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徽宗皇帝のブログ

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殺人を否定することと戦争を否定すること
誰のどういう発言に対するコメントか分からないが、「死刑制度反対論」についての言葉かと思う。
私自身は「どんな命の価値も無差別平等だ」(原文では「どんな価値の命も無差別平等」となっているが、「どんな価値の」を冠した時点でそれらの命は「無差別平等」ではなくなるだろう。)とはまったく思わないし、殺人をも絶対的に否定はしない。たとえば安楽死を私は肯定するし、自分で死ぬ能力が無い場合は安楽死の幇助もしていい、むしろするべきだと考えている。だが、私は絶対的な反戦論者であり、「戦争による殺人」だけは絶対的に否定する。
たとえ、それが表向きは「自衛戦争」であろうと、それが本当に自衛戦争であるかどうか一兵士には認識不可能である以上、戦争に加わり、敵国の兵士を殺すことは拒否する。敵国の兵士の命と自国の国民の命はまったく同等だ。お互いに殺し合う理由などない。それが見知らぬ同士ならなおさらだ。
私は若い頃には一時の怒りで自分の家族や友人すら殺したいと思ったこともある。身近な人間や関わりの深い人間だからこそ強い愛憎の対象となるのである。(殺人事件の9割くらいは身近な人間が対象であるはずだ。)だが、自分に無関係な見知らぬ人間を殺したいと思ったことは一度も無い。そんな人間がいたらキチガイだろう。お互い何の利害関係も無いまったくの他人を「あいつは敵国の人間だ」の一言で、殺していい、いや殺すべきだ、となるのはおかしな話ではないか。なぜ見も知らぬ誰かが突然「私の敵」になるのか。
では、それが「自衛戦争」だと確信できたら戦争を肯定するか、敵国兵士を殺すか、と言われれば、それも拒否する。なぜ国と国、政府と政府の紛争の決着が必ず戦争でなければならないのか。それは、戦争を利とする存在がいるからに決まっている。そのためになぜ多くの人々が死なねばならないのか。ここに至って自衛戦争かそうでないかの区別も無意味になると私は思う。
仮に、敵国から軍隊が侵攻してきたらどうするか。両手を上げて降伏すればいい。それで国民全員が奴隷になろうとも、戦争よりはマシだ、と思っている。その上で、時間をかけて力をつけ、革命によって支配者を倒せばいいのである。そして、その革命における「テロ」なら、私は殺人をも容認する。それは戦争における殺人(兵士同士の殺し合い)よりもはるかに正当性がある、と考えている。なぜなら、ここには明白な、「本当の敵」(自分たちを虐げるものたち)がいるからだ。
戦争における本当の「敵」とは、実は自分の国内にいる、「戦争を利とする人間」なのである。
戦争を推進する人間は、どんな口実をつけようが、すべて庶民の敵である。
自衛戦争容認論者は、広義には戦争容認論者であり、いざという時には必ず戦争推進論者の陣営に取り込まれるだろう。


(以下引用)


kamiyakousetsu
紙屋高雪
@kamiyakousetsu
04:14 PM Oct 7
「どんな価値の命も無差別平等であり、命は無条件に至尊である」という強固な信条と覚悟の持ち主のみ、こう発言できるだろう。少なくとも自衛戦争による条件殺人を否定できないぼくには無理だが


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