"革命者キリスト"カテゴリーの記事一覧
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第二章 キリストという呼称について
キリストとは救世主の意味であり、個人名ではない。個人名としてはイエスまたは、その出生地名と共に、ナザレのイエスと言う。英語読みならジーザスだ。
ではキリスト、つまり救世主とは何か。現在の人々が想像するような、世界全体の救済者のことではない。これは、イエスの十字架上の刑死の後、イエスこそが「キリスト」であったという考えが広まり、それが世界全体の救済者というイメージになったのである。イエスの生きていた当時の「キリスト」とは、ユダヤ民族の救済者ということである。だから、イエスの裁判では「キリスト誇称」が彼の最大の罪とされたのである。
ではなぜユダヤ民族を「救済する」必要があったのか。それは、ユダヤがローマ帝国の支配下にあったからである。それ以前にもエジプトでの奴隷的生存やバビロン捕囚の時期があり、ユダヤ民族は民族として独立できていた期間が短く、常に、他民族の圧迫の下にあったので、彼らにはいつの日かユダヤ民族を救い出し、「この世の王国」を打ち立てる人物が現れるという期待と信仰があった。
注意したいのは、「この世の王国」とは現実の国家であり、精神的なものではなかったという点だ。イエスにキリストであることを期待した人々は、彼がローマへの反抗の指導者、つまり独立運動の指導者か革命家であることを期待したのである。PR -
第一章 旧約聖書と新約聖書
まず、聖書をどう捉えるかだが、簡単に言えば、旧約聖書はユダヤ教の聖典であり、新約聖書だけがキリスト教(「キリスト教」すなわち、後の変質したキリスト教とは区別する。)の聖典である。ただし、キリスト自身は実は自分がキリスト教という新しい教えを教えているつもりはなく、腐敗したユダヤ教を改革しようという「宗派内改革者」のつもりであった。だから、彼の教えの中には旧約聖書からの引用が無数にある。
しかし、彼自身のそうした意識とは裏腹に、彼の教えは旧来のユダヤ教とは水と油ほどにも違っていた。その最大の点は、「神」の性格である。「旧約」の中の神には、キリスト教の神のような愛と寛容の性格は無い。狭量で、怒りっぽく、残酷で不合理な性格の神だ。一言で言えば、困った性格の神様だが、では、キリスト教の神が正しいかと言うと、これもキリストがそう空想しただけのことだからどちらが正しいとも言えない。
「旧約」の中には、果たしてこれは一神教かと疑わせる記述などもあるが、とりあえず、ここではユダヤ教もキリスト教も一神教だという前提で話を進めていく。 -
イエスと「キリスト教」(キリスト教の政治的歴史)
概説
最初に中心思想を述べておく。
イエス・キリストと呼ばれた男、ナザレのイエスは、ユダヤ教を改革しようとして当時のユダヤ教指導者たちの手で始末された男である。その思想は当時の厳格な儀式典礼主義のユダヤ教を批判し、より精神的なものにしようとするものであった。
キリストは神の子ではなく、その死後に布教のために神格化された人物である。教会によってキリストの教えも変質した。その過程がここで論ずる事柄の中心であるが、それにはユダヤ教との関連、そしてローマ帝国との関連が重要である。
現在の「キリスト教」の土台は、キリストの死後100年の間に、その教えを元にして形成された。新約聖書の中にある四福音書の中の、キリストの言葉そのものが、純粋なキリストの教えであり、それ以外の記述、たとえば様々な「奇跡」は、キリストの神格化のために、記述者が付加したものである。たとえばキリストの「死後の復活」も伝道のための作り話である。そうした不合理性を除去した後に残るものが真に重要な「キリストの教え」である。(ドイツのブルトマンの「聖書の非神話化」の主張も同じ趣旨だろう。)
