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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

若者よ、空気などに支配されるな
まあ、もう一度、家族全員で「火垂るの墓」でも見て、今の日本の姿、今後の日本がどうなるかを考えてみることである。
私? 家族と一緒には絶対に見ません。涙腺崩壊して、父親の威厳も何もあったもんじゃない。

特に若者に言いたいが、孤立が怖くて、周囲に調子を合わせるのは仕方がないにしても、心の中まで空気に支配されてはならない。それはすでに洗脳状態、家畜状態なのである。
誰の言葉か忘れたが、

「一人で立つ時、人間は高貴である」

という言葉がある。これは、何よりもまず、内面的な自立性と考えてもいいと思う。
群衆化した時、人は家畜状態になっている(それはあの戦争になだれ込んだ時の国民の状況を見れば分かる。)、というのが「一人で立つ時、人は高貴である」という言葉の裏の意味だろう。



(以下「阿修羅」から引用)



宮崎駿に続き高畑勲も安倍首相を批判!「『火垂るの墓』では戦争を止められない」(リテラ)
http://www.asyura2.com/15/senkyo180/msg/369.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 2 月 21 日 21:00:05: igsppGRN/E9PQ
   
 

                  DVD『火垂るの墓』(ワーナー・ホーム・ビデオ)


宮崎駿に続き高畑勲も安倍首相を批判!「『火垂るの墓』では戦争を止められない」
http://lite-ra.com/2015/02/post-886.html
2015.02.21. リテラ


 ついに日本時間の23日、第87回アカデミー賞が発表になる。注目は、長編アニメ映画部門賞にノミネートされている高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』の行方。長編アニメ映画部門で日本人がノミネートされるのは、宮崎駿監督以外でははじめてのこと。さらにもし受賞すれば、2002年の『千と千尋の神隠し』以来2度目の快挙となる。下馬評では『ヒックとドラゴン2(仮題)』の受賞が有力視されているが、『かぐや姫の物語』の群を抜いた芸術性によって、高畑監督は世界から視線を集めているといっていいだろう。


 高畑監督といえば、1988年に日本で公開された『火垂るの墓』が海外でも高い評価を受け、イギリスでは実写映画化される予定も。いまなお“反戦映画”として引き継がれている名作だが、じつは、高畑監督はこの自作について意外な認識をもっているらしい。


「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか。そう言うと大抵は驚かれますが」


 このように答えているのは、今年の元旦、神奈川新聞に掲載されたインタビューでのこと。


 しかし、『火垂るの墓』を観たときに多くの人が抱くのは、なんの罪もない幼い兄妹・清太と節子が戦争に巻きこまれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみだ。そして、やさしいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという、戦争のもうひとつの恐ろしさを知る。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない──そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと思っていたし、実際、学校などでも「戦争という過ちを犯さないために」という理由で『火垂るの墓』が上映されることは多い。
 
 それがいったいなぜ役に立たないのか。高畑監督はこう語っている。


「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」


 そう。高畑監督にいわせれば、「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだと指摘する。


 これを聞いて思い出したのが、百田尚樹氏やその支持者がしきりに口にしている『永遠の0』=反戦小説論だ。


 先日、本サイトでも検証していたように、『永遠の0』は反戦でも何でもない、明らかな戦争賛美ファンタジー小説だ。軍上層部を批判してはいるが、こうすれば勝てたのにと作戦内容を糾弾しているだけで、戦争を始めたこと自体は一切批判していない。「死にたくない」というのが口癖の人物を主人公にし、特攻隊員が生命をかけていることについては悲劇的に描いているが、彼らが米軍機を容赦なく撃ち落としていることはまるでスポーツ解説でヒーローを褒め称えるように全面肯定している。


 つまり、百田たちはこの程度のものを「私は『永遠の0』で特攻を断固否定した」「戦争を肯定したことは一度もない」「『永遠の0』は戦争賛美じゃない、反戦だ」と強弁しているのだ。


 それに比べて、あれだけリアルに悲惨な戦争の現実を描きながら、自作のことを「反戦の役に立たない」という高畑監督のシビアさはどうだろう。


 だが、高畑監督の言うように、死にたくない、殺されたくないというのは、一見、戦争に反対しているように見えて、それだけで戦争を抑止する力にはならない、というのは事実だ。


 死にたくない、というだけなら、その先には必ず、死なないために、殺されないために相手を殺す、という発想が出てくるからだ。さらに、存在を放置しておいたら自分たちが殺される、という理由で、先に攻撃を加えるようになる。


 実際、これまでの多くの戦争が「自衛」という名目で行われてきた。日本国憲法制定時の総理大臣・吉田茂は「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛 権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。」と言ったが、先の戦争はまさにそうだった。日本はアジア各国で『火垂るの墓』の清太と節子と同じように罪のない人たちを戦争に巻きこみ、日本兵が殺されたように他国の兵隊や一般市民を殺してきたのだ。


 それは最近の戦争も変わらない。いや、ありもしない大量破壊兵器の存在を名目にアメリカが始めたイラク戦争のように、「殺されたくないから先に殺す」という傾向はますます強くなっている。自分は安全な場所にいてミサイルのスイッチを押すだけなら、戦争してもいいというムードさえ出てきている。


 本当の意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる。おそらく高畑監督はそう言いたかったのだろう。


