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徽宗皇帝のブログ

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日本人と戦争(ノモンハンの「教訓」は生かされているか)
「東洋経済オンライン」記事で、日中戦争から太平洋戦争開始までの概要が非常に分かりやすく解説されている。つまり、「戦争がいかにして起こるか」という、まさに今日的な問題へのヒントが、ここから導かれるだろう。
ひとつ言っておけば、中国はかつての中国とは比較にならない国力の国である。戦力も日本の数倍あるだろう。人口比の懸隔は言うまでもない。そして今や、中国とロシアは友好国である。中国やロシアと友好関係を築きたい国も多い。そういう相手と戦争をするのに、日本はどのような勝算があるのか。
米国は、日本と中国を戦わせればそれでいいのである。できれば共倒れを希望しているだろう。そういう国に煽動されて戦争の瀬戸際に来ているのが今の日本なのである。「歴史は繰り返される。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」という名言がある。ただし、この「喜劇」は何百万人何千万人の死骸の上に行われるダンスである。


(以下引用)

日本人が「あまりに無謀な戦争」を仕掛けた真因歴史のターニングポイントは「ノモンハン事件」

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日本はなぜ「無謀な戦争」に突入したのか? 写真は1941年12月8日のLos Angeles Times (写真:American Stock Archive/Getty)
アジア・太平洋戦争で日本は、壊滅的なダメージを受けて敗北した。戦争では数え切れない日本人が命を失い、諸都市は焦土と化した。戦後は実質的にアメリカの占領下に入ったが、他国に支配されるのは初めてのうえ、武器を奪われ、植民地も放棄させられた。
アメリカとの圧倒的な国力の差を知っていたはずの日本が、なぜ無謀な戦争に突入してしまったのか? 大きな理由のひとつである「ノモンハン事件(1939年)」にクローズアップ。歴史研究家の河合敦氏の新書『教科書の常識がくつがえる! 最新の日本史』から一部抜粋・再構成してお届けする。

まずノモンハン事件を理解するためには、日中関係を理解する必要があるので、簡単に満州事変からの流れをおさえておこう。


第一次世界大戦で空前の好景気を経験した日本だったが、大正9年(1920)に戦後恐慌に見舞われてから10年以上不景気が続いたうえ、昭和5年(1930)には世界恐慌が波及して昭和恐慌が到来した。

国民のヒーロー「関東軍」の暴走

国民は政党内閣に失望し、軍部に期待するようになる。この支持を背景に関東軍が暴走していく。関東軍は、満州に駐留する日本軍である。ポーツマス条約でロシアから得た関東州(南満州の一部)と満鉄を守備するために駐留した陸軍部隊が、大正8年(1919)に独立して関東軍となったのだ。


関東軍は昭和6年(1931)9月、自分たちで奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破し、蔣介石の国民政府(中国を統治していた政権)の仕業だとして中国基地への攻撃を開始(柳条湖事件)する。日本列島の3倍近い面積を有する満州を占領しようとしたのだ。こうして始まった満州事変だが、若槻礼次郎内閣は不拡大方針を公表した。


ところが関東軍はこれを無視して行動を拡大、朝鮮に駐留していた林銑十郎率いる朝鮮(駐箚)軍も勝手に越境して関東軍の支援を始めた。すると軍中央も関東軍の行動を追認。事態を収拾できないと考えた若槻内閣は総辞職した。


一方、不況に苦しむ国民の多くは、関東軍の行動を熱狂的に支持した。翌年、関東軍は占領下においた奉天・吉林・黒竜江省(東三省)に満州国を樹立した。国の執政(リーダー)には、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が就任するが、完全に関東軍の傀儡国家だった。


さらに関東軍は、北の興安省と西の熱河省へも進軍した。ただ、日本陸軍は満州だけでは満足せず、昭和10年(1935)から満州に隣接する華北五省(河北・山東・山西・綏遠・チャハル省)を中国から切り離して勢力下におこうとした(華北分離工作)。


