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徽宗皇帝のブログ

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統一教会(原理主義)とは「日本人奴隷化」計画だった
「そしてその時ではもう遅いのだ」と題された「阿修羅」投稿のコピーだが、元記事は朝日ジャーナルらしい。確かに、鈴木邦男氏のこの言葉を日本の政治家たちがまともに聞いていたら、安倍元総理はあれほど日本の社会と政治を汚染することもなく、暗殺されることもなかっただろう。真面目に考えることが「もう遅すぎた」のである。

(以下引用)


NO.588
日時 : 1999年11月13日 17:18 ペンネーム=ムーニ―&パンパース(旧:反
統一教会)


(資料:民族派団体一水会代表、鈴木邦男氏 反統一教会 論文 昭和六十
年、1985年、朝日ジャーナル )



勝共連合は民族主義運動の敵だ
――――文鮮明王朝建設に利用される日本の若者



「右翼、民族派の人たちが統一教会・原理研・国際勝共連合のことをどう思っ
ているか書いて下さい」と『朝日ジャーナル』の記者に言われた時には正直い
って気が進まなかった。
たしかに右翼の連中の中には「反共の同氏だ」と思っている人はいる。また、
「原理はウサン臭くて嫌いだが勝共は仲間だ」と公言する人も多い。警察の公
安や公安調査庁の人間だって反共なんだから仲間だし、日本に共産革命が起き
たときには一緒に決起してくれると信じている<純朴>な人も多いこの業界だ
から、原理運動をそう思ってもても仕方はない。
しかし、少なくともわれわれ民族派、また新右翼といわれる若い人間にはそん
な混同を起こす人間はいない。だから、『朝日ジャーナル』の記者の話を聞い
て、何を今さらと思ったのである。それに、右翼全体なんてどうでもいいとい
う気もあった。多くの右翼が原理・勝共を反共の味方だとおもっているのなら、
それでもいい。何もおせっかいをして、原理・勝共の実態はこうなんですよと
<告げ口>することもあるまいと思っていた。
ところが、筑紫哲也氏の「原理不可解な右翼の沈黙」(本誌一二月十四日号)
を読んで少し考えが変わった。その種の挑発にはやはり乗るべきだと思った。
それに、『世界日報』事件で追放された副島嘉和、井上博明両氏が『文藝春秋』
に書いた内部告発を読んだ時の衝撃も忘れられない。原理とは大学時代からの
長い付き合いだが、最近の<豹変>ぶりも見てきた。
原理運動が初めて日本に入って来たのは二十五年ほど前だというが、本格的に
やり始め、世間の耳目を集め出したのは、それからしばらくしてだと思う。原
理運動のことを直接にしったのは、僕が昭和三十八年、早稲田に入ってからだ
(その前から漠然とは知っていたが)。
それから二,三年して早稲田で全学ストライキがあり、それが全国の学園紛争に
火をつけて全共闘時代の幕開けとなった。それに刺激され対峙する形で民族派
学生運動も出てきたし、一時は全国30大学自治会を握り、「民族派全学連」
を結成しようというところまでいった。その学生運動の嵐が起こる前から、原
理研は駅前で黒板を出して演説したり、個人をオルグをしていたが、大学に入
りこみ、サークルをつくったりして組織的、全国的に活発にやりだしたのはこ
の早大ストのころからだと思う。
全共闘と民族派と原理。この三つの違った運動があの早稲田の一点から、ほぼ
同時期に生まれ、全国に広がり燃えさかっていった。換言すれば、全共闘に刺
激され、全共闘を反面教師としながら民族派も原理も、己の組織化を急ぎ、全
国的な広がりをつくっていったのである。われわれもそうだったが、原理研が
今やっている大学でのサークル、学内新聞づくり、自治会奪権闘争……などは
完全に全共闘から学んだものである。逆接めくが、今の原理運動も民族派の運
動もある意味では「全共闘の遺産」なのである。全共闘との付き合いについて
はこれまでも書いたことがある。今回はもう一つの原理について書く。
はじめに、「何を今さら」といったが、われわれ、戦後体制打倒をめざす「一
水会」の機関紙『レコンキスタ』(スペイン語で”失地回復”の意味)でも何
度か原理についての批判をしてきたし、原理運動研究家の第一人者である茶本
繁正氏を招いて一水会事務所で勉強会をしたこともある。その時のテーマは「
勝共連合は愛国者なのか」であったし、彼らは民族派の味方ではないこともわ
れわれは明らかにした。
また、われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて
行ったことのある人間もいる。二年前、そんな一人に「私はこうして”原理研”
が治った」という体験談を話してもらい『レコンキスタ』に載せた。当時は「
こうして新左翼が治った」「べ平連が治った」「アナキストが治った」といっ
た体験シリーズをやっており、それら左翼運動と同次元で原理も考えていた。
さらには、われわれ一水会と連帯している統一戦線義勇軍の機関紙『義勇軍報』
でも原理・勝共との戦いを呼びかけており、事実、一水会や義勇軍は他の民族
派と共闘して彼らとの闘いを展開していた。
小さいながらもこうした反原理・反勝共の闘いをやってきたが、これは右翼全
般からは不評で、「思いつきでやってる」とか「勝共は仲間なのに」「敵を利
する」などと批判された。しかし、大学時代からわれわれは彼らを一度も味方
だと思ったことはないし、民族運動の同志だと思ったこともない。学生の時、
早大で知ってた彼らは決して右翼ではなかったし、反共でもなかった。「天皇
なんて関係ない。文鮮明師がすべてだ」「憲法なんてどうでもいいし、興味は
ない」と、正直にいっていた。われわれとは立場は違うが、宗教団体としては
それも当然だろうと思っていた。ところが最近、急激に「右傾化」した。「天
皇制を守り、憲法改正、スパイ防止法の制定を」と言っている。
統一教会・原理研と勝共連合は別だと言う言い訳は通じない。やっている人間
は同じなのだ。なぜ、急に右旋回し、豹変したのか。その右旋回は本物なのか
どうか。すっと疑問に思ってきた。最近の派手な言動に幻惑されて、即「味方
だ」と思ってる右翼に同調できない理由もそこのある。そんな疑問に答えてく
れたのが副島、井上両氏の『文春』のレポート「これが『統一教会』の秘部だ」
だった。そして、『原理講論』をはじめて通読し、両氏の告発が嘘でも誇張で
もないことを知った。


