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徽宗皇帝のブログ

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上野千鶴子の問題提起のこと
「世に倦む日々」から転載。
本筋から離れている、リベラル(というか、やくざリベラルのしばき隊)批判の部分はカットする。

非常に妥当性のある優れた議論だと思う。
私は上野千鶴子という人間は大嫌いなのだが、彼女が投じた一石は今の日本社会にとって大きな意味を持っていると思う。移民問題と格差問題は今の日本の最大の問題かもしれない。
一見排外主義的な「移民政策否定論」を、性差別などに先鋭的な反対を示してきた上野千鶴子が言ったことは大きい。しかも、それは冷静なリアリズムの立場からの論であり、どのような立場の人間であれ、聞く方も冷静に聞いて論じるべきだろう。
だが、例によって情緒的な批判の声が湧き起り、議論を最初から拒否しているようだ。
世に倦む氏の上野千鶴子擁護論は、最初に書いたとおり、冷静で論理的で優れたものだ。久しぶりに、氏の頭脳の明晰さが発揮されたようだ。最近は何だか「我こそ本物の知識人」みたいな上から目線が鬱陶しくて、記事を読む気にもならなかったが、久々の好い記事である。
ただし、上野千鶴子の第二の論点である「みんな平等に貧しくなろう」に関しては、頭から「幼稚な議論だ」と決めつけているが、私にはこれのどこが幼稚なのかさっぱり分からない。
日本経済が発展する策を世に倦む氏が持っているなら、それを示せばいい。それを示さず、ただ否定するだけでは、夜郎自大の偽インテリの、こけおどしの議論にしかならない。
上野千鶴子の「みんな平等に貧しくなろう」は明らかに議論を起こすための「戦略的発言」であり、主意は「平等に」の部分にあると読むのが、少しでも頭のある人間なら当然だろう。誰が好んで「貧しく」なりたいものか。そして、現代の日本の経済問題は、正社員と非正規社員との格差問題に端的に見られるとおり、「等しくない」部分が最大のポイントなのである。ならば、上野千鶴子のこの発言は幼稚どころか、見事な戦略的発言である。これを幼稚と見るほうがはるかに幼稚なのではないか。


(以下引用)私は言葉とがめが好きなので、揚げ足取りをするが、「朝日新聞がこの問題を紙面に取り上げないのは顰蹙だろう。」の「顰蹙だろう」は日本語としておかしい。「顰蹙ものだろう」とすべきだろう。


上野千鶴子の「移民政策は無理」論 - 不当な「排外主義」のレッテル貼り
c0315619_16484601.jpg先週、上野千鶴子が建国記念の日に中日新聞に寄せた談話をめぐって、ネットの中で大きな議論が巻き起こった。上野千鶴子の主張は、大きく整理すると、(1)移民政策は日本では不可能なのでやめた方がいい、(2)日本は衰退を受け入れるしかないから平等に貧しくなろう、の二つである。二つの主張について左翼から轟々たる非難が上がり、現在でもその余韻が残っている。中日新聞に載った上野千鶴子の議論は、アカデミーの大御所様の意見として、何やら杜撰で無責任な誹りを免れないものがあると私も思うが、政策論として見たとき、重要な問題提起を発していて、今後の日本の経済政策を考える上での思考材料を提供したことは間違いない。移民の大量受け入れに舵を切るべきかどうか、そろそろ政策判断を迫られているときだという点は私も同感だ。その意味では、世論を喚起する刺激的な一石をビッグネームが投じたと言えよう。残念なことに、ネットでは話題が集中して侃々諤々されながら、議論をフォローするマスコミ報道が一つもない。朝日新聞がこの問題を紙面に取り上げないのは顰蹙だろう。結論から言えば、私は、(1)については賛成であり、(2)については反対である。



c0315619_16491718.jpg日本で大量の移民を引き受けるのは無理で、移民政策に踏み出すべきではないという判断と立場には同意である。が、日本は人口減少で衰退しかないから、移民を受け入れない以上、平等に貧しくなるしかないとする展望と対策には同意しない。これはあまりにも能がない軽薄な主張で、高齢化と人口減少をイコール貧窮の宿命的条件と決めつけている点が幼稚すぎて呆れる。議論の前提そのものが、経団連(新自由主義)の土俵に乗ってしまっていて、経済学的に問題を分析する視角が完全に欠落している。左翼の側がこんな愚論を言っているから、アベノミクスが繁盛するのであり、右翼の安倍晋三に支持が傾くのであり、具体的には間違いだらけであっても、GDPを600兆円に上げると言い、政策の中身を揃えている素振りを見せる安倍晋三に国民は期待を寄せてしまうのだ。「諦めて貧しくなりましょう」では政策論にならず、オルタナティブにならない。この上野千鶴子の主張は、年末から年始にかけて、小熊英二と朝日編集部と長谷部恭男・杉田敦が垂れていた説教と基本的に同じだ。中間層の生活水準に戻ろうなどと甘い夢を抱くな、低所得の貧乏生活で我慢しろ、観念を切り替えて現実を肯定しろ、という宗教的訓導と同軌のものである。

