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徽宗皇帝のブログ

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「いとしい」と「かなしい」
引用部分は「谷間の百合」ブログから転載。
例によって思いつきとうろ覚えの記憶で書くので、知識部分の内容の不正確さはあらかじめ保証しておく。
沖縄の昔の女性の名前で「カナー」というのがあるが、それには「愛」という字が当てられていたと記憶する。たしか、田舎芝居の看板か何かで見たと思う。で、その「カナー」というのは日本の古語の「かなし」から来ており、その「かなし」は「愛し」とも表記され、実際「いとしい」という意味もあったようだ。つまり、「いとしい」と「かなしい」は親戚だ、ということだ。pity akins to love.(夏目漱石『三四郎』参照)みたいなものだが、それよりも意外な組み合わせにも思えるだろう。
だが、これは意外でも何でもない。
我々が「悲しい(哀しい)」と思うのは、我々が「いとしい」と思う存在が失われる時である。そして、想像力の優れた人は、「いとしい」物(者)を見た時に、それが失われる時のことがすぐに念頭に浮かび、「かなしみ」を感じるのである。特に、命のはかない存在を見た時はそうである。
そうしてみると、日本語が「かなし」の中に「愛しい」と「哀しい」を籠めたのは実に優れた感覚だな、と思う。原因と結果の短絡・一体化という点では英語のwantに「欠乏」と「欲求」が籠められたのと似ているが、それよりは芸術的で美的である。

まあ、こんなゴタクを述べるのは私が芸術的感性に乏しいせいであり、蚊を見たら叩き潰すことしか考えない人間ではゆすり蚊を見ても皇后様のような感情など絶対に浮かばず、その短歌を読んで谷間の百合さんのような深い感銘を受けることもない、ということになるのだが、そういう精神が存在することは十分理解しており、そうした精神に敬意を持つだけの想像力と品性はある、というのが私のせめてもの自負である。

念のために書いておくが、私は「揺すり蚊」というものは「多分あれだろう」という程度にしか知らない。それが一般の蚊のように人血を吸うものかどうかは知らないのである。私の知識の9割9分は本などから得た、実体と結びつかない知識にすぎない。


(以下引用)


いのちあるもののかなしさ 早春のひかりのなかに揺すり蚊の舞う

わたしは皇后陛下のこのうたを思い出すたびにかなしみが突き上げてきます。

いのちあること、生きていることは喜びであると同時に、いのちあるがゆえに不幸や悲しみを負っている人たちがたくさん存在することでしょう。

いのちさえなかったら、こんなに苦しむこともないといのちを呪っている人の存在も、自分に経験がなくても想像することはできます。

かなしいことです。



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