反共は方便、実際は共産主義


イエスが再臨する「東方の国」は韓国であり、韓国語が祖国語となって世界は
一つになるという。なぜ、「東方の国」が韓国かというと、中国は共産化した
からサタン側の国であり、日本は「代々、天照大神を崇拝してきた国として、
さらに、全体主義国家として、…・
韓国のキリスト教を迫害した国」だから、これも「サタン側の国家」だという。
また、「第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米、英、仏の天の側国
家と、全体主義によって結託した独、日、伊のサタン側国家との対戦であった」
という。
これは、『原理講論』にかいてある通りである。そして、韓民族がいかに「サ
タン」の日本によって、侵略され、迫害され てきたかがこれでもか、これでも
かと書かれている。『文春』の告発レポートでは、さらに驚くべき事実が書か
れている。韓民族が選民であり、他民族に優越しており、再臨主とは、すなわ
ち文鮮明氏のことであり、文氏によって世界は統一され、必然的に韓国は世界
の中心となり、韓国語が世界の共通語となる。こう説かれているという。
また、われわれ民族派としては見逃せないこととして「敬礼式」についても『
文春』に書いている。これは文鮮明氏をメシア、王の王とみなす象徴的な儀式
だそうで、本文から引くと…・・。
「統一教会が四代名節と呼ぶ記念日には、早朝五時からの敬礼式があり、そこ
では聖壇に座った『文氏』とその家族に対し、統一教会の主要幹部が三拝の拝
礼を行う。場所はだいたい『文氏』の私邸であるアメリカ・ニューヨーク州の
イーストガーデンである。その際、天皇陛下をはじめ、レーガン大統領、全斗
煥大統領ほか主要国の元首の身代わりを、それぞれの国の教会幹部が担当し、
文教祖一族に拝跪して全世界の主権者が文教祖に拝礼したという儀式を行うの
である。日本の天皇陛下の身代わりを演ずるのは、日本統一教会会長の久保木
氏なのである。
何とも奇妙で、そして国民の象徴として天皇を上にいただく日
本国民としては見逃せない情景ではないか」
全くもってひどい話である。文鮮明氏の精神は、信仰の王国ではなく、現世の
王国を夢み、その独裁者たらんとする。これはまるで弓削道鏡だ。「彼らは反
共だから味方ではないか」と言っていた右翼の人々も、これを読んだら、とて
もそんなことはいえないはずだ。実際、「許せない」「こんな反日集団は敵だ」
と激高していた人が多くいた。僕としても前から、その性格は漠然とは知って
いたが、これだけ証拠をつきつけられては改めて愕然とする思いだった。
これを見ても分かるように、原理・勝共は決して右翼、民族派ではない。では、
一体何なのか。
まず第一に、これは裏返しの共産主義である。「原理研が治った」青年も言っ
ていたが、反共を唱えてはいるが、内部の生活はむしろ共産主義だという。

