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徽宗皇帝のブログ

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新国富論 1
新国富論    2009年3月3日~2010年4月12日

 1 通貨供給量と国富

 最初に、奇妙な命題から書こう。それは、「国富とはその国内の通貨量だ」ということである。この考えは、幼児ならば簡単に受け入れるだろうが、大人のほとんどは、納得しないだろう。それが本当なら、政府がどんどんお金を印刷すれば、それだけ国が豊かになるということで、こんな簡単な話なら誰も苦労はしないさ、と思うわけだ。
 もちろん、国富には様々な側面があり、資源物や生産物、あるいは人口や労働力などもすべて国富である。通貨だけをいくら製造しても、それは人民を養い、生活を維持させる生活物資ではないのだから、豊かな国とは言えない。だが、それにも関わらず、貨幣経済の下での国富とは、何よりもまず通貨量なのである。特に、外国との商取引が当たり前であるような時代においては、一国内の通貨供給量は、そのまま国民の豊かさを決定する。
 それが、私がここで論じる中心点である。
 
では、国内の通貨流通量が減少したらどうなるか。その国は窮乏する。それが、2009年現在の日本の姿なのである。
 通貨流通量の減少とは、必ずしも通貨供給量全体が減少する場合だけではない。通貨が(銀行や金融業者や政府など)一カ所に滞留して、国民の大半の懐から金が無くなった状態でも、流通量は減少することになる。それと同時に、やはり通貨供給量全体の減少も大きな影響があるのだが、国民は通貨供給量の実体を知らないから、その影響に気づかない。これが、私がこの一文を草する理由である。国民は、自分たちの手から大きな国富が消えていることに気づいていない。だから、何に対して批判し、戦えばいいのかがわからないのである。
 もう一点付け加えれば、富があっても、それが使用不可能な形になっていれば、それは富ではない。具体的に言えば、現金が証券の形に変わっている場合、それは条件付きの富であり、完全な富ではない。たとえば、力の強いいじめっ子が、お金をカツアゲする時に、「これはカツアゲじゃないぞ。その証拠に、借用証を書こう」と言って、「俺はノビタに500円借りた。そのうち返す。ジャイアン」と書いた紙を渡した場合、ノビタはその紙切れがそのうち元の500円に変わると信じられるだろうか。
 これが、日本国が米国から購入した米国債である。
 日本の通貨供給量は1400兆円であり、そのうち700兆円が過去何十年かで米国債に変わっているという。(残り700兆円のすべてが現金というわけではない。現金は70兆円程度であり、残りは銀行の「信用創造」という手品によって膨らまされた幻想の金額である。)
 その700兆円は、庶民が政府に納めた税金や銀行に預けた貯金の中から米国債の購入に当てられ、実質的には日本国民にとって使用不可能になったのである。なぜなら、米国の財政赤字は途方もない金額であり、日本が所有している米国債を売却したら、米国は支払い不能(デフォルト)になって、国家破産せざるを得ないからである。
 単純に考えれば、日本国内で流通すべき1400兆円の通貨のおよそ半分が、消えたことになる。700兆円の金(あるいは帳簿上の金額)が、米国債という有名無実な紙切れに変わったということである。この米国債を売ることは米国から厳禁されているから、実際に、紙切れと同じなのである。日本の橋本総理が、米国債売却をほのめかしたことで失脚したことを知っている人も多いだろう。日本において、アメリカの意に逆らう政治家は政治生命を失うのである。(その橋本に代わって総理になった小泉がアメリカの意向に従って、「郵政改革」などで日本の資産を米国に与えようとしたのもご承知の通りだ。)

 日本は、少なくとも2008年までは膨大な貿易黒字を重ねてきた。では、日本国民はそれで豊かになったという実感はあっただろうか。まったく無いはずだ。それもそのはずで、その間に日本の国富の半分はアメリカに流れていたからである。表面的な貿易黒字は、銀行や政府の米国債購入によって紙屑に変わってしまったのである。後の政治的スケジュールは、米国が国債を踏み倒すのがいつになるかだけだ。しかし、それは踏み倒しによって紙屑に変わったのではない。金が証券(米国債)になった時点で、実はすでに紙屑だったのである。

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