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徽宗皇帝のブログ

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自由と束縛

「混沌堂主人雑記」から転載。
これからの経済の向かう先についての示唆が含まれているかと思うので、転載した。

「シュタイナーから……」のほうは、キリスト教とかカルマとかいった思想や概念が胡散臭く見えるが、主張している中には興味深いものがある。特に、「物質の所有と自由とは相反する」という思想は面白い。
確かに、何かを所有すると、その物への執着心が生じ、それは自由に反するものだ。ただ、当人はその不自由に気づいておらず、むしろ、何かを所有することで自分が巨大な力を持ったという感覚を持つ。実際、それは俗世的な力の源である。つまり、「権力」だ。権力とは「他人を服従させる力」だから、他人の自由を奪い、自分が自由にふるまうことである。独裁者こそがこの世では一番自由な存在だと多くの人が思っていると思うが、それは「権力を狙う他者」への猜疑心に満たされた、小心翼々たる自由だろう。たとえば、あなたは金総書記の境遇になりたいか。安倍総理として生きたいか。
話が経済の話から脱線した。
「物質の所有と自由は相反する」というのは、面白い概念だが、残念ながらそれは宗教的な観点、スピリチュアルな観点からの話であり、実生活においては、自由を保障するものは、何よりもまず所有なのである。残念ながら、そうなのだ。財布の中味が1万円しかない人間は、今日一日をどう食いつなぐか、という以上に頭は回らない。カネの有無は思考そのものを規定するのである。ならば、そういう「自分の身の周り数メートル」以上の範囲に思考が及ばない生き方を自由であるとはとても言えないだろう。誰もがディオゲネスや良寛のように生きられるわけではない。妻子を養うためには、人殺しをしてでもカネを手に入れる必要があり、それを誰が責められるだろうか。
まあ、要するに、宗教家の説法に耳を傾けるのは、それだけの生活の余裕がある人間だけであり、昔から言うように「恒産無ければ恒心無し」なのである。
話が長くなったので、「所有と自由」の話はここまでにしておくが、下の記事にはほかにもいい思考のネタがありそうなので、いずれ再度言及するかもしれない。
たとえば、


「この足るを知り、自己を実現する、自分はこれでいいと社会に見合った位置を共有する、という最も身近な譬えとは、実は結婚なのである。」


は、私も同感する。(「譬え」という言葉の使い方がおかしいが。この文脈なら「手段」「方法」と言うべきだろう。)これはまさに賢者の言葉と言うべきだろう。結婚することで人生に意味や小さな目的が自然に生まれる。毎日を娯楽だけに消費していた人間は、その娯楽を「家庭生活の維持」に振り向けることになり、それを大きな犠牲だと考える人もいるだろう。だが、兵隊生活や運動部の生活が、慣れればさほど苦痛でもないのと同じことで、会社勤めも家庭サービス(この言葉にはかなり問題があり、働き手が家庭業務の一部を負担するのはサービスではなく、当然の義務だと思う。)も苦痛でも何でもなくなるものだ。
そして、子供がいると、生活は楽しいものである。前にも書いたかもしれないが、エスキモー(これは差別語らしいが、イヌイットとか何とかいう言葉には違和感がある。)の夫婦は、子供が成人すると、よそから赤ん坊を養子に取って、子育てを老後の楽しみにすると昔聞いたことがある。そう、子育ては娯楽なのである。それを苦労だと思うから苦労になるだけの話だ。会社の仕事だって勉強だって、それを娯楽だと思えば娯楽にもできるだろう


(以下引用)

新時代は、エゴエゴのハングリー精神では生き残れません。

シュタイナーから読み解く神秘学入門 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

人類があまりに愚かで、あまりに経済がインチキだらけで格差をみれば明らかなように、人類同士で詐欺強奪する経済になり、行き詰まっているので、経済の原則について書きたい。

