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徽宗皇帝のブログ

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メモ日記トゥディ「良心的兵役拒否について」 10.4.12
今朝の夢の中で、啓示を受けた、というか、思いついたことだが、この世界から最終的には戦争を無くす簡単な方法があった。もちろん、すぐに戦争が無くなるわけではなく、時間はかかるのだが、100年後には全世界から戦争が無くなる可能性もある。
それは、あらゆる国の憲法に「良心的兵役拒否」の条項を入れるという運動を起こすことだ。これは不可能な話ではなく、アメリカの法律では、かつてはそれが可能だったはずだ。あるいは、現在でも可能なのかもしれないが、それが機能していないなら、それを機能させる手段を講じればよい。
生活の手段として兵役に就く貧困層の存在は、堤未果の「貧困大国アメリカ」に詳しい。それへの対策は別に考えよう。だが、そうでない層の中からも「良心的兵役拒否」をする人間が増加してくれば、国家は戦争遂行が困難になってくる。
では、相手国だけが有利になって、自分の国が征服されるではないか、と小林よしのりあたりが言いそうだが、「喧嘩をするには二人の人間が必要」なのであり、戦争とは、両国に戦争をさせようという支配層の意図で起こるものである。一方的な侵略と無抵抗による征服の事例が、歴史上あっただろうか。いや、あるにはあるが、それはピサロやコルテスによる中南米征服という西欧民族による他民族への侵略と征服の歴史である。
未開文明に対する「文明国」の侵略は、生活水準はさておき、知識水準が全世界的に上がった現在では生じにくいと見てよいだろう。存在するのは「文明対未開」ではなく、「軍事大国対軍事弱小国」の問題だ。そこで、「軍事大国」の中で、良心的兵役拒否の運動を起こすことで「戦争エンジン」をだんだんと弱体化させていくのが、この提言の意図なのである。
もちろん、兵役拒否者には、兵役以外の形で国家への奉仕を義務づけるということはあっても良いだろう。だが、自分は断固として人を殺したくない、という人間に殺人を命令するということがあってよいものだろうか。戦争ではそれが当然だという我々の「常識」ははたして絶対的なものだろうか。
いや、それ以前に、国家という存在は、はたして、個人の上に立つ存在なのか。国家という抽象概念が、なぜ私に命令できるのか。国家と呼ばれているものの命令は、ただ一部の人間の意志ではないのか。
こうした疑問を考えるなら、「国家主義」と全体主義とはほとんど同一であり、真の民主主義とは個人の尊重のことだと分かる。「人の生命は地球よりも重い」などと馬鹿なことは言わないが、私はあえて言う。「人の生命は国家よりも重い」と。

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