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日本の大企業や官庁は右翼人脈でできている?

「現代ビジネス」から記事を二つ転載。
辻正信の孫が富士急社長だ、などと聞くと、あの戦争で辻のために死んだ何百万もの人々が生きていたら怒り狂うのではないか。
親のしたことと子供は無関係だ、と言うかもしれないが、こうした「戦犯」たちの子孫がけっこう出世しているのが不思議である。いや、不思議でも何でもなく、日本の大企業の多くは「右翼人脈」で形成されていて、そうした「戦犯の子孫」をこそ受け入れてきたのではないか。
いや、実はそれこそが「語られざる日本の常識」であり、それを今さらのように語る私が、頭が子供であり、無知すぎたのだろうか。



(引用1)

2015年08月19日(水) 週刊現代

児玉誉士夫の息子はTBS役員、「作戦の神様」辻政信の孫は富士急社長……あの戦争の有名人たちの子孫は「いま」

週刊現代
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近衛文麿の孫は日本赤十字社社長と細川護煕元首相〔photo〕Getty Images

【第1部】はこちら


【第2部】はこちら

歌人として語り継ぐ

満州国の設立に関わり、戦後、A級戦犯として処刑された陸軍大将の土肥原賢二。その孫の佐伯裕子氏(68歳)は歌人という道を選んだ。戦争犯罪者の家族として苦悩してきた父・実氏を見続けてきて、家族だけが知るその姿を歌に残したいと思ったからだ。


「祖父が処刑される前に残した『何も弁解するな。どんなことでも受け入れなさい』という言葉を幼いころから母に教えられてきました。私が最初に出した歌集のテーマは『沈黙』。歌を書くときに、なるべくありのままを受け入れるという姿勢は祖父の言葉に影響を受けたからです」(佐伯氏)


太平洋戦争末期、牛島満大将は、沖縄戦で日本軍を指揮し、5倍以上の戦力差があるアメリカ軍に対し徹底抗戦を貫いた。牛島は温厚な性格で知られ、陸軍士官学校長なども歴任、軍人というだけでなく優れた教育者でもあった。その牛島の孫である貞満氏(61歳)は小学校教諭となり、普段は東京の小学校で教鞭をとりながら、毎年沖縄の小学生に対して平和学習の授業を行っているという。


陸軍士官学校を首席で卒業、マレー作戦などを指揮し「作戦の神様」とも言われる一方で、強引な作戦で無用な戦死者を出したという批判もあり、評価が分かれる辻政信(陸軍大佐)。


戦後は作家や国会議員に転身した辻だが、その孫にあたる堀内光一郎氏(54歳)は現在、富士急行の社長を務めている。辻の娘婿となったのが通産大臣や自民党総務会長などを歴任した政治家の堀内光雄氏であり、その堀内家は富士急行の創業者の家系である。





華族の家系に生まれ、3度にわたり首相を務めた近衛文麿の孫である近衛忠輝氏(76歳)は、'64年に日本赤十字社に入社して以来、50年以上も同社一筋で現在は社長を務めている。元首相の細川護熙氏は実の兄にあたる。


その細川護熙元首相のもとで、かつて公設秘書を務めていたのが白洲信哉氏(49歳)。彼は、吉田茂元首相の右腕としてGHQとの交渉にあたり、実業家としても東北電力の会長などを歴任した白洲次郎の孫だ。骨董品を愛していた祖父の影響もあってか、信哉氏は現在古美術誌『目の眼』の編集長を務めている。

「名将」の子は銀行員

ミッドウェー海戦で、空母「飛龍」に最後まで座乗し、敵艦への攻撃を続けた山口多聞中将。闘将と言われる山口だが、その三男である宗敏氏(82歳)は軍人とは正反対の人生を送り、第一勧業(現みずほ)銀行員として定年まで勤めた。


一方、多聞の親戚にはさらに意外な職業を選んだ者もいる。多聞の兄の曾孫にあたる山口礼氏(32歳)はレーシングドライバーとなった。15歳で、日本のF1レーサー養成プロジェクトのメンバーに選ばれ、その5年後には、イギリスの下部カテゴリーでシリーズ総合2位という成績を残している。


他にも、「フィクサー」と呼ばれ、戦後の政財界で大きな存在感を示した児玉誉士夫の息子・守弘氏(72歳)は、TBSの常務取締役やTBSサービスの社長などを歴任。連合艦隊司令長官として日本海軍を率いた山本五十六元帥の孫にあたる源太郎氏(54歳)は演劇制作などに携わっている。


戦争の有名人にそれぞれのドラマがあったように、子孫たちもまた様々な道を歩んでいる。


「週刊現代」2015年8月15日・22日合併号より


(引用2)


2015年12月13日(日) 魚住 昭  

日本軍に漂っていた「狂気」の正体
~悪魔のエリート参謀・辻政信が地獄に引きずり込んだ

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ビルマ戦線での日本軍〔PHOTO〕gettyimages

軍のなかの腐ったリンゴ

このところずっと船戸与一さんの『満州国演義』や辺見庸さんの『1★9★3★7』を読んでいたせいだろうか。先の戦争のことが妙に気にかかる。


前にふれたが、私は20年前、太平洋戦争に至る経緯を調べたことがある。陸軍の元エリート参謀たちに話を聞いて回った。そのとき痛感したのは、軍隊とは、正気と狂気の間をさまよう集団だということだった。


もし彼らが正気を保っていたら、あんなに広大な中国を制圧しようとしたり、圧倒的な国力の米国に戦いを挑んだりしただろうか。狂気が軍隊を覆っていたからこそ、日本は無謀な戦争に突き進んだのだろう。


