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徽宗皇帝のブログ

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近代政治の限界とその超克


近代政治の限界とその超克



 


 


近代政治の限界とは民主主義の限界であり、議会制民主主義(代表制民主主義、代議制民主主義)の限界であり、三権分立制の限界である。


この限界が現代の政治的世界の混迷を招いているというのが私の考えである。


「民主主義」と「三権分立」ははたして現代において有効に機能しているか? 言うまでもなく機能していない。


では、それが機能しないのはどういう根本的欠陥がそこにあり、それをいかにすれば変えられるかを問わねばならないだろう。


現在の政治世界についての私の考えは、二つ。


 


1)現行の代議制によっては民主主義は不可能である。現実には主権は民衆(国民一般)には存在せず、一部の人間(経済的特権階級)が政治を支配し、さらに情報を支配することで「偽りの民主主義」を形成している。


2)「三権分立」も偽りであり、現実に存在するのは「行政(官僚)による立法と司法の支配」である。(これは論ずるまでもないだろう。)


 


では、なぜそうなるのか。それは大資本(経済的特権階級)というものは自らの利得と安寧、永久的支配のためにあらゆる手を尽くして政治に介入するからである。具体的には、官僚上位層と中心的代議士を買収し、あるいは入手した悪事の情報を利用して彼らを恫喝し、脅迫して行政と立法と司法の中枢を操るようにするのが常であるからだ。


これは資本主義世界の必然である、と私は考える。


もちろん、官僚や代議士の買収はれっきとした犯罪である。だが、裁く側が犯罪者(買収された者)であるのに、それをどうして裁くことができるだろうか。ここに資本主義は必ず腐敗するという根本原因がある。すなわち、権力を持つ存在は法を超越するという単純な理屈である。権力を裁くのは「新しい力(お題目ではない本物の力)」しかないのだ。たとえば革命。


法によっては権力を裁けない。これが法治主義の限界だ。ここに暴力革命論者の生まれる理由がある。しかし、革命によって誕生した政権が新たな悪の温床になる例を我々はいやというほど見てきた。ほとんどの場合、暴力革命は名目上の支配者を変えるだけで、陰にいる真の支配者は変わらないのである。金の魔力はやがて新政権を腐敗させていく。


では、政治を根本的に変革する方策は何も無いのだろうか。


それはある。しかも日本だけにあるのではないか、というのが私のいまだ熟さない思想である。


 


「権力」と「権威」をまず区別しよう。政府の持つ力は基本的に「権力」である。権力とは他者を有無を言わさず従わせる力で、これは政治においては法律と、軍隊・警察などの「暴力装置」から形成される。現実にはその下部組織や別働隊としてのヤクザや右翼団体もある。身近なところでは町内会などですら権力の末端組織と言えるだろう。


「権威」とは何か。権威を持つ存在への尊崇の念に基づく精神的な支配力である。その力は「権威的存在」の人格の高さに由来する。であるから、総理大臣や大企業社長には「権力」はあっても「権威」は無い。人々は彼らの「暴力装置」と「金」と「地位」の力には屈従するが、陰では彼らをせせら笑い、軽蔑すらする。彼らの人格の低劣さは誰の目にも歴然としているからだ。もちろん、これは現在の日本の話であり、世界の中には政治的指導者が人格的にも尊敬すべき人間であることが稀にはある。だが、そうした政治家が出現するのは偶然的な現象でしかない。そして、繰り返すが、非常に稀なことなのである。その理由はやはり「権力」の闘争の中で勝ち上がるには真っ白な人格のままでいるわけにはいかないからだ。多少の悪を秘めていても、政治の基本が人民の幸福を向上させることであるならば、その政治家は高く評価すべきだがそういう人物は本当に稀にしか出現しない。


プラトンは『国家』の中で民主主義を否定し君主政治を肯定した。ただし、その君主が「哲人」である場合のみ、である。その哲人を君主として育て上げる方途についても書いてあったと思うが、覚えていない。


ところで、日本という国には天皇という存在がいる。(この言葉を出した時点で、後を読まなくなる人も多いだろう。)


天皇家内部でどういうような教育が行われているか、私はもちろん知らない。だが、今上天皇の、伝えられたこれまでのあらゆる言動を見る限り、聖人とはこの人か、と思うのである。しかし、これは今上天皇が「権力」から離され、「国家統合の象徴」として恥ずかしくない行動だけをしようと心がけてきた結果ではないだろうか。かりに昭和天皇と同様に「権力」をも持っていた場合、権力の毒が彼(か)の人の人格を変えたかもしれないのである。


権力の毒に汚染されないようにして、権威の力を政治に生かす方策は無いか、と考えた時に、私が思いついたのが


 


「天皇に重要政治問題に関する拒否権を持たせる」


 


という新しい政治システムであった。つまり、衆議院、参議院で通った重要法案は、最後に天皇の「勅許」を得て成立する、というシステムだ。


「勅許」を得られなかった場合、国会解散、総選挙となる。(それが内閣提出法案なら内閣総辞職、法務省官僚更迭だ。)こうすれば、日本という国家自体が主権を失うようなTPP関連法案や、日本を戦争に巻き込む憲法改悪について天皇が賛成することは考えにくい。もっとも、天皇が代替わりした場合、その天皇がまた「哲人」や「聖人」であるかは分からないが、おそらく天皇家に伝わる「日本という国への天皇の責任」は、金で簡単に動かされる官僚や代議士とはまったく別のものだろうと私は想像している。でなければ、あんなに見事に自らを律し、不自由な生活に甘んじているはずはない。


 


 


今のところ、私が考えているのはここまでだ。なお、「世相を斬る」のあいば達也氏も私と同様に「天皇に拒否権を持たせる」という考えをお持ちのようである。私だけが馬鹿な夢想をしているわけでもなさそうだ。


 


わざわざ説明するまでも無いだろうが、なぜ「拒否権」かと言えば、これは代議制民主制によって形成される権力悪へのチェックと抵抗だからである。自らの利得に資するために政治家や官僚は様々な法案を作る。このシステムにおける「拒否」とは権力の不正への防波堤なのだ。


弁証法的な「正→反→合」を政治システム化したものとも言える。


この「拒否権」は権力の一つだと見る人もいるだろう。だが、かりにこの拒否権が国民に同意されるとしたら、それは拒否権を行使する者への尊崇と信頼によるものだろう。それを私は「権威」と言うのである


 


これが「民主主義と哲人政治の合体」という私の考えである。


 


今の国会も内閣も有害無益な人間、あるいはただの馬鹿ばかりである現状は、人民も馬鹿ばかりであることを示している。これが代議制民主主義の現実だ。それは日本だけのことではない。多少ともましな国は一種の君主制に近い国、いわば独裁国家に近い国だけなのである。しかし、普通の独裁国家は民主主義国家以下である。それは、たいていの独裁者が人格低劣であるからだ。独裁者が人格高潔ならば私はその独裁者に喜んで統治を任せたい。だが、些末な政治事項には代議制民主主義で十分だ。


自分が馬鹿であることを知って、信頼できる人物に判断を任せるということは賢明な行為ではないだろうか。今の「偽民主主義」政治は、馬鹿と悪党に政治を委ねているだけだ。


 


 


 


 


12月21日 冬至の前日に記す。日本の「一陽来復」を期待して。






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