経済とは、不足を補う事である。足らないものに与えることが経済行為なのである。利潤を追求することではない。それではモーゼの十戒に背いてしまう。利潤を追求するのは詐欺にあたる。

第一、利潤を追求すれば、カルマの法則で、負債を負うことになるからである。だから利潤を追求すれば、地獄に堕ちるだろう。

だから、経済とは、利潤追求では断じてないのである。ここが現代人の大いなる過ちである。だから、もし誤って、短期的に利潤を追求することになれば、長期的に利潤を得たところに還元しないとダメなのである。

経済とは、不足を補うことだというが、どれぐらい不足している、のかの目安は何なのか、と反論されるかもしれない。

何が不足しているのか、といえば、与えるという博愛である。だから経済行為には博愛が必要不可欠で、博愛の不足が生じるのは、自己が実現していないことにあたる。

自己を実現するために、人はこの世に生まれてくる。自己を実現するのに必要なのは、博愛と自由の精神である。博愛と自由を担保するのが、カルマの法則による平等の精神である。

足らないという人は自己が実現していない。だから、皆が協力してそれぞれの自己実現を手助けするのが経済行為なのである。

さて、現代の経済はあまりにも唯物論に染まってしまい、特に物的投資論が盛んで、インチキ数学が蔓延って、世の中を複雑化させ、混乱を生んで、格差社会を拡大している。

それもこれも、「自由」の概念があまりにも、物質的だからである。物質の自由はありえない。物質自体が、誰かの所有になれば、その誰か以外の自由の障害になるからである。

つまり、一人が所有すれば、他の人は所有できないわけで、物質の本質とは自由とは相いれない性格をもつから、物質所有によって利潤を上げようとする現代の経済は根本から誤っていて、「自由な経済」という言葉自体が、「平和な戦争」と同じく既に間違っているのである。

だから、所有の概念を捨てない限り、自由な経済はあり得ない。

では、どうやって所有の概念を捨てるかといえば、最近になってようやく一部の経済学者が気づきつつあるが、レンタルの概念、もしくは共有の概念を導入すべきなのである。

共有の概念とは、決して新しいものではなく、もっとも古い概念で、国家の概念や公的機関の概念がそれである。

共有、レンタルの概念とは、実は最も古い概念で、それがどうして新しく感じるのかといえば、私物化という所有の概念を、共有の国家や公的機関に持ち込むからである。

所有化の概念とは、唯物論からはじまった、もっとも陳腐で、皮相的な、割と新しい概念で、なんでも私物化してしまうというのは、要するに精神年齢が低いことを意味する。この国の政治家やアホ総理をみれば明らかであろう。

そこで、このレンタル、共有の概念を、私物化という所有の概念を抑えるために、どのように再び、回復させるべきかといえば、老子の思想を持ち込むのがよいと思われる。

老子を現代の経済に当てはめればノーベル経済学賞ものであろう。

老子を読み解いて、いかに経済の共有の概念にあてはめるか、が現代経済の課題である。

簡単にいえば、物質は一つでは、一人しか所有できないが、巧く所有に見合うように分割すれば、その分を所有できる。

どのように物質を分割すれば、所有したいという各人の自己実現のためになるのか?

この物質の分割と、各個人の自己実現に橋を架けるのが、現代の老子を用いた経済であるべきなのである。

物質を分割していけば、素粒子になるが、それでは、各個人の自己実現には結びつかない。つまり、唯物論ではダメなのである。

人はなぜモノを所有したいのか?

モノを求めることは、同時にそのモノに束縛されることで、モノである限り、自由ではなく、不自由を求めていることになる。

現代の詐欺経済の宣伝などで洗脳され、見境なく、モノを求めれば、かえってその分モノに拘束され、自由がなくなるので、最近は断捨離が流行るようになってきたことでわかる。

だから、人間がモノを求めるのに、不自由であってはダメなのである。不自由な現代の格差詐欺経済を続ける限り、モノに束縛され、特に金持ちはキリストが言ったように、地獄に堕ちることがわかる。

現代人の多くがモノを求めて、地獄に堕ちていく。

だから、現代人は考えを改めないといけない。

人はなぜモノを求めるのか?