キリスト教はさらに「キリスト教(あるいはユダヤ教)」という一神教をローマ帝国の国教に採用しようと考えたローマの手によって変質させられた。つまり、現在の「キリスト教」は、「ローマ化したキリスト教」であり、その土台を作ったのはパウロである。パウロは熱心なユダヤ教徒であり、最初はキリスト教徒を迫害していたが、ローマからの指令によって(?)「新キリスト教」オルグ活動家となった人物である。この人物とローマ帝国の力によってキリスト教の世界宗教への道が開かれた。ローマがユダヤ教ではなくキリスト教を選んだのは、民族宗教色が強すぎるユダヤ教よりも、精神性や内面性を重視するキリスト教のほうが、ローマ人も含めて他民族を折伏し、吸収するのに向いていたからである。大事なのは、「一神教」の持つ「絶対性」であった。あるいはマルクス用語で言う「歴史的必然」と言ってもいい。つまり、「最初から正義はこちらにあり、勝利は約束されている」とする思想だ。なぜなら、他の宗教の神々が「世界内存在」であるのに、一神教は世界そのものを作った神であるから正義と勝利は保証され約束されているのである。(そうした超越神、創造主という存在と、この世の悪の存在の矛盾は、とりあえず無視すれば良い。)
キリスト教がローマ・キリスト教(国教化以前のこの段階ではローマンカソリックとはまだ言わないほうがいい。)となった頃に、キリストの教えがアレンジされ、福音書も作られた。ローマ教会によってそれまでのキリスト伝承が整理され、正典(カノン)と外典が区別された。本来のキリストの教えが正典と外典のどちらにあるかはわからないが、外典を一般大衆が目にする機会はほとんど失われ、「キリスト教」批判の契機も失われた。
ローマ・キリスト教がローマンカソリックとなっていく過程で、さらにユダヤ教への退化が生じ、現在の「キリスト教」に近づいていった。さらに、様々な教父たちによってキリストの母の神格化や三位一体説、原罪説などが加わり、ローマンカソリックという異様な「キリスト教」が出来上がった。その異様さは、かつてイエス・キリストが憎んだ「因習的ユダヤ教」とそっくりである。その因習的な部分とローマンカソリックの腐敗した上層部への反撥が宗教改革を生んだ。しかし、その新教もまた「聖書」に依拠する限りは、キリスト本来の教えと一致することはありえなかった。キリストの教えを純粋化するには、聖書中のキリストの発言のみを抽出する必要があったのである。もちろん、それすらも記述者によって歪められたものではあるが、それでもその教えの革命性は明らかである。
結論的に言えば、世間で言う「キリスト教」は、「キリストの教え」では無い、ということだ。キリスト本来の教えは、共産主義に近いほどに、この世の富と栄華を否定する思想であるから、資本主義社会とは両立できない思想である。その資本主義の牙城のアメリカが「キリスト教」国家であるなら、それは「キリストの教え」とは別のキリスト教でしかない。同様に、「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬をさし出せ」という、許しと寛容の教えがあの残虐な十字軍と両立するはずはない。そこには、ユダヤ教独特のダブルスタンダードの思想、つまり、「自分の民族に対しては倫理を守れ、だが、異民族に対してはあらゆる悪が許される」という選民思想がある。ユダヤ民族を白人種に変えれば、これが西欧国家や西欧人種の気風でもあることは、近世近代現代の歴史に明らかである。
「キリスト教」は、西欧人の考えの土台である。したがって、その思想がキリスト本来の思想といかに異なるものであるかを西欧人たちが知れば、(つまり、自分たちがキリスト教だと信じていたのは実は変装したユダヤ教であることを知れば、)彼らが自らを反省し、あるいは西欧の貪欲によって破滅しかかっているこの世界が救済される可能性への道が開かれるかもしれない。そのためにも、この論が書かれる必要性があると私は信じる。
あらかじめ言っておくが、この論への批判は、その本質的部分への批判のみに願いたい。つまり、現在の「キリスト教」は、はたして聖書の中のキリストの言葉と一致しているかどうかということだ。その点での反論はおそらく不可能だろう。現在の「キリスト教」社会ほど非キリスト教的な社会も存在しないだろうからだ。それ以外の部分は、遥かな過去の時代についての推測にしかすぎない。歴史そのものが、勝者の歴史でしかない以上、後世の人間にできることは、歴史的記述について合理的判断を心がけることだけだ。もともといい加減なものでしかない歴史的記述や資料の細部の取り扱いにいちいち文句をつけられるのは御免である。
2008年11月23日記