問題は何が軍隊を狂わせたのか、である。それがはなはだ莫としていて、つかみどころがない。日本には、ナチスドイツの反ユダヤ主義のような明確な意志もなければ、ヒトラーのような独裁者も見当たらない。


満州事変―日中戦争の勃発―太平洋戦争へと戦線が拡大していく過程の首謀者は、その時々で顔ぶれが猫の目のように変わる。かの、悪名高い東条英機(日米開戦時の首相兼陸相)ですら、時勢に押し流される小舟のような存在でしかない。


そんなことをあれこれ考えるうち、ふと思いつき、20年前のメモを天井裏から引っ張り出した。取材に応じた元参謀たちはもうこの世にいない。メモは彼らの最晩年の声を伝える貴重な資料だった。


降り積もったほこりを払いながらメモを読むと、ある元参謀は彼らを狂わせたものを「もやもやとしたもの」と言い、別の元参謀は「精神的奇形児を生む陸軍教」と言っている。


陸軍教って? と思いながらさらにメモを読み進むうち、彼らの回想のなかに必ず登場する男が一人いるのに気づいた。


辻政信。「作戦の神様」と呼ばれた陸軍のエリート参謀(敗戦時の階級は大佐)である。


「絶対悪」が服を着て座っていた

陸軍強の権化、辻政信〔PHOTO〕wikipediaより

辻は戦後、『潜行三千里』というベストセラーをものして国会議員になった。だが議員在任中の1961年、東南アジアへ向かい、ラオスで失跡した。その後の行方は今も知れない。


国会議員時代の辻に会った作家の半藤一利さんは、その時の印象を『ノモンハンの夏』(文藝春秋刊)に書いている。


眼光炯々、荒法師を思わせる相貌だが、笑うと驚くほど無邪気で、なんの疑いも抱きたくなくなるような笑顔になった、として半藤さんはこう語る。


〈議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった〉


絶対悪――辻を表すのにこんなに的確な言葉はない。彼は多くの人々を地獄に引きずり込んだ。彼こそ陸軍教の権化だった。


私がそう思うわけを実例を挙げながら説明したい。1942年2月、日本軍が占領した直後のシンガポールで起きた出来事である。


日本軍は「敵性華僑」(日本支配に抵抗する中国系住民)の掃討作戦を発動した。その先頭に立ったのが、軍司令部の作戦参謀をつとめる辻だった。


軍は、18歳以上50歳までの男性華僑は指定場所に集合するよう布告を出した。シンガポールに当時いた18歳以上の華僑は約20万人。彼らを駆り集めて「敵性華僑」を見分けるのはほぼ不可能だったが、辻の指導を受けた警備隊は強行した。


シンガポール川東岸の検問所の分隊長は、辻に「現在までの容疑者検挙は70名」と報告すると、「何をぐずぐずしてるんだ。もっと能率よくやらんか。俺はシンガポールの人口を半分に減らそうと思ってるんだ。そのつもりで、もっとしっかりやれ」と怒鳴られたという。


シンガポール駅前広場には避難民数千人がいた。その地域を管轄する中尉は辻に「殺ってしまえ」と言われたため、上司の少佐に相談した。少佐は「残忍な辻がやりそうなことだ。彼は君らに命令する権限なんかありゃせん。その住民らは即刻退散させよ」と命じたので数千人の命が救われたという。


しかし、5ヵ所の検問で「敵性」とマークされた華僑はトラックで海岸や山林に、あるいは艀で海上に運ばれ、機関銃でなぎ倒された。犠牲者は4万人とも6000人とも言われている。


華僑虐殺から2ヵ月後、辻はフィリッピン戦線でも残忍さを発揮する。ルソン島のバターン半島に追い詰められた約7万人の米軍が投降し、数十km離れたサンフェルナンドへの移動を始めた矢先のことである。


現地の日本軍部隊に「日本軍は降伏に全面的承諾を与えていない。まだ正式に捕虜として容認されていないから、投降者は一律に射殺すべし」との大本営命令が電話で伝えられた。


連隊長が愕然として「口頭命令では実行しかねるから、正規の筆記命令で伝達せられたい」と答えると、筆記命令はついに来なかった。辻が仕掛けた口頭の偽命令だったらしい。


同じ内容の命令が他の部隊にも伝えられた。指揮官が命令を拒絶し「私を軍法会議にかけてください」と言うと、1時間後に「先ほどの電話命令は取り消す」と連絡があったという。


バターン西海岸を担当した師団参謀長は、辻から、道路に列をなす米兵たちを「殺したらどうか」と勧告され、拒否した。辻は「参謀長は腰が弱い」と罵り、師団長に同じことを進言したが「バカ、そんなことができるか」と一喝されたという。


1943年秋のビルマ戦線では、辻は英人兵士の人肉試食事件を起こしたとして、後に元上官から「人間として私は許せない」という非難も浴びている。


このほか、無残な敗北に終わったノモンハン事件(1939年)での独断専行など、辻の乱行は枚挙にいとまがない。数え切れぬほどの兵士が、彼の無謀な作戦の犠牲になった。それでも陸軍上層部は辻をかばい、彼を罰しようとしなかった。


なぜだろう? その謎を追っていくと、軍を覆い尽くした狂気の正体が見えてくる。


*参考:『作戦参謀 辻政信 ある辣腕参謀の罪と罰』(生出寿著・光人社刊)、『参謀・辻政信』(杉森久英著・河出文庫)


『週刊現代』2015年12月12日号より







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