陸軍がこれほど広大な地を支配しようとするのは、関東軍参謀・石原莞爾の世界最終戦争論の影響が大きかった。


石原は「日本はアメリカと航空機戦を中心とする最終戦争を戦うことになるので、それに耐えうる国力をつける必要がある。だからまず、五カ年計画で経済力をつけてきたソ連が満州を奪う前に日本の植民地にし、持久戦となってもアメリカと戦える国力を保持すべきだ」と考えたのである。


さらに、満州事変は経済的な理由も大きかった。世界恐慌から脱するため、イギリスやフランスなどは、他国の商品に高関税をかけたり輸入制限をおこない、自国と植民地とのあいだ(ブロック経済圏)で保護貿易政策をはじめた。このため、日本の商品は売れなくなった。


こうなってくると、植民地が少ない帝国主義国家は不利だ。だから新興国のドイツやイタリアは植民地の再分配を求め、軍事力を強化して他国へ侵攻し植民地を増やしていった。同じく日本も本土・台湾・朝鮮・満州と支配地を拡大し、ブロック経済圏(円ブロック)の確立を目指したのだ。


国民政府の蔣介石は毛沢東の共産党との内戦を優先し、日本軍の侵略を黙認してきたが、華北分離政策が進むと方針を転換、共産党と手を組んで中国から日本勢力を排除しようと決意した。


そんな状況の昭和12年(1937)7月7日、日本の支那駐屯軍が北京郊外の盧溝橋付近で夜間の軍事演習をしていたさい、銃撃をうけた。これを中国軍の攻撃だと考え、日本軍は中国軍に戦いをしかけて戦闘に発展した。世にいう盧溝橋事件である。紛争は現地で停戦が成立したが、近衛文麿内閣が軍部の意向を受け増派を決定したのである。


すると共産党と連携した国民党の蔣介石は徹底抗戦を宣言、日中両軍の全面衝突に発展してしまう。ドイツが仲介にはいって講和交渉(トラウトマン和平工作)がおこなわれるが、近衛内閣は相手への条件を厳しくするなどして破綻させた。


陸軍参謀本部などは、広大な中国との全面戦争は、ソ連に対する備えを薄くすると反対したが、近衛内閣はさらに「国民政府を対手とせず」という声明を発表し、講和・交渉の相手である国民政府を否認して戦争収拾の道を自ら閉ざした。


こうして日中戦争が泥沼化するなか、列強諸国は国民政府を支援するようになる。ソ連も支援国の一つであった。蔣介石が中国共産党と手を結んだからである。

社会主義国・ソ連との対立

ここで日ソ関係について簡単に説明しよう。第一次世界大戦中にロシア革命が起こると、日本はアメリカやイギリスとシベリアに出兵して革命を牽制、ソ連が誕生したあとも日本軍はシベリアに駐留し続けたが、大正11年(1922)に撤兵し、同14年に日ソ基本条約を結んで国交を樹立した。


だが、天皇制を国体とする日本は、社会主義国家であるソ連を警戒し続けた。日本の傀儡である満州国が樹立されると、その国境はソ連と接するようになり、国境付近では小さな紛争がたびたび起こり緊張状態が続いていた。


日中戦争が始まると、今述べたようにソ連が国民政府を支援したこともあり、日ソ関係はさらに険悪となった。ソ連は国民政府と相互不可侵条約を締結し、同政府に大量の軍需物資を輸送するとともに、極東に軍備を増強するようになる。


そして昭和13年(1938)7月、ソ連軍がソ連・満州国・朝鮮の国境地帯にある張鼓峰(豆満江下流の小丘陵)に陣地を構築したのである。このため朝鮮に駐留する日本軍は、第十九師団を送って張鼓峰周辺のソ連軍を撃退した。



しかしこのとき昭和天皇は武力行使を認めず、ゆえに大本営も許可していなかった。なのに勝手に動いたわけだ。このように関東軍をはじめ海外の大陸や半島に駐屯する日本陸軍は暴走する傾向が強く、これが結果として日本を破滅に追い込む一因となる。


現地の日本軍が武力行使に出たのは、ソ連が日中戦争にどれほど本気で介入してくる気かを判断する材料にするためだったといわれるが、日本が張鼓峰を占拠するとソ連は激しく張鼓峰を攻め立てるようになった。


