もちろん、それを招いたのは自公政権による政治腐敗であるが、選挙に関しては、「民主主義選挙」の腐敗なのである。ナチス方式による政権簒奪と言ってもいい。私は、前者の腐敗のほうがまだマシではないかと思う。前者は法制改善によって改善可能だが、後者はやがて法的対応が不可能なところ、つまり決定的な破滅まで進むからである。
精神分析医熊代亨氏の「シロクマの屑籠」から赤字にして引用するが、私はこうした「知的スノッブ(俗物)」のカッコつけ、シニカルなニヒリズムを好まない。「全員参加」は必ずしも民主主義の絶対条件ではない。こじつけの論理である。シロクマ氏が、(おそらくエリート的大衆蔑視から)民主主義のタテマエを揶揄するのは勝手だが、自分の発言が冗談で済むかどうか、考えるべきだろう。(ブログと論文の違いはあっても)中野剛志氏の誠実で見事な論文と比べるといい。
で、もし、今まで投票や選挙活動に参加できなかった人々が参加するようになり、それで民主主義政体がもたなかったり"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか。でもって、民主主義に基づいて民主主義が壊れてしまったことを有権者は誇ればいいんでしょうかね?
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
念のために言えば、私も「代議制民主主義」は欠陥が大きいとは思っているが、民主主義そのものは肯定している。国民投票で「日本人全員自殺」を決定したなら従うつもりである。それが選挙権の権利に伴う義務である。ただし、政権がアメリカの属国政権である(つまり、日本人を代表していない)場合は、政府決定が日本人に有害なら、従う義理はない。それ(国民主体)が「民主主義」というものだ。
(以下引用)
自由が奪われる? 19世紀の天才政治家が見抜いた「アメリカ民主政治」の脅威
「アメリカでは、人々の精神はすべて同じモデルに基づいてつくられており、また、そうであればこそ、それらの精神は正確に同じ道を辿っているといえよう」
19世紀に活躍したフランスの政治家・トクヴィルは、独立してから50年ほどしか経っていないアメリカを視察し民主主義の本質を見抜き、「民主政治こそが、専制政治を生み出す」と警鐘を鳴らした。
近年、日本社会でクローズアップされる「同調圧力」もまた、日本文化の文化的特殊が要因ではなく、アメリカの民主政治を見習ったことが大きく影響しているという。
天才政治家トクヴィルが目撃した、アメリカの民主政治の恐るべき本質とその問題点に迫る。
※ 本稿は、中野剛志著『奇跡の社会科学』(PHP新書)から一部を抜粋し、編集したものです。
引用文献:A.トクヴィル、井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』講談社学術文庫
トクヴィルが発見した「恐ろしいもの」
アレクシス・ド・トクヴィル(1805~59)こそ、社会科学の分野における正真正銘の天才と言うべき人物でしょう。
フランスの政治家であるトクヴィルは、独立してから50年ほどしか経っていないアメリカを視察し、そこで民主政治の恐るべき本質を見抜いてしまいました。そして、その洞察をまとめて『アメリカの民主政治』として出版しました。
この『アメリカの民主政治』は、その後の西洋の政治学や社会学に計り知れない影響を及ぼしました。一流の政治学者や社会学者で、トクヴィルの影響から無縁である者は、おそらくいないでしょう。
『アメリカの民主政治』は、社会科学を学ぶ上で、必読文献の筆頭に挙げなければならないほど、重要な書なのです。では、早速、『アメリカの民主政治』の要点を解説しましょう。
独立後、50年ほどしか経っていないアメリカの民主政治を観察して、トクヴィルは、ある恐ろしいものを発見しました。それは、専制政治です。
民主国家のアメリカで、専制政治を見つけるというのは、一見すると、矛盾しているように感じられるでしょう。しかし、専制政治は、民主政治からも生まれるのです。いや、民主政治だからこそ、専制政治となる。そのことに、トクヴィルは気づいてしまいました。
ではなぜ、民主政治が専制政治になるのでしょうか。それは、民主政治の意思決定が、基本的に多数決によるものだからです。考えてみれば、多数派の意見が少数派より優れているとは限りません。むしろ、正しいことを知っている優れた人物というのは、たいてい数が少ない。
ところが、民主政治では、多数派の意見の方が正しいことになっています。そこには、人々の能力に優劣がなく、平等だからという暗黙の前提があります。人々の知性が平等であるならば、確かに、数が多い方が正しいだろうということになる。これをトクヴィルは、「知性に適用された平等理論」と呼びました。
多数決の民主政治では、少数派は、多数派の決定に逆らうことはできません。つまり、すべてを決める専制的な権力が、多数派に与えられるのです。
「多数者の支配が絶対的であるということが、民主的政治の本質なのである。なぜかというと、民主政治では多数者の外には、反抗するものは何もないからである」。
多数者が形成する「世論」の危険
トクヴィルは、このような多数派支配の民主政治を「多数者の専制」と呼びました。多数者とは、要するに「世論」のことです。世論に左右される政治が、「多数者の専制」です。
政治が世論に流されて動き出すと、それを止めることは難しくなります。世論が正しいかどうかなど、関係ありません。世論が間違っていると異を唱える少数派は、意見を聞いてもらえず、ただ排除されるだけです。
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それゆえにアメリカ連邦では、多数者は事実を動かす巨大な力とこれとほとんど同じくらい偉大な世論の力とをもっている。
