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徽宗皇帝のブログ

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被害者の共犯性(「海坊主」氏の名論文)
久しぶりに藤永茂氏(私は「博士」という称号を好まないので、こう書いておく。)の「私の闇の奥」を読んで、そこで紹介されていたコメントを読むと、どれも素晴らしい内容で、下の記事などは、「世界の本質」を見事に剔抉した名論文だと思う。あえて端的に言えば、「被害者も支配(犯罪)の共犯者である」と言えるだろうか。名前は忘れたが、或る人の言った「自発的隷従」のひとつの形と言えるかもしれない。

(以下引用)私が赤字にした部分が「被害者の共犯性」の部分である。

効率が優先される社会はその生みの親をも奴隷化する (海坊主)2018-06-10 13:52:33


 『アメリカン・インディアン悲史』を著わした藤永先生だからこそ表象し得る視点だと思います。

 クローバー一家のような正常な感性を持つ人々の思いが大多数を占める同胞たちに共有されず、「彼らを根絶やしてしまえ」へ思考が行き着いてしまうのは何故なのでしょう。「全ての人間は等しく基本的人権を有する」と、世界人権宣言で公式に認めたこの国際社会の中において、セトラー・コロニアリズムが現在に至っても健在なのは何故なのでしょう。

 セトラー・コロニアリズムやジェノサイドを遂行する者が心底から邪悪だからなのでしょうか。それともアメリカン・インディアンやアボリジニ、アイヌ人、パレスチナ人にはその報いを受けるべき明白な理由があったからでしょうか。


「収奪と弾圧の現実は富と権力が集中化するシステムの中心からは見えにくくなる」

 富と権力が中央に吸い集められる社会システムが確立されると、富が蓄積されるその構造がさらに効率化され、君臨する者たちの目には過酷な収奪のその現実は見えにくくなります。権力の行使が富という利潤として帰ってくるのをニンマリ見届けるのみとなります。よい=ノラや様のコメントにありましたが、カトリックの司祭ラス・カサスによって『インディアスの破壊についての簡潔な報告』が本国に提出されるまで、中南米で残虐の限りを働いたスペイン軍の所業が伝えられなかったように。ベルギーのレオポルド2世の私領『コンゴ自由国』で行われた恐るべき所業に対し、国王本人は罪悪感を全く持たなかったように。そしてエドモンド・モレルやロジャー・ケースメントの告発がなければ、国際社会(とその支配者層)はその恐るべき収奪の現実を見て見ぬ振りしてきたように。三角貿易のその高い利回りばかりが議論され、奴隷化された黒人たちの命は全く顧みられなかったように。
 奴隷制を最初に廃止したその国は奴隷貿易で最も利益を得た国でもありました。つまり、富の最大化が全てに優先される社会に行き着いてしまうのです。


「権力への従属教育(洗脳)・訓練(馴致)は残虐な行為に対する免責を錯覚させる」

 エルサレムのアイヒマンの例を挙げるまでもありません。法令化・厳格化によって実行者本人の意思が行為に介入することが許されなくなると、上からの命令を忠実に実行することが唯一の自己保身の手段となります。つまり、忠実に業務を遂行することで免責されているという錯覚に自ら浸るのです。米国では、富の収奪であり先住民の絶滅行為でもあった西部開拓を『明白な使命(Manifest Destiny)』と称して正当化し、開拓者たちを罪の意識から巧妙に目を逸らさせていました。現在なら『保護する責任(R2P: Responsibility to Peace)』がその役目を担っていると言えるでしょう。

 チャールズ・ダーウィンの進化論が蔑視、差別を促す思想に援用されたという事実も重要です。「西洋人、白人は優れた人類であり西洋文明は優れた文明である」という思考が出来上がると黒人、赤人、黄色人を劣った人種へと突き落とされました。白人がアラブ世界の奴隷とされた時代がかつては存在しましたが、その恥辱の歴史は巧妙に隠されました。劣った民族・人種を文明化するという使命を掲げたヨーロッパ人は、その運営コストが掛かりすぎる事に気づくと、彼らを絶滅するか、あるいは潰せないほど大きな場合は、インドのように現地人を統治機構に組み込んで彼らを共犯関係に陥れました。残虐な行為の実行を現地人に任せてしまうことで現地に派遣されたヨーロッパ人は自らの手を汚さず罪の意識を持たずに済んだのです。アフリカ大陸でも白人自らが奴隷狩りをして黒人達をかき集めていた時代が過ぎると、銃器などを現地の黒人国家に売り捌いて奴隷狩り自体を現地の黒人国家に委託するようになりました。
 これらの仕組みは現地の同胞に裏切り者という大いなる悲劇を生み出しました。


「構築された収奪・弾圧システムはその生みの親たる人間をも束縛する」

 システム化された収奪・弾圧の構造は下層の民衆から権力者に至る全てを束縛すると私は考えます。平和で、安全で、豊かで便利な社会を失うのを恐れるあまり、その永続性を求めてシステムへの依存度をさらに高めてゆくことでしょう。そうした社会内部は全体主義に陥っていると言えるのではないでしょうか。全体主義的空気を醸成するため、マスメディアは一見重要と思えないニュースを垂れ流し、3S政策を持って人々の関心をそちらに向け、このシステムの問題に気づかせないように煙幕を張っていると私は思います。
 その空気の中に生き続ける人々はシステムの永続化を担う者たちとなり、異質な者、異論を発する者、抗議活動をする者、事実を伝える者に対して嫌悪を呈し、憎悪するようになるだろうと思います。その上、そのシステムの永続化を選択した自らの責任を棚上げにして「自分たちは知らなかった」「自分たちは騙された」と平然と言い逃れをするでしょう。そうしないと自らを守れないからです。
   
 最後になりますが、負の連鎖としか形容しようのない悲劇を繰り返すことが出来るのは、行為を正当化する非科学的な論拠を生み、かつその論拠に自らが適用され得ない優越的地位に自らを平然と置ける自己中心主義・ご都合主義に何の疑問を持たず支持してしまう、自らの頭で考えて判断しない人々が多数を占めているからか、あるいはそれに対して声をあげて異議申し立てする人々が少数だからでなのしょう。

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