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徽宗皇帝のブログ

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狂瀾の政治を止める政党はどこか
「世に倦む日々」から転載。
長文なので、前説は簡単に。
私もこの動画は見たが、記事に書かれているように、明晰な演説だった。84歳でもこのように頭がしっかりしていてくれるなら、頭脳的労働に限っては、高齢者もまだまだ現役で働けそうだ。一般人にとってそういう励みにもなる動画である。
演説内容は下記記事の通りで、すべてごもっとも、である。野党全滅の危機の中で、今や共産党だけが政治不満への唯一の受け皿となった感がある。
まあ、地球が滅んでも共産党だけには絶対に投票しないという人間がいてもいいし、奴隷状態に満足して、自分を奴隷状態にしている政党に投票する人間がいてもいい。ただし、選挙の後で「こんなことになるとは思わなかった」と泣き言だけは言わないことだ。
なお、下記記事の筆者は、共産党の歴史にも詳しいようで、現在の共産党を全面的に肯定しているわけではない。冷静、客観的に評価している。そこがいい。
なお、この不破演説動画を見て、今後の政治についての一つのアイデアを得たが、それはいずれ選挙後に。




(以下引用)


不破哲三の演説 - 2014年衆院選のハイライト、三つの構成部分

不破哲三の12/10の京都での演説が、朝日の紙面記事に出ていて、マスコミやネットでも話題になっていた。20分ほどの動画が上がっているのを見たら、あまりに素晴らしい演説なので驚いてしまった。いつもの、共産党特有の紋切り型の党略全開ではなく、往年の不破哲三を思い起こさせる、知性の光る説得的な言葉が並べられている。引き込まれて最後まで聴き入った。この衆院選のハイライトだと言える。主役を張った。84歳の高齢者が、まさかこれほど完成度の高い演説ができるとは、私だけでなく多くの者が感銘を覚えたことだろう。志位和夫の演説は年々劣化している。演説だけでなく、テレビ討論に冴えがなく、機知が枯れ、場の議論を主導したり、安倍晋三を論破したりする場面がない。報ステの生討論では、政党助成金の論点の場面で、逆に橋下徹に論破される醜態を演じていた。今回の衆院選のテレビ討論が面白くないのは、もっぱら野党に責任があるのだけれど、その責任の一端は共産党にある。共産党の議論内容は、身内だけへのメッセージと効果に徹していて、広く一般の共鳴を誘う政策トークに設計されていない。志位和夫と山下芳生のテレビ出演での態度は、従来に増してクローズドな主張と口調が際立っていて、見ながら失望と不満を深めさせられた。志位和夫が論戦で得点を稼ぐときというのは、市民の常識が代弁されるときで、マスコミが言わない庶民の正論が周囲を制するときだ。

官僚やマスコミが大衆を支配するために刷り込んでいる欺瞞の言説、それを論鋒鋭く突き崩し、(数値データを含めた)真実を対置して論敵を黙らせ、視聴者の溜飲を下げさせるところに、志位和夫の出番と能弁があり、共産党がテレビに登場する期待と醍醐味があった。ところが最近の共産党は、幹部の言葉に真剣味や緊張感がなく、発する言葉が一般の人々にどういう印象を持って聞かれているかの意識 - セルフモニタリングの感性 - が全くない。例えば、民間の大手企業の会長とかが、テレビに出て話すときに屡々見られる光景として、社内でいつも側近の前でやっている専制君主の所作と言動がそのまま表出し、倨傲な目つきや振る舞いが露わになる場合がある。三木谷浩史の嫌味で横柄な態度などが典型的だ。共産党の幹部たちは、そこまで無神経ではないが、言葉つきに独特の癖があり、彼らが常に一般とは隔離された閉鎖的な空間にいて、同じ仲間だけで政治の言葉を交わし合っていることが分かる。そのことを彼らは隠さない。私は「代々木弁」と呼んでいるが、妙に新興宗教臭のあるデディケイテッドな言語スタイルだ。この特徴的な個性は、共産党が最も勢力を拡大していた1970年代の当時はなかった。党勢が落ち目になり、宮本顕治の老害による数次の粛党の動きが続き、党周辺にいた学者文化人が離れ、党集団のカルチャーが一色に純化される中で、次第に顕著に固まって行った習慣と体質である。