 だが、残念ながら、この国はまったく逆の、百田的な方向に向かっている。「殺されたくない」という人の気持ちを利用して、集団的自衛権の行使容認や憲法9条の改正を目論む安倍首相をはじめとする勢力と、彼らがつくり出している空気に、いま日本は覆われようとしている。


 高畑は同インタビュ―でそうした動きについても踏み込んで、つよく批判している。


「「戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う」とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」


 そして、高畑は“憲法9条があったからこそ、日本は戦争によって殺されることも、だれかを殺すこともしないで済んできた”と言う。それがいま、安倍首相によって崩されようとしていることに強い懸念を示すのだ。


「(憲法9条が)政権の手足を縛ってきたのです。これを完全にひっくり返すのが安倍政権です。それも憲法改正を国民に問うことなく、憲法解釈の変更という手法で、です」
「「普通の国」なんかになる必要はない。ユニークな国であり続けるべきです。 戦争ができる国になったら、必ず戦争をする国になってしまう。閣議決定で集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に直面しているのではないでしょうか。あの戦争を知っている人なら分かる。戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。始めてしまえば、私たちは流されてしまう。だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが必要なのです。それが9条だった」


 高畑がその才能を見出し、ともにライバルとしてスタジオジブリで切磋してきた同志・宮崎駿も、先日、ラジオで改憲に踏み切ろうとする安倍首相への危機感と9条の重要性を口にした。だが。映画界の世界的な巨匠ふたりが揃って発するメッセージを、安倍政権がまともに相手にすることはないだろう。


 しかし、それは結局、わたしたちの選択の結果なのだ。高畑はこの国の国民のメンタリティについてこんな懸念を表明している。


「(先の戦争について)いやいや戦争に協力させられたのだと思っている人も多いけれど、大多数が戦勝を祝うちょうちん行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉です。
「空気を読む」と若者が言うでしょう。私はこの言葉を聞いて絶望的な気持ちになります。私たち日本人は昔と全然変わっていないんじゃないか、と。周りと協調することは良いことですが、この言葉は協調ではなくて同調を求めるものです。歩調を合わせることが絶対の価値になっている。(中略)
 古くからあるこの体質によって日本は泥沼の戦争に踏み込んでいったのです。私はこれを「ズルズル体質」と呼んでいますが、「空気を読む」なんて聞くと、これからもそうなる危うさを感じずにはいられません。」


(酒井まど)




(追記)孤立や孤独を恐れる人に、「孤独の格言」をプレゼント。



・一人で行く人は今すぐにでも出発できるが、他人と一緒に旅する人は他人が準備するまで待たなければならない。
byソロー(米:思想家)


 


・都会の暮らし――何百万人もの人々がいるのに、みな孤独。
byソロー(米:思想家)


 


・他者を知ることは知恵。自分を知ることは悟り。
by老子


 


・孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。いずれにせよ、人格が磨かれる。
byニーチェ


 


・最も不幸なこと――それは一人でいられないこと。
byラ・
ブリュイエール 


 


・また一人になった。人は一人にいることに慣れる。
でも一日でも他の人と過ごすと、また一人でいることに慣れなければならない。
byリチャード・バック


 


・どこにも人を引きつける所を持たないことを自覚している人間は、
それについてくよくよとあせるより、自然のままで一人で生きているほうが賢明である。
by河盛好蔵「人と付き合う法」


 


・意志もまた、一つの孤独である。
byA・カミュ「手帖」


 


・孤独は、知恵の最善の乳母である。
byM・シュティルネル


 


・孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸ばして、じっと見詰めよ。
孤独の感じは急に迫ってくるであろう。
by三木清「人生論ノート」


 


・孤独の生活の目的とは、もっとゆうゆうと、もっと気ままに暮らすというただ一つであると私は信ずる。
byモンテーニュ「随想録」


 


・世間一般の考えに従って生活することはごく易しい。また、自分の事だけ考えて孤独の生活を送る事もごく易しい。
だが悟りを開いた人間とは、群集の真っ只中にありながらも、自立の醍醐味を心ゆくまで味わうことのできる人間である。
byエマーソン


 


・生き物は全て孤独である。そして人間は自らが孤独であることを最も良く知る者である。
byE.アラン


 


・孤独とは、港を離れ、海を漂うような寂しさではない。本当の自己を知り、この美しい地球上に存在している間に、
自分たちが何をしようとしているのか、どこに向かおうとしているのを知るためのよい機会なのだ。
byアン・シャノン・モンロー


 


・テレビという娯楽は、数百万人の人々に同じ冗談を聞かせながら、それでいて各人を孤独のままに置く。
byエリオット


 


・孤独の寂しさが人間の心を静かに燃やしてくれる。
by前田夕暮


 


・人生とは孤独であることだ。
byヘッセ


 


・人間元来一人で生まれて一人で死んでいくのである。
大勢の中に混じっていたからって孤独になるのは、わかりきったことだ。
by田山花袋


 


・我々はみな真理のために闘っている。
だから孤独なのだ。寂しいのだ。しかし、だから強くなれるのだ。
byイプセン


 


・孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の”間”にある。
by三木清


 


・社会が性格にとって有益なものであると同じように、孤独は想像力にとって有益なものである。
byローウェル


 


・自ら進んで求めた孤独や他者からの分離は、人間関係から生ずる苦悩に対してもっとも手近な防衛となるものである。
byフロイト


 

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