8月に入ると、さらに機械化された部隊を続々と集結させ、日本の3倍の勢力で戦いを挑んできた。こうして激戦となり、日本軍(第十九師団)は526名の戦死者を出し、戦傷を含めると22%を超える損害率となった。


この苦戦は、日本軍中央が張鼓峰に増派しなかったことも大きい。ソ連が日中戦争に本格参戦することを警戒し、大本営が不拡大方針をとったからである。ただ、近年公開されたソ連側の資料によると、日本軍に比べてソ連軍は倍近い規模の犠牲者を出していたことが判明した。日本軍は寡兵で善戦していたのである。


とはいえ、ギリギリの段階で張鼓峰を維持している状況ゆえ、結局、日本政府からソ連へ停戦を求めることになった。こうして8月中に停戦が成立したわけだが、この武力衝突で日本軍は、ソ連軍が大量の戦車や重砲、航空機を所有する機械化部隊に転身しており、その手強さをはっきり知った。にもかかわらず、何も対応しなかったことで翌年のノモンハン事件の失態を招くことになったのである。

「ノモンハン事件」という名の戦争

翌昭和14年(1939)5月、再びソ連との間で国境紛争が勃発する。ハルハ河東岸のノモンハンと呼ぶ満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境地帯である。モンゴル人民共和国は、ソ連の支援で中国から独立したばかりだった。ノモンハンは満州国もモンゴルも自国の領土と主張する地域である。


5月10日から両国軍の衝突が始まり、日本軍(第二十三師団)はいったんモンゴル軍を退却させたが、ソ連軍が応援に来てモンゴル軍と共に再びノモンハンに陣地をつくりはじめた。


そこで日本軍は一部をノモンハンに派遣したがその主力は全滅した。なおかつ、ソ連軍は大量の航空機や重火砲、そして戦車を含む大兵力をノモンハン付近に集結させたのである。このため日本側(関東軍)も漸次兵力を増やしていった。


じつは、紛争が起こる1ヶ月前、関東軍の作戦参謀・辻政信が「満ソ国境紛争処理要綱」を作成、それが関東軍全軍に通達されていた。国境線をしっかり確定させ、もし紛争が起こったら兵力の多寡に関係なく武力を行使して勝てという内容だった。この要綱が事件を拡大したのは間違いないとされる。


こうしてノモンハンをめぐって日本軍とソ連・モンゴル連合軍の大規模な衝突が始まると、さらに国境紛争という範疇を超え、互いに敵の陣地を激しく空爆しあうようになる。ただ、大本営や軍中央は、敵陣地への空爆は認めていないし、戦いの規模の拡大も赦していない。つまり、またも関東軍(満州国を守備する日本軍)が暴走したのである。



なお、日本の戦車はソ連軍にまったく歯が立たず、第一戦車団は帰還を余儀なくされ、戦いは次第に日本側が劣勢に立たされていった。


日中戦争が泥沼化しつつあるおりゆえ、この事態を早期に解決すべきだという意見もあったが、結局、現地の関東軍は戦線を拡大していき、第二十三師団を全面投入していった。ただ、大本営は援軍を送らなかったので、兵力は敵の4分の1程度(異説あり)だった。


しかもソ連の機械化部隊には歯が立たず、約1万7000人の死傷者を出して完全に第二十三師団は壊滅状態となった。師団の約3割が戦死したというから、大敗北だといえる。


ただ、近年、ソ連・モンゴル軍のほうが犠牲者が多く、戦いでは日本軍のほうが優勢だったことが判明している。壊滅的な打撃を受けたものの、関東軍の参謀たちは負けていないという感覚が強かった。これは軍中央との大きな違いだろう。また、武器についてもソ連軍の高度な機械化は事実に反するという説もある。