この「代々木弁」の起源と変容について、もう少し分析と解説を加えたいし、興味深い問題系が1980年代に多くあるが、ここでは省略することとする。12/10の京都の不破哲三の演説は、代々木弁の異臭がすっかり消えていたのにも驚かされた。昔の、インテリで学者肌の素の不破哲三に戻っていた。それは、とても懐かしい姿に感じられた。不破哲三の今回の演説は、1970年代を思い出せば、クオリティとして特に絶賛に値するものでも何でもない。あの当時は、誰もがこの程度の演説をしていた。原稿の構成がしっかり仕上がっていて、即興の言葉も迫力があった。重大な政治問題に逡巡なく切り込み、人々の思いを代弁し、表現を与えて頷かせていた。今、テレビ討論で野党の党首が喋り始めると、聞き続けるのが生理的に苦痛で、精神的忍耐の限界を超えるのでチャンネルを他に回してしまう。志位和夫も、小沢一郎も、江田憲司も、とても大画面で付き合うことは我慢できない。そのような強制には応じられない。他の番組に切り換えて安堵する。不破哲三は三つのことを言っていた。一つは京都の市民に対するリップサービスと、もう一つは右翼批判の正論と、そして、もう一つは「政治改革」への批判である。どれも中味が濃く、若い人にはよく聞いてもらいたいものだ。特に後の二つは、本当ならマスコミの報道関係者が言わなくてはいけないことで、公平中立な立場で考えて至極もっともな正論であり、今の日本で最も必要な政治議論である。

安倍晋三の一党が過去の戦争を肯定する極右であり、欧米では民主政治の外側のアウトローで、ネオナチの範疇であるという批判を、今の政治家でテレビで正面から訴える者はいない。本来、このことは、テレビ番組に頻出する志位和夫や小池晃が正しく粘り強く言い、浴びせられる反論を粉砕し、右翼の味方となっているキャスターや論者を論破して説得しなくてはいけない問題だ。孤立することを恐れず、テレビ局の規制や謀略を突破して、国民に届けなくてはいけない正論である。だが、今ではタブーとなり、誰も右翼批判は言わなくなった。北朝鮮拉致問題の後、右翼はこの国の正統となった。イデオロギーの問題で、共産党を含めて左派は常に尻込みし、臆病に言葉を選び、脱構築の曖昧な言辞を弄して右翼から逃げ、肝心な論争で右翼に陣地を譲ってきた。右翼を増長させる役割を果たしてきた。イデオロギーの論争を回避してきた。先進国の中で、日本だけが突出して右翼の勢力が大きく、日本だけが極右が政権を握る国になってしまっているのは、リベラルが右翼と対決せず、脱構築の詭弁で自己欺瞞しているからである。日本ほど脱構築がアカデミーを蹂躙している国はない。反右翼の良識は、90年代を通じてこの国から消されてしまった。左派が率先してイデオロギー問題に蓋をし、イデオロギー問題では右翼に妥協し降参する姿勢を固めた。反原連がデモ参加者に通達したところの、日の丸はOKで組合旗はNGの命令など、まさにそのなれの果ての現実だ。

演説の三つ目の「政治改革」批判も、実に得心のいく見事な弁論だった。維新と民主右派が躍起になって吹聴している「身を切る改革」と政党助成金の問題については、不破哲三が説いたような中味で論じなくてはいけない。志位和夫のように、マンネリ化した通り一遍の暗記フレーズを繰り返していると、橋下徹からの言いがかりの反撃が飛んで来て自事故に遭う。テレビのディベートは一瞬の話芸の勝負だから、そこで怯んだら終わりだ。政党助成金は、山口二郎や岸井成格が扇動した「政治改革」によって制度導入されたものである。選挙区を中選挙区制から小選挙区制に変え、同時に税金から政党にカネを注入する仕組みに変えた。山口二郎たち「政治改革」イデオローグの言い分では、政治腐敗を防ぐべく、政治家がカネ集めに必死にならなくても済むようにするため、国民が税金で面倒みてやればよいという理屈だった。税金から政党助成金を出すことで、リクルート事件や佐川急便事件のような政治とカネの問題を解決するという触れ込みだった。だが、制度が導入されて20年になるけれど、政治とカネの問題は一向になくならない。一方で、政治家たちは、政党助成金の分け前にありつくため、税金のぶんどり目当てに政党を新しく作っては壊すようになった。不破哲三の言うように、次から次へと新しい政党が生まれ、すぐに消えてゆく。綱領もない、政策も定まらないまま、政党が結成され解散される。昔はこんなことはなかった。政党は、理念を同じくする同志の集まりだった。

そして、政党の理念が政党名になっていた。このところ、ようやく小選挙区制が失敗だったと言う声が大きくなってきた。河野洋平が土井たか子への弔辞でそれを認めた。それなのに、どうしてその声が山口二郎や岸井成格に対する本格的な糾弾に向かわないのだろう。最も責任の重いA級戦犯なのに。それは欺瞞だと私は思う。「政治改革」が日本の政治を徹底的に堕落させたこと、政治家を小粒に無能にしたこと、これはもう否定すべくもない現代史の事実ではないか。


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