生について考えている青年や悩んでいる青年をオルグってきては「合宿」につ
れ出し、何日もロクに眠らせずに「洗脳」をする。はじめは「そんな馬鹿な…
・・」と心の中で抵抗していても、しまいには疲れ果てててしまい、批判し抵
抗することも面倒になって全面的に受け入れてしまうという。「思想的強姦」
である。また、洗脳の途中で頭の回路が外れて気が狂ったりした人間も多いと
いう。さらに自由を許されない共同生活、文氏の決める人と結婚する集団結婚
式。本場の共産主義国家、ソ連や中国でも、ここまでは共産主義化していない。
自分たちの内部生活は共産主義で、外部に向かっては反共を唱えている。その
反共も本心かどうかは分からないが、本心だとしても、日本の民族主義とは一
切無縁のものである。さきほど見たように、これはソウルを中心とした反共イ
ンターナショナリズムである。初期の共産主義がモスクワを中心としたインタ
ーナショナリズムだったのと同じ構造である。共産主義と同様に、この原理・
勝共もまた、最も反日的、反民族的運動である。

第二に、その「反共」すらもが本当かどうか怪しい。「統一教会・勝共連合の
宗教活動、愛国運動は『文鮮明氏』の野望を実現することを目的とした方便な
のである」と、副島氏も告発している。
世界の王になるためには、ます韓国の王(大統領)にならなくてはならない。
韓国は反共バリバリの国である。文氏は日本の人と金を湯水のように使って、
全世界的規模での反共活動の「実績づくり」をしている。そのための反共であ
り、韓国→世界の王に向けての手段である。反共運動の全部が全部、仮面とは
言えないにしても、原理運動と世界の王になることが第一の目標であり、反共
運動は二の次、三の次ぎであろう。
また、反共活動をいっしょにしている自民党や体制派文化人にたいしては、勝
共連合に入るように勧めるが、統一教会、原理研には入れようとはしない(な
かには一部の例外もあるが)。原理運動をしている人間は想像を絶するストイ
ックな生活をしている。物欲でこり固まった自民党や体制派の人間をストイッ
クに改造はできない。反共という衣をつけて、ハナから利用するためだけに近
寄っているのだ。あるいは、そうした金と物欲に目がくらんだ自民党サイドの
人間に対し、「いつか必ず自分たちの前に拝跪させてやる」と復讐の念を燃や
しているかもしれないが。


虐殺兵と似た目つきの原理研


第三に、これは全体主義である。茶本氏は「ファシズムへの道」だというが、
その通りだ。文氏は、いわはヒットラーであり、『原理講論』は、さしずめ『
マイン・カンプ』である。『マイン・カンプ』の中には徹底した日本人軽視、黄
禍論があったが、日本語板ではそれを削除し、ヒットラーの力の前に幻惑され
て日本は手を結んだ。それと同じように韓民族が選民であり、世界の中心だと
いうことは、日本語板の『原理講論』では意図的に削除されてきた(最近は居
直って日本語板にも出しているが)。これと同じ過ちを日本の体制側、そして
一部の右翼は再び犯そうとしている。

第四に、この狭量なストイシズムは宗教としては光輝いて見えるが、世俗的権
力の奪取、文王朝の建設を目指すという政治の世界には入るや、必ず悪い結果
になるということだ。ロベスピエール、カルヴィン、松平定信…・・と、その
先例は歴史上にいくらでもある。
ツヴァイクの『権力とたたかう良心』によると、宗教改革に成功したカルヴァ
ンは、他人のどんな小さな過ちも許せない狭量、厳格な人間で、徹底した恐怖
政治を敷き、「罪ある者が神の裁きをまぬがれるくらいなら、むしろ罪のない
者が処罰される方がいい」と公然と告白したという。また、カルヴィンやロベ
スピエールはそのいい例だが、「禁欲と苦行のひとというのは、いちばん危険
な専制君主の典型である」と、ツヴァイクは言う。
それをもっと推し進めればカンボジアのポル・ポトになる。古い体制、古い倫理
観の人間は殺して、殺し尽くした。人口の半分も殺したというが、国民の半分
を殺して達成しなければならない革命とは一体何なのか。地獄のカンボジアを
実際に見てきたある新聞記者はこんなことを言っていた。古い体制の人間を殺
す尖兵は、少年たちだったという。その少年兵たちの目は、人間の生死はもと
より、もう何事にも感動を示さないし、 いわば<ゾンビ人間>の目だったとい
う。そして、その目はしょうど原理研の人たちの目に似ていたという。未来を
暗示するようで、何かゾッとする話だ。