ドイツにふりまわされる日本

なお、日本軍とソ連・モンゴル軍が激戦を演じている最中の8月23日、驚くべき外交上の出来事が起こった。独ソ不可侵条約が結ばれたのである。これまで反目していたドイツとソ連が手を組んだのである。じつは日本は、ソ連など共産主義に対抗するため、昭和11年(1936)、日独防共協定(翌年イタリアが参加)を結んでいた。ところが日本にまったく知らせることなく、ドイツはソ連と不可侵条約を結んだのである。


この外交上の失態を受け、平沼騏一郎内閣が総辞職してしまったのである。さらに、である。翌9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、するとイギリスとフランスがドイツに宣戦、第二次世界大戦が勃発したのである。


この事態の急変を受け、大本営は関東軍に戦闘の停止(3日間)を厳命、その間に日本政府はソ連に停戦を申し入れた。しかも国境は、ソ連とモンゴルの主張するラインを受け入れてしまった。つまり結果を見れば、ノモンハン事件は日本側の敗北に終わったのである。


さて、寡兵な日本軍が優勢だったノモンハンでの戦いだが、大本営はこれ以後、ソ連への対応は極めて慎重になった。積極的にソ連と対峙すべきだという北進論が影を潜めたのである。またこの事件での責任を負わされ、関東軍の参謀の多くは予備役に編入された。いっぽうのソ連は、日本との全面戦争の憂いがなくなると、ドイツに続いてポーランドへ侵攻していった。


逆に日本では南進論が台頭してくる。東南アジアへの進出である。日中戦争は2年以上が過ぎても終わる気配がなく、85万人を超える将兵を投入し続けたので、日本国内では物資の不足が深刻化しはじめる。



どうにかして国民政府を降伏させたいが、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連などが大量の物資を送り続けているので困難だった。逆に日本に対して列強諸国は、経済制裁を強化する一方だった。


このため、石油やボーキサイトなど資源が豊富な東南アジアへ進出しようというのが南進論である。北進論が消滅したのに加え、ドイツが連戦連勝を続け、フランスを降伏させ、イギリスを追い詰めていた。それがますます国民の南進論への支持を過熱させた。

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このため日本政府は昭和15年(1940)に日独伊三国同盟を結び、さらに翌年、ソ連と日ソ中立条約を結んだのである。こうして北進論を完全に放棄した日本は、ドイツの勝ちに乗じて、英米との戦争覚悟でフランス領インドシナなどへの進出を開始してしまう。


その結果、アメリカが大いに怒り、日本への石油輸出を止め、結果として日本が暴発するようなかたちで太平洋戦争へなだれ込んでいくのである。ノモンハン事件による北進論の衰退・放棄からの南進政策の実施が、こうした流れをつくったわけで、まさにノモンハン事件は歴史のターニングポイントなのである。

なぜ無謀な太平洋戦争に突き進んだのか?

それだけではない。NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」の制作にあたった田中雄一氏は、その著書『ノモンハン 責任なき戦い』(講談社現代新書)で「日本はなぜ無謀な太平洋戦争に突き進んだのか。国家の破綻を避けることができなかったのか」という問いを発し、「戦後、数多くの識者や専門家たちが投げてきたこの問いにひとつの示唆を与える出来事が『ノモンハン事件』である」と明言する。


さらに「ロングセラーとなった『失敗の本質』(戸部良一他)も、ノモンハン事件を「失敗の序曲」というべき戦いと位置づけている」として「情報の軽視、兵力の逐次投入、軍中央と現地部隊の方針のずれなど、そこには太平洋戦争で噴き出す日本軍部の欠陥が凝縮されていた」と論じ、「ノモンハン事件を太平洋戦争へのポイント・オブ・ノーリターンだとするならば、日本軍はなぜそこで立ち止まり、進むべき道を再考できなかったのだろうか」と述べている。まさにその指摘どおりだと思う


ちなみにノモンハン事件の責任者の一人とされた辻政信は、一時左遷されたが、昭和16年(1941)に復権し、真珠湾攻撃と同時におこなわれたマレー半島奇襲上陸の作戦を主導し、その後も軍中央の命令を軽視して独断で戦いを進めていった。その後も辻のせいで、作戦に大きな混乱や支障を何度も招くことになった。



河合 敦 歴史研究家



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