前回の記事の中で一番「どうでも良さそうな箇所」が、私の興味を惹いたので、それを論じてみる。トッド自身がこの問題を重要視しているのは言うまでもないが、「どうでも良さそう」というのは、一般人には「学者の御託」としか見えないだろう、ということだ。
先にその部分を抜粋引用しておく。
(以下引用)
(引用終わり。以下考察)
最初に、非常に危険な問いから発しておこう。それは「『女性の解放』は女性を幸福にしたか」ということだ。ここで「女性の解放」を括弧に入れたのは、それが本当の解放だったかを私は疑問視するからである。
いや、解放は解放で、確かに女性は多くの面で自由になった。しかし、それは「男と同じ扱いを受けることになり、(原則として)男と同じ労働を義務化された」ということであるわけだ。極端な例では女性の兵役義務化もそのうち当たり前になる可能性もあるだろう。
もちろん、女性が封建制度の下で多くの不自由を耐え忍んできたという事実がある。と同時に、たとえば日本なら「専業主婦」もかなりの割合で存在していたのである。今では上級国民以外では専業主婦は稀だろう。で、主婦は家庭の大黒柱として、家計を握り、家庭の諸問題をほとんど一手に扱い、男は仕事だけに専念することができたのである。これは不幸な状態だったのだろうか。
もちろん、社会に出てバリバリ仕事をしたいという女性もたくさんいて、そういう女性たちは家庭の主婦という在り方に嫌悪感を持っていただろうが、では彼女たちが「社会に出てやりたい仕事」とは何かというと、工場労働や糞尿処理の仕事ではないだろう。明らかに「第三次産業」での「装飾的な、華やかな仕事」なのである。
とすれば、女性が「解放」された社会が第三次産業の比重がどんどん拡大するのは、エマニエル・トッドが見るとおりだと言えるはずだ。
要するに「新自由主義」は「女性の解放」と同期していた、ということである。新自由主義社会の国がすべて「第三次産業」中心の「浮薄な」社会になったのは、社会全体の女性化だ、と、一部のフェミニストに攻撃されそうな結論で、この稿を終わることにするwww
(いうまでもないが、私は「女性性」を肯定する者であり、その価値を高く見る者であり、ある意味、フェミニストでもある。女性がいるだけで、その場や集団が和らぐのである。自分の周囲を見ても、爺さんというのは汚らしく不愉快なだけだがお婆さんは可愛さがある。)
先にその部分を抜粋引用しておく。
(以下引用)
「家族構造」の視点から全人類史を捉え直したのが本書ですが、このアプローチは、近年のグローバリゼーションによって何が生じているかをも理解させてくれます。
まず父系的社会は、第二次産業に強く、モノづくりは男性原理と親和性があるといえそうです。
これに対して、女性のステータスが比較的高い双系的社会は、第三次産業と親和性をもっています。女性の解放によって女性の社会進出が進んだわけですが、その過程で増えたのは第二次産業よりも第三次産業の雇用で、結果的に社会全体の第三次産業化が進み、自国の産業基盤は衰退してしまいました。
現在の世界のかたちがどうなっているか。それぞれの家族構造にしたがって、一方は「消費」に特化し、他方は「生産」に特化するというかたちで2つの陣営に分かれています。しかもグローバリゼーションのなかで、2つの陣営が極度に相互依存関係にある。これがわれわれが生きている世界の構造であり、いま始まっている戦争も、こうした文脈で起きていることが、最も重要なポイントです。
(引用終わり。以下考察)
最初に、非常に危険な問いから発しておこう。それは「『女性の解放』は女性を幸福にしたか」ということだ。ここで「女性の解放」を括弧に入れたのは、それが本当の解放だったかを私は疑問視するからである。
いや、解放は解放で、確かに女性は多くの面で自由になった。しかし、それは「男と同じ扱いを受けることになり、(原則として)男と同じ労働を義務化された」ということであるわけだ。極端な例では女性の兵役義務化もそのうち当たり前になる可能性もあるだろう。
もちろん、女性が封建制度の下で多くの不自由を耐え忍んできたという事実がある。と同時に、たとえば日本なら「専業主婦」もかなりの割合で存在していたのである。今では上級国民以外では専業主婦は稀だろう。で、主婦は家庭の大黒柱として、家計を握り、家庭の諸問題をほとんど一手に扱い、男は仕事だけに専念することができたのである。これは不幸な状態だったのだろうか。
もちろん、社会に出てバリバリ仕事をしたいという女性もたくさんいて、そういう女性たちは家庭の主婦という在り方に嫌悪感を持っていただろうが、では彼女たちが「社会に出てやりたい仕事」とは何かというと、工場労働や糞尿処理の仕事ではないだろう。明らかに「第三次産業」での「装飾的な、華やかな仕事」なのである。
とすれば、女性が「解放」された社会が第三次産業の比重がどんどん拡大するのは、エマニエル・トッドが見るとおりだと言えるはずだ。
要するに「新自由主義」は「女性の解放」と同期していた、ということである。新自由主義社会の国がすべて「第三次産業」中心の「浮薄な」社会になったのは、社会全体の女性化だ、と、一部のフェミニストに攻撃されそうな結論で、この稿を終わることにするwww
(いうまでもないが、私は「女性性」を肯定する者であり、その価値を高く見る者であり、ある意味、フェミニストでもある。女性がいるだけで、その場や集団が和らぐのである。自分の周囲を見ても、爺さんというのは汚らしく不愉快なだけだがお婆さんは可愛さがある。)
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