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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

今こそ新しいメディアの大チャンス
「池上技術士事務所のブログ」から転載。
「本当のことを伝えない日本の新聞」(マーティン・ファクラー著)の要約の一部である。

「非営利メディア」の可能性を考えることは、日本の新しい民主主義を生むために必要なことの一つだろう。スポンサー付きの商業メディアでは、どうしてもスポンサーの顔色を窺いながら記事を書くことになる。それでは公明正大な報道は不可能であるのはもちろんだ。そして、言うまでもないが、経済界と行政官僚に尻尾を振りながら国民洗脳の旗を振っているのが現在のマスコミ、俗に言う「マスゴミ」である。
私自身、新しいマスコミの必要性を何度か書いてきたが、それを「非営利メディア」にしようとまでは思わなかった。というのは、信頼できるメディアで、そして記事そのものが面白いメディアであれば、人々は金を出しても購入(利用)するはずだと私は考えているからだ。
前にも書いたように、私から見て現在の新聞の適正価格は20円から30円である。いや、それでも高いくらいだ。読む価値のある記事などほとんど無いし、有害洗脳記事は満載されている。読み終わったらゴミとして処分する必要もあるし、古紙回収に出しても高さ50センチほどの量でポケットティッシュ1袋(最近は、使いようのない小さなゴミ袋1枚)くらいにしかならない。紙資源その他の印刷資源の無駄使いそのものである。
それはともかく、価値のある新聞なら採算が取れるどころか、利益を出すことも可能だ、と私は考えている。真面目で嘘の無い政治経済記事(特に、重要事件解説と、事実の検証重視である)に、スポーツ記事、連載エッセイ、それに上品かつハイレベルな芸能・芸術批評コラム、娯楽性の高い連載小説、センスのいい漫画(4コマでも1ページ程度の短編でもいい。)などが載った週刊新聞(もはや雑誌に近いが、広告は載せないので、せいぜい全国紙日曜版程度のページ数だ。)なら、一部200円程度であれば買う人はたくさんいるだろう。つまり、真面目でありながら娯楽性も高いという「本物の市民新聞」である。このことは前にも書いたことだ。
金持ちの寄付に頼るという、下記記事の案だと、その金持ちの意思に支配される可能性もあるのだが、少なくとも出発時点では出資者が必要なことはもちろんだから、そこは、やはり篤志者の好意にすがるしかないだろうか。

ところで、私は「京都テレビ」のような地方テレビ局は、政治的にも娯楽的にもいくらでも冒険ができるだろうに、なぜあれほどつまらない番組ばかり放送しているのか、不思議でならない。
たとえば、大学生を集めて雑談や討論をさせるだけでも、「現代若者気質」のいい研究材料になるだろうから見る人はいるし、金など1銭もかからないのである。京都は大学の街だから、各大学の学生たちが出る番組は、大学生たちがまず見るようになるだろう。ただでもテレビに出たい人間はたくさんいるのだ。そもそも、視聴率など気にするほどの視聴率など最初から無いだろう。(笑)
そして、私が企画編成部長なら、まずは高校野球の地方予選を全部放送する。そのアナウンサーにはアナウンサー志望の若手アナを使い、練習の場にすればいいし、何なら、高校生の放送部員を使ってもいい。高校野球だけでなく、サッカーやバスケットでもいいのである。金をかけずに番組を作るなど簡単なことだろう。
小学校の学芸会の方が、視聴者に不快感しか与えない馬鹿タレントどもがのさばる中央のテレビ番組より、よほど見る価値はある。少なくとも、子供が出るだけで可愛いではないか。「初めてのお使い」がなぜあれほどの人気番組か考えてみればいい。動物番組も同じである。あんなのは金をかけなくても、いくらでも作れるはずである。そのへんの家庭の猫や犬の動画を延々と流す方が、昨今の芸能番組よりもましだろう。
まあ、番組制作には多少の金は必要だろうが、そのスポンサーには個人商店や中小企業に低料金でなってもらえばいい。
はっきり言って、中央のテレビ局の阿呆番組にうんざりしている人はゴマンといるのだから、地方テレビ局にとっては、今は思いがけない躍進の大チャンスなのである。私を京都テレビの編成部長にでも迎えたいなら、考えてもいい。(笑)コストはほとんどかけないで、視聴率は全体で(少なく見積もって)10%以上アップできると確信している。おそらく、現在は平均3%くらいだろうから、簡単なものだ。(w)

要するに、新聞業界にしろテレビ業界にしろ、現在は、実はまともなものがほとんど無いのだから、新規参入さえできれば、そこで勝利するのは馬鹿馬鹿しいほど簡単なことだというのが私の考えだ。まして、すでにその業界の中にいて、利権構造からは除外されているミソッカスにとっては、今こそが千載(千歳)一遇の飛躍の大チャンスなのである。