それはモノに閉じ込められた力を獲得したいからである。

カネを求めるのは、カネにより生活の安定への保障を求めているわけで、つまり安定した生活の信頼を得たいからである。

だから、モノを求めているのではなく、実際は、未来の自己実現を求めているのである。

だから、モノを求める行為を、所有行為にしてはならず、自己実現行為にしないといけない。それにはなにより博愛が必要不可欠なのである。

現代の詐欺経済を、創造共有経済に変革するカギが老子である。

老子とは、端的にいえば陰陽論に帰する。

人は、自分とは逆の立場の人を求める。

実は、この陰陽のお互いが逆を求めるというのはカルマの法則でもある。

この陰陽論の間に共有とレンタルの概念を持ち込むべきである。

例えば、既にあるが、老人ホームと保育園を一緒にし、お互いの人生を共有する、というような陰陽論に沿った経済概念を確立することである。

自由とは、何ものにも束縛されないということで、それは実はネガティヴな考えをもたないということである。

常に足るを知り、自己を実現する、ということなのである。

自分はこれでいいと社会に見合った位置を共有するのである。

この足るを知り、自己を実現する、自分はこれでいいと社会に見合った位置を共有する、という最も身近な譬えとは、実は結婚なのである。

男女という陰陽の反対の立場を互いに求めながら、互いに束縛されずに自由に生き、自己実現を行う、という課題を背負うのは、結婚だからである。

結婚生活ほど経済学の教科書になりえるものはない。だから結婚には経済が不可欠なのである。結婚生活を続けられない人は経済学を修めることはできない。

いまはここまでしか思い浮かばないが、いずれ書き込んでいきたい。



・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり



産めよ増やせよ大和撫子((旧日本の独立を目指して))) より


上記文抜粋
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三方得はゼロ成長時代の経営学かも  


成長時代の経営はひたすら働け

であるがトータルがゼロ成長でも成長していくには?

150年間技術革新と市場拡大(人口増加)がなかったのですから、江戸の経済の状況は非常に参考になるでしょう。

かなり高度な経営をしないと生き残れない。

技術革新が抑制された状態で価値を絶えず生み続けるのはどうするのか?

技術革新が絶えない今の方がマシだと言えるでしょう。

現代は技術革新はものすごいが、それが人口増加に結びつかず

かえって、経済縮小に向かうかも。

今の消費財は大変優れていて、そのままでも10年くらいは保ってしまう

自動化、人工知能化もサイズの縮小と、必要物の縮小、食事も少食時代へ向かう

寿命が延びると消費が減る。

面白さや変わったもの、観光や演劇など、知的なものに関心が移っていく

江戸期は熟成へ向かった。

どんどん高度化していくが消費の総体は伸びない

量は増えないが質が変わっていく。

江戸期の食物はエネルギーとしては不変だが、どんどん味が良くなる

絵画や工芸品なども高度化へ高度化へと向かう。

商品は差別化したものしか売れないので、どんどん高度化する。

これと今の爆発的科学知識の発展と結びつくとどうなるか?

やはり、余暇の増加と文明の高度化、精密化だろう

盆栽のような極度に知的だがほとんど資源を浪費しないものになっていくのか

江戸期の特徴は省資源と精密化だった。

今、エネルギーは解放されつつある。しかし、人間は増えない。

地球環境が資源的に支えきれない。

宇宙大航海時代が始まるまでは増えない(日本島嶼パターン)のかも、あるいは生存秩序破壊が大規模に起こって人口激減(中国大陸パターン)するのかも




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・・・・・・・・・
抜粋終わり


三方得で「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ」でいくのが良い。

ハングリー精神のエゴエゴでは、もうダメですは・・。少なくとも時代遅れでダサいです。


お読みくださりありがとうございます。


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