「贖罪意識」につけ込む文鮮明氏


第五に、彼らもまた、<狼>だ。これだけでは何のことか分からないだろう。
僕は十年近く前、三一書房から『腹腹時計と<狼>』という本を出したが、
の爆弾事件の<狼>とあまりに似ていると思うのである。個人的なまじめさに
おいて、また、日本の戦争に対する贖罪意識の余りの強さにおいて・…。
両者に
とっては先の戦争はまさしく原罪である。日本は韓国や中国に侵略し、残虐の
限りを尽くしたひどい国だ、と教えられ、一途に信じ込む。だから、再び、そ
うした国に経済侵略してゆく企業には爆弾を投げるという<狼>。彼らの中に
は「自分の祖父や父は兵隊になって侵略したから自分はその贖罪のために新左
翼運動に入った」と公言するメンバーもいた。
それに対し、侵略した「サタン側の国」(日本)からは、いくら金をしぼり取
り、人間を消耗品のようにつかってもいい、という原理・勝共。朝鮮人参、印
鑑、大理石のツボ、花売り、街頭カンパ等、ありとあらゆる方法で日本から金
をかき集める。
詐欺まがいの商法で、ピンク産業以外は何でもやっているとい
う(もっとも統一教会としては、上からの指令はしていないと逃げているが)。
末端の会員ですら月に100万円のノルマを課せられ、日本全国からは月に2
0億円、年に240億円もの金がアメリカの文鮮明氏の元に送金されていると
いう。合法、非合法を問わない強引なやり方で「サタンの国」からは徹底的に
金をしぼりとり、文王朝のために日本人は手足として使い、使い捨てにすれば
いいという考えだ。
会員もそれに甘んじている。これは日本の戦争に対する韓国側の復讐なのかも
しれないが、日本人会員にとってはそうすることによって「侵略戦争」の贖罪
ができると思っている。<狼>クループ同様、屈辱的な贖罪史観、敗戦コンプ
レックスを色濃く引きずっている。
第六に、文王朝建設のために日本人の<献身の美徳>が最大限に利用されてい
る、ということだ。いつの時代にも、他人のため、世界のために体をかけて働
いてみたいと願う正義感の強い青年たちはいる。方向性は違っても、戦前の青
年将校、在野の右翼運動、日本赤軍…・・。そして多分、原理運動に飛び込ん
だ人たちも大部分はそうした純粋な動機からだろう。
今の日本のように皆が皆、自分さえよければいい、金がすべでだ、マイホーム
だ、酒だ女だとうつつを抜かしている時代にも、人生を思いつめ、命をかけて
恵まれない人のために尽くしたい、世の中を変える捨て石になりたいと思う青
年たちはいる。
戦前のように反体制右翼の国家革新運動があった時には、そこに飛び込んだか
もしれない。全共闘華やかしなりしころならば、そこに飛び込んだかもしれな
い青年たち。原理運動に入った人たちもそんな青年たちだろう。パンの耳を食
べて生活し、クズ屋をしたりしながら酒もタバコも一切の娯楽もやらず、ひた
すらストイックに運動をしている原理運動の人たち。学生時代、「生長の家」
や右翼では生ぬるい、こんなことでは世の中は救えないといって原理運動に飛
び込んで行った人々を何人も何人も知っている。「生長の家」や民族主義運動
にかかわっていた自分たちとしても、そうした人々を引きとめられなかったふ
がいなさを痛感していた。
今どき、珍しい純粋でストイックな青年たちだ。だからこそ、惜しいと思う。
これが日本のためになる、日本人の先祖の贖罪はこれしかない、これこそ世界
の平和のためだと思って献身的に運動している人々だろう。だが、その献身性
は残念ながら反日、反民族的な文王朝のために利用されているだけなのだ。あ
るいは、日本の原理運動の指導部はそれに気づいているのかもしれないし、日
本的原理運動を考え模索しているのかもしれない。しかし、『世界日報』事件
でも分かるように日本のトップ・久保木氏を飛び越えて、アメリカの文氏から
の指令によって、そうした萌芽はつぶされている。