(以下引用)






アメリカには非営利メディアが多い。大手の記者クラブメディアが行き詰まっているいま、日本でも非営利メディアの可能性を考える時期に来ている。

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)
「マーティン・ファクラー著:本当のことを伝えない日本の新聞、双葉社、2012年」は、ずばり日本のジャーナリズムの問題点を暴いている。まず本書の「プログの登場でアメリカの新聞が抱いた危機感」「日本における新聞ウェブ版の試行錯誤」の小節の部分の印象に残った部分を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.福島第一原発の収束までには、今後数十年もの時間を要する。世界中の人々にとって福
島第一原発に関する報道はニュースバリューがある。おおよその状況については自国のメディアを通じてもある程度は知ることはできるだが、日本の東北の住民たちがどんな悩みや心配事を抱えて暮らしているかまでは伝わってこない。そこから収束作業に関する思わぬ問題解決の道が生まれるかもしれない。
2.地方紙の記者たちが地元に住む自分たちの問題と思っていたものが、実は世界の関心事にもなりうる。メディアのグローバル化は、大きなニュースばかりではなく、これまで埋もれていた小さくとも良質なニュースが世界に広がる可能性も秘めている。
3.2007年に、アメリカで「プロパブリカ」というオンラインメディアが設立された。ウォール・ストリート・ジャーナル元編集長のポール・スタイガーが初代編集長を務める。モットーは「公益性あるジャーナリズム」である。プロパブリカは新聞社やテレビ局といった既存メディアからは完全に独立しており、NPO(非営利団体)が運営している。紙媒体はもたず、インターネット上で記事を公開する。同時に既存メディアとも協力し、取材活動を行なう。運営資金はサンドラー財団、フォード財団、ビル・ゲイツなどからを提供された寄付金によってまかなう。驚くべきことに、設立間もないというのにプロパブリカは次々とピユリッツァー賞をものにした。2010年には、ハリケーン・カトリーナの被災地域での病院の奮闘を描いた記事が、ネットメディアとして初めてピュリッツァー賞を受賞している。
4.2011年には、リーマン・ショックの際に経済危機をもたらしたウォール街の強欲ぶりについての記事が国内報道部門で受賞した。いずれも丹念に取材を重ねた良質な記事である。調査報道には多額の資金と労力とマンパワーが必要になる。プロパブリカのような特殊なネットメディアを営利企業が立ち上げても、採算が合わず早々に行き詰まってしまう。寄付文化が根づくアメリカでは、プロパブリカのようなジャーナリズムの灯を消すまいと奮闘するメディアに資金を投じる篤志家がいる。ピュリッツァー賞の連続受賞という成功とそれは無関係ではない。寄付文化がない日本では、資産家や篤志家から多額の運営資金を提供してもらうことは難しい。
5.アメリカでは非営利のネットワーク(PBS)もある。PBSは300を超えるテレビ局を束ね、日本のNHKのような公共放送番組を作っている。とりわけ『フロントライン』というドキュメンタリー番組の質が高い。PBSもプロパブリカと同じく、「社会を良くしたい」と考える資産家の寄付によって支えられている。
6.カリフォルニア大学バークレー校は、『フロントライン』製作のためのスタジオを作った。同校にはジャーナリズムスクールがあるため、『フロントライン』への参画は学生の教育に役立つ一方、番組制作もできる。PBSと大学双方にとってメリットがある。ほかにも、ミズーリ大学のジャーナリズムスクールはラジオ番組をたくさん作っていることで有名だ。大学と学生が主体ならば、大企業であるマスコミが作れないような題材の番組を思いきって作れる。イリノイ大学でもラジオ番組を作る取り組みがある。
7.日本の大学は、自前のメディアをもって情報を発信しないのが疑問である。たとえば早稲田大学大学院(政治学研究科)には、2008年からジャーナリズムコースが新設され、日本初のジャーナリズム大学院を謳っており、専門性の高いジャーナリストの育成を主眼においている。すでにウェブマガジンを発信しているが、本格的な大学発の報道機関を作る価値がある。
8.プロパブリカのようにネットメディアで調査記事を発表してもいいし、学生目線でドキュメンタリー番組を配信するのもおもしろい。既存メディアと手を組むことも可能である。社会的に影響力のある自前のメディアがあるとなれば、ジャーナリストの卵たちが全国から集まってくるから、大学にとってもメリットは大きい。
9.プロパブリカが生まれる以前から、アメリカでは非営利メディアがたくさん誕生した。大手の記者クラブメディアが行き詰まっているいま、日本でも非営利メディアの可能性を考える時期に来ている。

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