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徽宗皇帝のブログ

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上級国民という「現代の貴族」
「混沌堂主人雑記」から転載。引用記事は「週刊現代」所載のマイケル・サンデルの記事のようだ。まあ、新自由主義の欺瞞性を暴く、非常に勇敢な記事で、一般国民の悲惨な状況の真の原因が新自由主義経済にあり、それは「見えない階級社会」だ、ということである。
政治学的には不正確な言い方だが、「封建社会=階級社会」という意味では、現代をネオ封建主義、あるいは封建主義2.0という言い方も間違いではないかもしれない。

(以下引用)
上記文抜粋
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主流派経済学には国家の概念もありませんし、安全保障もなく、民族、文化、習慣など、さらには
「お金」もありません。(お金は「物」としています)
あるのは「個人」のみです。
それも経済合理性のみを考えている、情報が共有された個人です。「経済人」と言ったりします。
その経済人が自由に経済活動すれば理想的な経済を実現できるとするのです。
しかしいくつか疑問があります。
第一に「そんな奴はいない」ということです。
これは誰でもそりゃそうだろと思うはずなので説明を省きますが、この経済人について私は「野生の動物」のことを指しているのではないかと思うのです。
このような経済合理性のみを追求する人間はそもそも「人間」ではありません。
理屈に合わないことも平気でできるのが人間です。
そこには愛だったり義理だったり、友情だったりと精神的なものが含まれるでしょう。
動物にこういった感情が無いとは言いませんが、人間と野生の動物とを比較すると野生の動物のほうが当てはまるのではないかと感じます。
大体、学問として経済学は一応成立しているのに、人間の定義をこのような「人間とは言い難い人間」を定義していることに、強烈な違和感と欺瞞があると考えるのは私だけではないはずです。
しかし、これは経済学では「個人の自由な市場競争」となるのです。
次の疑問ですが、「多くの前提を必要とすること」です。
自由貿易で成長するとはよく聞く言葉ですが、成長するためには、前提としての条件が整っている必要があります。
例えば、完全雇用が成立していることや資本移動の自由が設定されていること、輸送コストが0であることなどです。
輸送コストが0とは恐れ入ります。
それを現実に当てはめようとしているのですから、欺瞞も良いところです。
彼らの頭の中では「どこでもドア」が実用化されています。
また失業者についてですが、経済学では失業者を自発的失業者とします。
失業率がどれほど高くても自発的失業者とし、働けないのはその人に能力がないために、
「雇用のミスマッチ」があるのだとするのです。
こう言わなければ新古典派経済学という学問は成立しないのです。
だからこそ、働けなくて苦しんでいる人間が大量に存在していても「長期的には完全雇用は成立している」と悪魔のようなことを言うのです。
頭がまともな人間はこんなこと言えやしません。
ケインズが「長期的なんてことを言っていたら我々は死んでしまう」と言ったことは至極まっとうですし、ケインズも呆れていたことでしょう。
このように主流派経済学というのは、そもそも存在自体が怪しいとも言える学問なのです。
怪しいからこそ、「自由」という言葉をしきりに使い、学問や大学といった権威を背景に、知らない人を欺こうとするのです。
「耳障りの良い言葉」を多用する人間は、私の知る限り、「共産主義者」と「詐欺師」と「主流派の経済学者」です。
本当に詐欺師そっくりで目つきも蛇みたいでそっくりです。
よーく観てみてください。
目の奥が暗いのです。
黒いのでは暗いという感じです。
そう感じたら是非、バカにしましょう。
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抜粋終わり
上記文抜粋
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努力によって地位を獲得してきたと考える根本には、「能力主義」の思想があります。
「能力主義」は、チャンスが平等であれば、勝者はその対価を得られる、というものです。誰しもが同じスタートラインからレースを始められるのであれば、努力した人間が勝つ。だから、努力は報われるのだ―。これが能力主義の魅力です。
しかし、ここにはある欠点があります。たとえ同じスタートラインからレースを始めたとしても、一部の人だけが有利な環境で育っている可能性があるのです。
たとえば徒競走で考えてみましょう。ある選手が、健康で栄養状態もよく、高級なランニングシューズを持っていたり、最高のコーチやトレーナーから指導を受けたりする一方で、そうしたものを何一つ持っていない選手もいる。彼らの競争は真の意味で平等と言えるでしょうか。
そこでは、努力とは無関係の要素が、レースの勝敗を決めている可能性があるのです。
大学入試の場合は、親の所得や、家庭環境がそうです。しかし「能力主義」の世界では、そうしたアドバンテージは無視されて、結果だけが見られる。すると、平等なレースのように見えるが、実際のところはそうではない。先ほどのデータからわかるように、生まれによる格差はいまだに存在しているのです。
むしろ、「能力主義」によって格差が広がっている。格差の再生産により、現代に封建制の「世襲貴族」が復活しつつあると考えています。
たとえば、裕福な家庭では、幼少期から教育に投資をし、いい大学に入学させることができる。
しかし、貧困層は子どもへの教育投資を満足にできず、貧困のサイクルから抜け出せない。
現代社会において格差は固定され、むしろ広がり続けているのです。
こうして最初は「努力した者は報われる」という”平等”を約束していたはずの能力主義が、今では格差を正当化するものとして機能してしまっているのです。
この主張に対して、こんな反論があります。それは、「低収入の家庭に生まれても、頑張れば成功することは可能である」というものです。もちろんそれが当てはまる人もいます。しかし、それはほんの一握りの人だけの話です。
OECD(経済協力開発機構)のデータを見れば明らかです。これは、社会的地位の上昇に何世代かかるかを計測し、世界中の国を比較したものです。下位10%の家庭に生まれた人が中流階級に達するまでにかかった世代数を計測しています。
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抜粋終わり

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