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メモ日記トゥディ「知識と教養」 10.5.15

昔、福田和也と佐藤亜紀と松原何とかいう大学の先生か何かの鼎談を読んで、その三人が何でも知っていることにあきれたものだが、もちろん、これは鼎談の後に手を加えて、そう見えるようにしてあったのだろう。しかし、そういう部分を割り引いても、この三人の「知識」はすごかった。
しかし、では彼らの発言に感心したかというと、それはあまり無かったのである。つまり、彼らにとっての知識はただの防護服でしかなくて、他者から攻撃された時に、「俺は(私は)これだけ本を読んで、これだけ知っている。お前は議論の前提となる基礎知識も無いくせに、俺と(私と)議論しようとはおこがましい」と撥ねつけるための知識ではないか、という印象を受けたのである。実際、現代において「知識人」であるということはそういうことだろう。
知識人であることには別に国家資格は要らないが、常に他人からその知識レベルを量られていて、一つ間違えば(つまり、馬鹿な発言をすれば)一気に知識人の座から転落してしまうという因果な商売なのである。まあ、「知識オタク」とでもいうべき連中だろう。もちろん、彼らは「知識人」を自称しているわけではないが、その発言内容が自分の知識を誇示することにエネルギーの大半を向けているように思われるから私は彼らを「知識人」と認定するわけである。
つまり、はっきり言えば、本当の教養人だとは思えないということだが。
本当の教養人とは、幅広い知識と教養を持っているだけではなく、その発言の一つ一つがその教養に裏付けられた重みがあるという人間である。教養とは、様々な事象についての知識が、その人間に完全に消化され、肉体化したものだと言えるだろう。前に挙げた三人の発言にはそういう重みは感じられなかった。まあ、それはもちろん、こちらにそれを理解するだけの教養が無いせいでもあるが。
三島由紀夫は、小説家としてよりは批評家としての才能が優れていた人間で、彼の評論の中には、それを読む人間の視野を一気に広げるような素晴らしい思想や知識が溢れていた。たとえば彼が「見渡せば花も紅葉もなかりけり……」の歌の「二重性」、つまり現実の情景と幻想の情景の二重性について述べたことは、その後、多くの文芸批評家が無断使用している。私が山崎正和をあまり高く評価しないのは、この「他人の発想の無断使用」のためである。
この三島由紀夫や、澁澤龍彦などが、いわば大衆の知的水準を高めてくれた日本の精神的恩人であり、そうした人間が昭和の時代にはたくさんいたのである。そういう意味で、平成という時代は、教養人の時代ではなくなったという気がする。

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