そして、多数者がある問題について一旦形成されると、多数者の前進はとても阻止できないし、少なくともそれを遅らせることのできる障害も、全くないといってよいのである。それで、多数者が前進の途中で蹂躙し破砕する人々の不平に耳を傾けるだけの余裕も、多数者には残っていないのである。
このような事態の諸結果は、将来にとって有害であり、そして危険なことである。
トクヴィルは、1830年代のアメリカの民主政治を見て、「多数者の専制」あるいは世論の支配は、有害であり危険であると戦慄しています。この「多数者の専制」は、20世紀になって「全体主義」として知られるようになりました。
実際、ドイツのナチズムは、民主的なワイマール共和国から発生したのです。「多数者の専制」あるいは全体主義においては、少数派の意見は排除されます。つまり、少数派の言論の自由が侵害されるということです。
ここで重要なのは、少数派の言論の自由を侵害しているのは、民主政治だということです。「自由民主党」という名前の政党があるように、自由と民主政治はセットで考えられています。
しかし、民主政治とは多数派が支配する政治のことであり、そしてその民主政治が「多数者の専制」へと堕落するのであれば、少数者の自由は侵害されることになります。「政治は、数だ」などと言われますが、数の政治は、確かに民主政治ではありますが、自由には反するのです。
少数派の言論の自由を奪う「多数者の専制」
要するに、民主政治と自由は、矛盾する面があるということです。だから、トクヴィルは、アメリカの民主政治を観察して、こう述べました。「一般に、アメリカにおけるほどに精神の独立と真の言論の自由との少ない国は他にはないのである」。
当時のアメリカの方が、伝統的な階級社会であるヨーロッパの国々よりも「精神の独立と真の言論の自由」が少ないというのは、意外に聞こえるかもしれません。
確かに、君主による専制政治も、もちろん自由を侵害するものです。ただし、その手段はあくまで物理的な暴力によるものに過ぎず、人々の精神にまでは踏み込んでくるものではありませんでした。
ところが、民主政治における「多数者の専制」は、物理的な暴力を行使するのではなく、少数派を精神的に追い込むことで、黙らせるのです。これは、ある意味、王政の専制よりも残酷かもしれません。
これは、19世紀前半のアメリカではなく、21世紀の日本で起きたことを描いているかのようです。例えば、2005年、当時の小泉純一郎政権は、郵政民営化の是非を問う選挙を実施しました。
小泉首相は、郵政民営化に反対する国会議員たちを「抵抗勢力」と呼び、世論を煽りました。国民は、郵政民営化の意味を理解することもないまま、雪崩を打って小泉氏を支持しました。
抵抗勢力のレッテルを貼られた議員たちは支持者を失って次々と落選し、「ついには屈服して、本当のことをいったことを後悔しているかのように沈黙に陥って」しまったのです。
より最近の例を挙げるならば、芸能人やスポーツ選手などの著名人の発言に対して、SNSを通じて、非難や誹謗中傷が殺到することがあります。いわゆる「炎上」です。
SNSが炎上すると、著名人は発言を撤回して謝罪するだけではなく、その後、SNSによる発信を止めてしまいます。つまり、言論の自由が失われるのです。この「炎上」という暴力的な現象も、「多数者の専制」の一種と言えるでしょう。
ここで重要なのは、いくら言論の自由が形式的には保障されていても、多数派から無視されたり、いやがらせを受けたりし続ければ、精神的に参って、沈黙に陥ってしまうので、実質的には、言論の自由を奪われたに等しいということです。
民主政治が生み出す「同調圧力」
「多数者の専制」が行使する絶対的な権力とは、言い換えれば、意見の多様性を許さず、大勢に順応することを強いる社会の同調圧力のことです。
そういう同調圧力は、しばしば、日本社会に特有のものであるかのように言われます。これに対して、アメリカ社会は、日本と違って、多様な意見を尊重する社会だと信じられています。
ところが、トクヴィルは、19世紀のアメリカ社会を観察して、その異様な画一性と同調圧力の強さを指摘しているのです。
トクヴィルは、「アメリカでは、人々の精神はすべて同じモデルに基づいてつくられており、また、そうであればこそ、それらの精神は正確に同じ道を辿っているといえよう」と書いています。
実は、今日でも、アメリカ社会には、強烈な同調圧力があることが指摘されています。アメリカには、確かに多くの移民が流入し、文化的な多様性を生み出しているように見えます。
しかし、実際には、アメリカに渡った移民の2世や3世は、そのルーツの文化や言語を忘れ、アメリカ文化に適応し、英語を話す傾向が強いのです。
アメリカ社会は「人種のるつぼ」と言われますが、まさに「るつぼ」とあるように、さまざまな民族の文化を溶かして、アメリカ文化という鋳型に流し込むのです。
また、アメリカ文化の特徴は、マクドナルドに代表されるように、徹底した標準化・画一化にあります。ハインツの缶詰、T型フォードからスマートフォンに至るまで、アメリカ人は、製品やサービスを徹底的に標準化・画一化するのを得意とします。
アメリカ社会は多様性を尊重するなどというのは、神話に過ぎません。実際には、アメリカ社会は、同調圧力が極めて強い社会なのです。ヨーロッパ人のアメリカに対するジョークにも、次のようなものがあります。
「アメリカは人々が選択の自由を有することを望んでいる。ただし、それはアメリカ的なやり方を選択する場合に限ってだが」。
さて、このアメリカ社会の同調圧力は、トクヴィルによれば、民主政治から発生するものだということになります。だとすると、日本社会に見られる同調圧力もまた、日本の文化的特殊性ゆえではなく、民主政治のせいである可能性が高いでしょう。
日本が、アメリカの民主政治を見習うほどに、社会の同調圧力は高まり、自由が損なわれていくというわけです。
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