c0315619_16493659.jpg上野千鶴子の(1)の主張について、移住連という名の外国人移民を支援する団体がクレームをつけ、上野千鶴子に公開質問状を出すという挙に出た。その抗議の内容は、今、せっかく政府(総務省)が多文化共生社会の取り組みを進め、外国人技能実習制度によって実質的な労働開国を進めているのに、上野千鶴子の発言はそれに水を差すもので反動的な暴論だとする批判である。そして、排外主義的な論理に取り込まれ、単一民族神話の言説を助長するようなナショナリズム的な発想だとして糾弾している。この移住連の批判に対して、上野千鶴子は2月16日に自身のブログで反論を上げ、中日新聞に載って注目を浴びた持論を補強する形で詳しく議論を展開している。その中で、それでは、経団連が推進する「移民1千万人時代」については移住連はどう思うのか、その推進に賛成するのか、それが本当にうまく行くのか、移民と日本人全体に福利をもたらす方向なのかと逆に問い返している。移住連の主張に対して「理想主義」という言葉を与えていて、すなわちリアリズムを欠いた空論だと反批判している。私は、この上野千鶴子の移民慎重論と同じ観点に立つ。欧州先進諸国で行き詰まった政策を、日本が今から後追いして同じ矛盾に悩もうとするのはナンセンスきわまりない。

c0315619_16495524.jpg移民政策は無理があるからやめようという主張が、どうして排外主義のレッテルを貼られて糾弾されなくてはならないのか、私には理解できない。移民受け入れを始めれば、当然、移民は日本人労働者が嫌がる3K職場に低賃金で就労する動きになり、経団連(新自由主義)の思惑どおりの進行となる。日本の雇用現場における実質賃金を引き下げる方向に作用する。単に人手不足を補うとか埋めるとかのハッピーエンドで済むはずがなく、2000年代に外国人労働者(中国、フィリピン、ブラジル)を製造業の派遣現場に投入して生じた帰結のように、全体と平均の労働条件が悪化するのは火を見るよりも明らかだ。労働者の権利が確実に切り下げられる。現在のような、企業業績がまずまずで雇用が安定している間はまだいい。が、リーマンショックのような経済危機が襲来し、雇用が厳しい状態に一転したときは、外国人労働者が切られ、日本人労働者が劣悪な地位・待遇で働かなくてはならない羽目になる。さらに、地域社会は学校教育や住民サービスで余計な負担を強いられる事態になり、そのコストを住民が払うことになる。移民の流入は地域コミュニティを変質(混乱・荒廃)させ、昔からの住民にストレスを強いる。多文化共生社会と言うと聞こえがいいが、それは地域住民が自ら望んだものではないのだ。

c0315619_16500773.jpg移民政策がもたらした弊害は、上野千鶴子が指摘するとおり、ヨーロッパの先進国で顕著であり、矛盾が積もり積もって一般の住民(労働者)に拒否されるに至った。多文化共生の理想主義だけでは国家も社会もやっていけないことを、昨年EUに反乱を起こした英国が示している。まさか、移住連も左翼も、英国国民の半数が排外主義の右翼だと罵ることはできないだろう。上野千鶴子が挙げる移民の否定的将来像の観測は、もっぱら、右翼によって民族差別の暴言を吐かれたり、嫌がらせを受けたり、外国人移民の側が蒙るヘイトの人権侵害にフォーカスした問題系となっている。だが、トラブルに巻き込まれたり、仕事と収入の劣悪化を押しつけられるのは、それを半ば覚悟して日本に入って来る移民だけでなく、この国に元から暮らして働いている日本人の弱者であり、だからこそ移民政策は問題が大きいのだという本筋の正論を、われわれはもっと声を大にして言わなくてはいけないだろう。移民奨励、労働の移動の自由化という政策は、基本的に市場原理の新自由主義の政策であり、資本が要求する政策であり、労働者が要求する政策ではない。移民を美化するのは、資本の論理であり、その宣伝工作に労働者の側が乗っかってはいけない。政府が進める多文化共生主義は、実際には、資本に奉仕する政策とイデオロギーである。
(中略)
上野千鶴子の「移民政策は無理」論は、きわめてリアルで妥当な認識であり、常識的な判断の寸言である。大量移民社会のカオスは日本が選択すべき方向ではない。




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