脅威の野望、あなどれない力


だから文氏にとって、会員ではあっても日本人には心を許せないのであろう。
本誌(『朝日ジャーナル』昭和六十年十一月三十日号)でも書いてたが、アメ
リカでは最高幹部は韓国人、実務をとりしきる中堅幹部は日本人、第一線で手
足となって働き、金を稼ぐのも日本人、それに加えて日本からの大量送金……。
そういう構図になっている。日本人会員が目覚め、日本的原理運動を目指すの
が一番こわい理由もそこにある。そのへんを副島氏ら(文春)はこう言ってい
る。
「『文鮮明氏』と韓国人の統一教会幹部には、日本統一教会内に日本人として
の誇りを持つ人間が現れることの警戒心が強い。日本人に対しては、とくに尊
大になる。この『文鮮明氏』の日本統一教会とその幹部への強い不信と、そこ
から来る強圧的な姿勢の根底には、韓国・朝鮮人としての日本人に対する、反
日感情がある。……日本の復興は朝鮮戦争の特需によるもので、韓国・朝鮮人
の犠牲のうえに日本の繁栄が成り立っているという理屈である。だから、教祖
は、日本から莫大な金額を持ち出すことも、そのために日本人会員が苦吟する
ことにも、良心の呵責を感じないと断言している」
これでは、いつまでたっても日本人は贖罪に苦しみ、敗戦コンプレックスをひ
きずる<狼>だ。文鮮明氏の反共は、多分は北から命からがら逃げてきた体験
からくる恨みだろう。祖国語を韓国語にするというのも、あるいは日本によっ
て韓国人が日本式名前を押しつけられたことへの復讐かもしれない。宗教家に
恨みや復讐は似合わない。久保木氏を始めとした日本の原理運動の人々も、で
きることならば文鮮明氏と手を切り、独立し、日本的原理運動を目指したらい
い。贖罪や敗戦コンプレックスの『原理講論』からも解放されてだ。文氏のた
めに祖国日本への「復讐の手先」とされたのではたまるまい。そして心にもな
い反共運動の仮面も捨てて、本来の宗教運動に戻ったらいい。まァ、これは無
理かもしれないし、いらぬおせっかいかもしれないが。
ともかく、原理・勝共の青年たちを「反共だから仲間だ」「選挙に応援に来て
くれるから同志だ」と安易に考え、付き合っていたら大変な目にあう。彼らの
ストイックなまじめさは見とめる。自民党青年部にも右翼にも、こうした青年
は少ない。だからこそ、彼らに感激するのだろうし、その気持ちは分かる。わ
れわれだって、くやしい。だが 、彼らは決して自民党や右翼の使い走りではな
い。彼らの力を見そこなってはいけない。
彼らの力をもってしたら全国で一人や二人の国会議員を身内から出すのは簡単
だろう。それをあえてしないのは、もっと大きな野望があるからだ。
元、原理
研にいた友人に聞いたが、それは久保木氏を日本の首相にしようという野望
という。世界の独裁者は文氏で日本の首相は久保木氏というわけだ。自民党や
保守的文化人、右翼に近づき、それらの人々をシンパにしようとしてるのもそ
のためだし、大学でのオルグもそれを射程にいれてなされているという。
そういえば、大学の自治会乗っ取りや学生新聞発行にアタックしているところ
はみんな一流大学ばかりだ。東大、北大、名大、阪大、京大…・と、将来エリ
ートになる大学生のみを狙い撃ちしている。そう言っては悪いが、二流、三流、
駅弁大学は初めから相手にしていない。
こうした野望は今わ夢物語だ。ちょうど「日韓トンネル」と同じように。しか
し、それに向かって進んでいることは事実だろう。今の反日・反民族的体質の
ままそれが進められたら、日本にとっても一大脅威である。
何度も言うように、決して彼らをあなどってはならない。むしろ民族主義運動
の<敵>として彼らを認め、その力を評価してやるべきだ。彼らにとっても、
その方が気が楽だろう。「反共だからわれわれの仲間だ」「自民の手先だ」「
何でもいうことはきく」と、今、安易に考え、あなどっている人間には、必ず
そのしっぺ返しをくうであろう。そしてその時ではもう遅いのだ。

(『朝日ジャーナル』昭和六十年二月一日号)

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