普通の地震だと、コトコトこと…と、始まり、がたがたがたとなるのに。

いきなり、がたがたときて、すかさず大揺れになりました。

もちろん、ふだん、地震がない神戸のこと、どの地震が、どうちゃらこうちゃらいえるほど、体験はありません。

でもね、たしか、いきなり縦揺れで始まってるはずです。

しかも、自然の地震は、震源地は1点なのに、あの地震は、10秒後に、もう一点で発生しました。自然の地震というには、無理がある。

あれは、平成7月の、年が明けて、すぐでした。

その前の6年3月まで、(5年4月からの一年間)神戸市は、アーバンリゾート都市という名前のイベントをしていました。

そして、北野町の異人館街の、各異人館の図面など、復元に必要なすべての資料を作成していました。

それを知った時、人工地震だなんて夢にも思わない私は、神戸は運がよかったと、思いました。

詳細な記録があるから復元できた!と。

熊本城もそうでしたね?少し前に、詳細な調査をしていますよね。

もし、調査をしていなければ、復元は難しかったかも?

このことが、心に引っ掛かりました。

人工地震を仕掛けるので、あらかじめ準備をしていたのではないか?

そして、各区のお祭りなど、ソフトも面も、平成5年度に集大成させていました。

なので「復旧」に、向かうとき、そこから、復旧していきました。
できすぎた筋書きでした。

それでも、だから、人工地震だろうというんもねえ?

その次、引っ掛かったのは、婦人会(神戸の婦人会といえば、神戸市内で一番羽振りの良かった組織なのに)が、被災者へのボランティア活動や、相談活動など、被災者を、助ける動きを、全くしないことでした。


しかも、幹部は、「あの時、自分は、どこにいて、揺れはどうだった」という話題を、全くしませんでした。何か月も、東京にいて帰ってきませんでした。

ん?いつ、東京に行ったのでしょう?震災で新幹線も止まったのに。

神戸市長、笹山一俊氏の動向は、間もなく聞こえてきました。

5時46分の震災。市民は全員被災者でした。

でも、市職員は、なんとかして持ち場に駆け付けました。

8時15分に市長室に到着した職員の前に、どっかと腰を据える市長の姿がありました。
半壊の自宅から、出て、迎えの車で、道なき道を市役所にかけつけ、そのまま自宅には、何週間も戻らなかったそうです。
1996年1月17日、灘消防署にて
(1995年1月17日夕方)
なのに、テレビのインタビューに答える笹山さんは,たださえ、困り顔の八の字眉を、もっと、さげて「困っているんです~」というばかりで、

えらそうに指揮を執る貝原知事のほうが、ずっと、立派に見えました。

けれど、余震も収まってから、えらそうに顔を出して、大きな声で物を言うけど、貝原さん!
あんたが、自衛隊を要請しなかったから、燃え無くていい命が、燃やされたんじゃないか?!

一体、あの瞬間、どこにいたのよ?

問われて、彼は、えらそうに「司令官たるもの、おろおろしてはならない。」と、答えにもならない答えをした。

なので、「いい人のところに泊まりに行ってたんじゃないか?」と。うわさされた。

自宅にもいない、庁舎にもいない、10時になっても、現れない。

伊丹と姫路の自衛隊の基地から、「出動したい」という電話が鳴り続けたのに。

知事の許可なしにははいれないんだ。

10時半になって、ついに、姫路の自衛隊が「もう、これ以上見殺しにはできない。どうなってもいいから、入るぞ!!」と言われ、電話に出た県庁職員(係長クラス)が「入ってください」と、許可を与えたと聞く。

神戸市はDS都市だから、ユダヤ・朝鮮ラインとつながっている要人は、前から知っていて、その夜、神戸にはいなかったのだと思う。

当然、家の土台が崩れて住めなくなった前の市長宮崎さんも、自宅にはいなかったと思う。


後日「だから、あの時、立ち退きに応じてくれておれば、こんなことにはならなかったのに」と、嘆いたと聞いた。


ここまでなら、それでも、偶然だとか、言ってもいいよ。

でも、その後の復興段階で、40階建てのマンションが、ぼこぼこ立ったけど「長谷工」とか、聞いたことのあるマンション業者の名前は、どこにもなかった。


いったい、あの時、神戸に集まった莫大な金は、誰が持ち去ったんだろう?

市も県も報告しない。

しかも、揺れが収まるや否や、笹山さんは「空港をつくる。絶対作る」と、発言して「被災者対策は、どうなってるんだ」と、市民を怒らせた。

空港ー人工島ー明石大橋ーこれは、DSの企画だ。

揺れがどうだとか、断層がどうだというまでもなく、総合的に俯瞰すると、計画通りに進められたとしか思えない。

そして、数年後、唐突に貝原さんは辞任した。妻が癌にかかったので看病すると、殊勝なことを言い出して。


それは、選挙の時期より、数か月早かったので、相手方には選挙準備の時間がなかった。なので、すんなりと、井戸さんは、知事に昇格した。副知事だった。


貝原路線のすべてを引き継いだ。

今こうして、その後に入り込んだ斎藤知事のスキャンダルを見ていると、井戸県政、貝原県政は、大丈夫だったのか?と、不安に思う。


貝原さんが、腹心の井戸さんするりと譲ったのは、
自分の足跡をほじくり返されたくなかったからだと思う。

ほじくればまずいことがいっぱいあったのだと思うよ。


だって、その少し後に、パーティで「奥様お加減はいかがですか?」と、問われて「はぁ?」と、けげんな顔をしたので「奥さんが、癌だなんて、嘘よ」と、ささやいた人がいたもの。


闇は深いね。

疲れる。

でも、一番馬鹿にされた笹山さんだけど、私は、笹山さんを大好き。彼がいてくれたので、大震災の思い出にも、少し、光が差す。

震災後2週間目に、笹山さんは、北区にある新神戸トンネルの事務所に姿を現した。

そこなら、水もライフラインは全部そろっていたから

「親父は、風呂に入りに来てくれたんです。」係長さんが。まるで、本当の父親のことのように、嬉しそうに話してくれた。「震災後、一度も家に帰らず、それが、初めての風呂だったそうです」

親父が頑張っているのに、俺らが弱音を吐いてはいけないと、思って、建設も、環境も消防も、水道も、頑張ったんだと思う。

だから、復興できた。

笹山さんが辞めてから、多聞寺で笹山夫妻に出会ったという人が、話してた。
「笹山さんと寺で出会ったわ。あの話は本当やったんやな。市長をやめてから、市内のすべてのお寺に夫婦でお参りしているって」


私は、笹山さんだったから、神戸は復興できたと思っている。
笹山さんには、あの大震災時の責任者として、心残りなこと悔やみきれないことが、たくさんあったのだと思う。

リーダーは孤独だよね。笹山さんは、すべての天下り先を断ったけど、頼むから「市民福祉振興財団の理事にだけはなって」といわれて、それだけを受けた。

他の幹部は、いくつも兼任している。


笹山さんは、考え深く、物知りだったけど、声が「癒し声」でね、話し始めて15分もすると、会場は全員熟睡してた。いいひとだったなあ。