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徽宗皇帝のブログ

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革命者キリスト(4)
第四章 ユダヤ教と旧約聖書

ユダヤ教は、言うまでもなく、ユダヤ民族の民族宗教である。従って、その神はユダヤの神であって、その事は旧約聖書の中で繰り返し明言されている。この神は当然ながら他の民族の神々をすべて拒否し、のみならず他の神々を信ずる部族を滅ぼせと命令している。もちろん、他の部族のすべてではないにせよ、敵対する部族がある場合には、その部族の全てを殲滅せよ、と命令するのである。こうした徹底性が、ユダヤ教の特質であり、このユダヤ教的性格のままでユダヤ教が世界宗教になることが不可能だったことは自明である。
ユダヤ教は、地中海東岸の地方に住む民族の中から生まれた宗教で、その思想の特徴は「神との契約」にある。つまり、ユダヤ民族は神との契約によって選民となったということだ。この契約は双務的なものであり、ユダヤ民族は、神の与えた法と、預言者を通じて任意に与えられる神の言葉に完全に従わねばならない。その代わり、神は世界をユダヤの民に支配させるというものだ。ただし、ここで言う世界は、地中海地方一帯程度のイメージだったと思われる。(世界の創造主たる神と民族の神の矛盾については後記)
旧約聖書以外にも、ユダヤ教の聖典はあるし、むしろ他の聖典(タルムード等)の方が重視されていると言う人もいるが、旧約聖書を読むだけでも、ユダヤ教の根本は分かる。
旧約聖書は創世記から始まるが、これは地中海地方の伝説の集成であり、たとえば大洪水の話などはメソポタミア地方の神話にほとんど同じものがあるそうだ。とにかく、ユダヤ教の特質は、世界が一人の神によって作られたとしたところにある。そして、そのように世界全体を作ったはずの神でありながら、その神はユダヤ民族のことしか頭の中にないこと、他の民族に対してはむしろ敵対的な神であること、ユダヤ民族の危機に際してはその神はほとんど無力であること(そうした際に預言者が言う言葉は、「民の神への不信のためにそうなったのだ」という言い訳が常である。)などの特徴がある。
例の、バベルの塔の話の前に、「世界は一つの言葉を使っていた」とあり、バベルの塔を建てて天に至ろうとする人類の野望を妨げるために、神が人々の言葉を様々な言語に変え、彼らを世界中に分散させたとあるから、神は人類全体の神であったはずだ。だが、その話の後、急に、神がアブラムという男に命じて、父祖の地(カルデアのウルという所)を去って約束の地に行け、と命じる。そこを将来のユダヤ民族のための土地にしようというわけだ。旧約聖書では、このアブラム(後にアブラハムと改名)がユダヤ民族の祖となっている。このあたりから、全世界の神がなぜかユダヤの神になってしまうわけだ。
アブラハムは、お前の息子を神への生贄にせよという神の理不尽な命令に対して従順に従ったという「信仰心」のためにユダヤの祖となったとされている。つまり、ユダヤ民族とは、我が身可愛さのため(かどうかは知らないが、そのようにしか見えない)に息子を殺そうとした男の子孫であるようだ。ついでながら、旧約聖書の基本精神の一つは、子供は父のために犠牲にしてもよいという思想(家父長思想)である。たとえばソドムとゴモラを神が破滅させた際に、神の使いを守るために、ロトが自分の二人の娘(処女の保証付き)を暴徒の手に引き渡して自由にさせる、つまり強姦させるという記述がある。これに類した話は他にも沢山あったはずだ。もちろん、これは父のためにではなく、「神のために」子を犠牲にしたということだが、ではなぜ神のために子供を犠牲にするのかと言えば、結局は自分のためである。父と神の同一視が旧約聖書の特徴だとも言える。
ユダヤ教は、神の権威をバックにして家父長の権威維持を図った思想という側面がある。実際、「父の祝福」や「父の呪い」の持つ神聖さや威力は、神のそれと相似である。それはまるで、戦前の日本の父親が、家庭の小天皇であったのとそっくりだ。旧約聖書では、父の命令だというだけで、どのような理不尽な命令も絶対的なものとされるのである。

ユダヤ教の神が、人類全体の創造者でありながら、なぜユダヤ民族だけの神になったのかという、その根拠、つまり、なぜアブラハムが選ばれたのかという理由は旧約聖書の中では述べられない。吾が子イサクを神への生贄に差し出したのは、これは最後の試験のようなものであり、アブラハムを最初に選んだ理由ではない。その前に、神はなぜかアブラハムを選んで約束の地に行かせているのである。
取りあえず、エホバは人類の神から、ユダヤの神という立場に成り下がった。だが、この神はけっしてユダヤ民族を助けたりはしない。せいぜい、ジェリコの戦いという他部族との戦いの時に、ラッパの音で城壁を破壊する「奇跡」を見せたくらいである。(もちろん、ラッパを合図に、中に潜入していたスパイが城門を開けたことの比喩に決まっているが。)他部族と戦うか戦わないかという選択の理由も神は明確には示さない。他部族との戦いを命じる時には、ただ「彼らは神の目の前に悪しかりき」というあいまいな根拠しか述べられないし、その戦いでユダヤ民族が敗れた場合は、今度はユダヤの民は「神の目の前に悪しかりき」と言われるだけだ。神への不信心のためにユダヤ民族は罰されたのだという言い訳である。神とは、まことに便利な口実だ。ここから分かるのは、ユダヤの神とは、ユダヤの指導者層が自分の部族を支配するための装置でしかなかったのだろうということだ。
つまり、神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのである。
だからどうだと言うことではない。ヴォルテールも言うように、神がいなければ、作る必要がある、という考え方もできる。問題は、神が善用されるか、悪用されるかということだけだ。文明の初期には神や仏への信仰は社会秩序の維持に役立ってきた。はたして現代ではどうか。キリスト教国家アメリカは果たして、世界にとって善の存在か。そして、ユダヤ教国家イスラエルはどうか。

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