以外の成分で、蒸すことによって変成するタンパク質などが処理されないため、製成酒は鈍重に仕上がってしまう。けれども、大量のアルコール添加をして三増酒にすることを前提としているので、鈍重さは問題とされなかった。蒸しの節減・省略はさらに進み、やがて別の工場で蒸し最初から糊状になっているアルファ化米や、白米にデンプン糖化酵素剤を加えて溶解させる液化仕込みが開発された。これら新技術の登場は、たしかにコスト削減には役立ったが、外硬内軟といった蒸し米の基本を踏んでいないために酒質はさらに低下せざるをえなかった。

貿易自由化

1971年(昭和46年)は日本人の洋食化を物語る象徴的な年となった。日本マクドナルド1号店が銀座にオープンし、稲の減反政策が本格化した。ビール業界では朝日麦酒から「飲んで、つぶして、ポイ」のアルミ缶が登場し、四社寡占(この年でキリン60.1%、サッポロ21.3%、アサヒ14.1%、サントリー4.5%)の体制が定着した。

同年1月に、いわゆる外圧に押し切られた形でウィスキーの貿易自由化が行なわれ、飲用に供するすべての酒は数量や取引金額の制限なく輸入できるようになった。これは日本の酒類業界に不快なダメージを与えた。なぜなら、明治の欧化政策以来、政府は数々の優遇措置をもって国民に洋酒を紹介し、国産洋酒の生産や消費を促してきたわけだが、その延長線上にやってきたのは結局「そろそろ舌になじんだころだろうから本場、外国産の洋酒をどんどん買ってくれ」というべき状況だったからである。

この貿易自由化を皮切りとして、やがて洋酒の輸出国は、日本の従価税のかけ方では、輸入酒に運賃や保険料の分まで税金がかかってしまうとして、アルコール度数に応じて課税するという、西洋諸国の税制に日本も変更するよう、さらなる要求をしてくることとなる。

1972年(昭和47年)ワインが急伸しはじめ、1975年(昭和50年)に甘味果実酒の出荷数量を越え、ワインブームと呼ばれる時期へと入っていく。ワインもまた、このころからバブル経済の時期にかけて、着実に日本酒のシェアを奪っていった。


とまあ、これにて一件落着。まったくめでたくないナア。

もはや我が国は偽ユダヤ人たちのあまたなる日本経済潰しの戦略のせいで、風前の灯火。

これがリアリティーであるというわけだ。

日ユ同祖論などありえない。妄想だよ。


いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
杉浦千畝、余計なことすんなヨ!
福岡正信「50年前にユダヤ人から聞いた話」:日本のものは何でも潰すアジェンダのことだった1?_a0348309_1132637.jpg
あきらかにこれは間違いだったナ!おかげで生き残った子孫が日本潰しのアジェンダを作り、2011の311まで起こしたんだからナ。

おまけ2:
これはやっちゃアカンことでしょ。
日本酒、米国で作る 需要拡大で進む地産地消
NYの軟水×アーカンソー産 山田錦
 2018/5/1 11:30

【ニューヨーク=中山修志】米国で地元のコメや水を使った日本酒づくりが広がっている。ニューヨークの新興企業が昨年ブルックリン地区に醸造所を開いた。年間8万本の販売を目指す。「獺祭」ブランドの旭酒造(山口県岩国市)も来夏にニューヨーク北部に酒蔵をつくる。米国では日本食の普及に伴い日本酒の需要が伸びており、「SAKE」の地産地消が進みつつある。

酒米は主にアーカンソー州で収穫した「山田錦」を使う(ニューヨーク)
福岡正信「50年前にユダヤ人から聞いた話」:日本のものは何でも潰すアジェンダのことだった1?_a0348309_11443536.jpg

ボレン社長
福岡正信「50年前にユダヤ人から聞いた話」:日本のものは何でも潰すアジェンダのことだった1?_a0348309_11462892.jpg
(典型的な偽ユダヤ人ですナ。)
まあ、ユダヤ人は他国に牛肉でもコーシャ肉という特別資格をもったところしか製作販売させないことで有名だが、他国のものは容赦なく盗み取る。このダブルスタンダードがユダヤとニダヤはそっくりだ。コリアーユダヤ同祖論ですナ。

拍手

PR

コメント

コメントを書く